楠木正成と湊川神社
湊川神社は、現在の兵庫県神戸市中央区にある、楠木正成を祀る神社です。地元神戸の人々は、親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼んでいます。実は吉之助は神戸市の出身であるので、吉之助の七五三も、当然楠公さんでした。(湊川神社のサイトは、こちら。)
写真上は、湊川神社正門前。
楠木正成は南朝方の武将で、元弘元年(1331)に後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵し、鎌倉幕府討幕に大いに貢献しました。建武の新政の後、足利尊氏が反旗を翻し、九州から京都へ攻め上ろうとする尊氏の軍を、これを迎え撃つ楠木正成と新田義貞の軍が、摂津国湊川辺り(現在の神戸市中央区区)で激突しました。これが建武3年(1336)5月25日の、湊川の戦いです。尊氏軍の奇襲作戦によって、新田軍と楠木軍は分断されてしまいました。孤立した楠木軍は奮戦しましたが、圧倒的な兵力差で追い詰められて、もはやこれまでと覚悟した正成は、弟正季と「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を誓って互いに刺し違えて自害しました。
写真上は、湊川神社本殿の西北端に位置する殉節地(楠木正成戦没地)。国指定文化財史跡で近づけないので、遠くからの写真です。
以来、この地にある正成の墓は大切に守られてきましたが、元禄5年(1692)、「大日本史」を編纂して忠孝思想を広めた水戸光圀が、「嗚呼忠臣楠子之墓」に碑を建てて立派な墓所を建立して、その威徳を讃えました。これにより忠孝のシンボルとしての正成の盛名は、世間に広く知れ渡ることとなりました。そして、明治5年(1872)明治天皇の命により湊川神社が創建されました。
写真は、水戸光圀が建立した楠木正成墓所。境内の東南端に位置します。写真ではよく見えないけれど、「嗚呼忠臣楠子之墓」とあります。なお黄門さま自身は、この地を訪ねたことはないようです。
歌舞伎・文楽では南北朝時代に世界を扱った芝居は少なくありませんが、正成本人が登場するお芝居と云うと、意外と思い浮かびません。延享3年(1746)1月竹本座での「楠昔噺(くすのきむかしばなし)」くらいかな。しかし、実は陰に隠れたところに大物があります。それは「忠臣蔵」物です。江戸の人々は、大石内蔵助を楠木正成の生まれ変わりだと思っていたのです。詳細については、別稿「由良助は正成の生まれ変わりである」をご覧ください。
湊川の合戦で、正成は弟の正季(まさすえ)と「手に手をとり組み、刺し違え」て自害をして果てました。この時、正成は「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや」と誓い、「最後の一念によって善悪の生を引く」と言ったと「太平記」に記されています。
一方、寛延元年(1748)8月竹本座で初演の「仮名手本忠臣蔵・四段目」(判官切腹の場)において、塩治判官が切腹を目前に次のように言います。
「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し。湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」
ここで「忠臣蔵」の仇討ちが、「太平記」の七生滅賊の実現と重ねられていることが、歴然としています。つまり江戸の人々は、主人の無念を晴らすために吉良上野介を討った忠臣大石内蔵助を、楠正成の生まれ変わりだと直感したのです。
寛政9年(1797)に刊行された曲亭(滝沢)馬琴の黄表紙「楠正成軍慮智恵輪(くすのきまさしげぐんりょのちえのわ)」の最後に、「楠、大石と化するの図」と題する挿画が載せられています。菊水の旗を持った正成の衣装は火事装束(つまり赤穂浪士の討ち入りスタイル)であり、「正成は、塩冶の忠臣大石と生まれ変わった」と記されています。これも同じ発想に拠るものです。
*写真は、平成24年11月29日、吉之助の撮影です。