江戸歌舞伎旧跡散策・その5
「髪結新三」の閻魔堂橋
*江戸歌舞伎旧跡散策・その4:八百屋お七の史跡の続きです。
「梅雨小袖昔八丈」(髪結新三・明治6年東京中村座)の大詰・深川閻魔堂橋の場で、髪結新三に恥を掻かされたのを恨んだ弥太五郎源七が待ち伏せして新三に斬りかかります。結局、新三は源七に殺されるのですが、その直前で幕になります。ところで芝居に出てくる閻魔堂橋というのは、深川のどの辺にあったのか。そう云えば深川にはえんま堂があったなあと思って、ちょっと散歩に寄ってきました。
深川閻魔堂と云うのは、深川法乗院にあるえんま堂のことです。芝居で「閻魔堂橋」となっているのは、実際には富岡橋と云いました。法乗院(深川えんま堂)は寛永6年(1629)創業の真言宗豊山派の由緒あるお寺(江東区深川2丁目)で、江戸町人には「深川のえんまさん」として親しまれて来ました。えんま堂には、日本最大級の閻魔大王の座像が安置されており、本堂一階には江戸時代に描かれた地獄極楽絵が展示されています。
下の写真は、大正期の二長町市村座での「髪結新三」・閻魔堂橋の場です。六代目菊五郎の髪結新三、初代吉右衛門の弥太五郎源七という今でも語り草となる配役。
下は現行の「髪結新三」・閻魔堂橋の場の舞台面ですが、川がまるで大川(隅田川)のように見えますねえ。間違いと云うわけでもないですが、江戸の昔の街並みの記憶はもう遠いものになってしまいました。
御存知の通り、江戸の下町は太平洋戦争の空襲で壊滅的な被害を受けました。さらに戦後再開発の区画整理で様相がすっかり変化してしまいました。現在の周辺の区画割り、 海岸線・橋や道路の位置など江戸時代とはまったく変わっています。江戸の昔の面影を追うのは難しくなりました。それでも探してみれば何か痕跡が見付かるかも知れません。
地下鉄東西線の門前仲町から歩いてすぐ、清澄通りと葛西橋通りが交差したところに法乗院(えんま堂)があります。富岡橋を渡って、ちょうど正面右手に法乗院(えんま堂)があったわけです。これを古地図と対照して見ると、江戸の昔と現在では、区画がまったく変わってしまったことが分かります。道路の線引きもまったく異なります。昔は江戸の下町を運河が縦横に走っていて、物流に大いに利用されました。富岡橋が掛かっていた「油堀(あぶらぼり)」は、元禄期に隅田川から木場に至る運河として掘られたものです。油堀は昭和50年(1975)に埋め立てられて、現在はその上を首都高速道路が走っています。当然、富岡橋も今は存在しません。江川堀も埋め立てられて、現在は葛西橋通りになっています。
もうひとつ下の古地図で注目して欲しいのは、富岡橋の傍に「三角屋敷」と云う、文字通り敷地が三角形をした場所があることです。ここが四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」(文化8年江戸中村座初演)に出てくる「三角屋敷」・直助権兵衛とお袖が住んだところになります。
上の地図の赤丸印の交差点から首都高速道路の高架をくぐって法乗院(えんま堂)の方向を眺めたのが、下の写真です。写真中央に法乗院の屋根が見えます。実際の富岡橋はこれよりもっと100Mくらい左手にあったはずですが、芝居に描かれた閻魔堂橋からみたえんま堂は、まあ大体こんな感じの風景だったのだろうと思うことにします。先に挙げた大正期の市村座の閻魔堂橋の舞台面と比べてみてください。
下はもうすこし寄って、深川一丁目交差点にある公園から見た法乗院。
清澄通り前にある法乗院(えんま堂)。正面本堂に安置されているのは阿弥陀如来で、こちらがメイン。閻魔さまはサブです。正門入って左手に閻魔堂があります。
閻魔像は高さ3.5Mで、日本最大の大きさだそうです。(なおこの閻魔像は平成元年に再建されたものです。)賽銭箱は夫婦円満・交通安全・商売繁盛など願い事によって19に分かれて、賽銭を入れると閻魔さまからの有難い説法が録音で流れるという電気仕掛けになっています。なお法乗院で他に歌舞伎に関係あるものとしては、曽我五郎の足跡石、初代市川八百蔵(寛延年間頃・二代目団十郎門下)の墓などがあります。
*写真は平成31年1月吉之助の撮影です。
*江戸歌舞伎旧跡散策・その6:於岩稲荷と「四谷怪談」もご覧ください。
(R2・5・11)