本居宣長のお墓参りの記
昨年(平成29年)11月に伊勢を旅行しました。別稿「伊勢古市と 伊勢音頭」でもその一部を紹介しましたが、旅行の主目的は本居宣長のゆかりの地である三重県松阪市を訪ねることでした。本居宣長(享保15年・1730〜享和元年・1801)については今更云うまでもないですが、江戸中期の国学の大家です。吉之助は歌舞伎に当てはめないと 時代がピンと来ないので、近松門左衛門が亡くなったのが享保9年(1724)のこと、「妹背山婦女庭訓」などで有名な近松半二が享保10年(1725)〜天明3年(1783)なので、 宣長は近松半二とほぼ同時代の人で、半二よりも長生きした人です。役者では「娘道成寺」を初演した初代富十郎(享保4年・1719〜天明6年・1786)が同時代になります。歌舞伎がほぼ現在の形態を見せ始めた時期と云えると思います。
本居宣長は「古事記」の注釈書「古事記伝」を著して小難しい考証に明け暮れた硬派の学者のように思っていましたが、その傍らで「源氏物語」を「もののあはれ」で読み解く「源氏物語玉の小櫛」などアレっと思う軟派な著作もあって、なかなか一筋縄のイメージでは行かぬ人物です。 吉之助は「玉の小櫛」を読んで、「宣長は(彼にとっては同時代の)浄瑠璃の類が理解できるひとだぞ」と直感して、それから宣長という人物に興味を持ったわけです。そのポイントは、江戸的感性ということです。
宣長は23歳の時に医者になることを決意し京都に5年ほど遊学します。この時期に歌舞伎や人形浄瑠璃を何度か見たことを、宣長は日記に記しています。 初代富十郎の舞台を見たこともあるようです。井原敏郎の労作「歌舞伎年表」には宣長の日記を出典資料として挙げている箇所があるほどです。上記の日記以外に歌舞伎・浄瑠璃についての宣長の文章はないようですが、どうやら芝居が嫌いじゃなかったことだけは確かなようで、硬軟とりまぜていろいろ見たり聞いたり読んだりしたうえで、最後に「古事記伝」 執筆に取り組んだ人と云うことであると思います。
松阪は江戸の昔から、商人の町として栄えました。三井財閥の中興の祖である三井高利は松阪の出身。「三井家発祥の地」という碑が松阪市本町にあります。上の写真は そこからほど近い宣長の住まい跡(松阪市殿町)。 宣長は12歳から72歳で亡くなるまで、ここで暮らしました。宣長は本業としての医師を勤めつつ、著作に励んだのです。本宅は松阪城内にある本居宣長記念館の傍に移築されている為、現在は 更地で長男春庭宅とされている離れと土蔵が残されているのみです。
上の写真は、松阪城内に移築された宣長の本宅。2階に見える書斎は、宣長が学者として知られはじめた53歳の時に物置を改造して作ったもので、何か用事がある時に 家人に音で知らせるために鈴を掛けていたので、この書斎を「鈴屋」(すずのや)と命名しました。宣長の著作の多くが、この鈴屋から生まれました。国学を学ぶ者たちが宣長のことを「鈴屋の大人」(すずのやのうし)と呼ぶ由来もここから来ます。二階の鈴屋は参観できないため、上り階段から内部を覗く。
上の写真は、奥墓(おくつき)と呼ばれている宣長のお墓です。宣長のお墓としてはこちらが本墓で、町中にある樹敬寺のお墓が別墓になるようです。松阪の町並みから遠く離れた 小高い山(写真中央辺りの山)にある妙楽寺(松阪市山室町)の山頂付近にあります。妙楽寺境内から更に山道を10分ほどかけて上ります。これはホントの山のなかですねえ。ひっそりと静かな場所にお墓が一基だけぽつねんと立っています。墓は宣長が記した「遺言書」にほぼ沿った形で作られています。「遺言書」には墓の設計の他、葬式をどのように取り仕切るか細かく指定されていたそうです。それにしてもこんな遠い山奥にひっそりと一人眠りたいというのはその気持ち分からぬでもないですが、これを押し通しちゃうところも凄いとは思いますねえ。「俺に会いたい 気持ちが本気であるなら、この山中まではるばるやって来い」と宣長は言いたかったのかもね。吉之助は場所がよく分からぬので行きはタクシーで行って、帰りは町まで歩いて帰りましたが、かなりの距離でした。
上の写真は、松阪市新町にある樹敬寺の宣長のお墓。樹敬寺は本居家の菩提寺で、「高岳院石上道啓居士」(こうがくいんせきじょうどうけいこじ)は宣長が付けた戒名です。妻の戒名も宣長の命名だそうです。
本居宣長は、地元の人々から尊敬を込めて「宣長さん」と呼ばれています。写真は大正4年の創建だそうですが、宣長を祀った本居宣長ノ宮で、松阪城のすぐ傍です。学問の神様として知られています。
*本居宣長記念館のサイトは、こちら。 貴重な資料が展示されています。
*写真は平成29年11月28・29日、吉之助の撮影です。
(H30・6・24)