(TOP)     (戻る)

伊賀上野・鍵屋の辻訪問記


初夢に見ると縁起が良いとされるものということで、「一富士二鷹三茄子(なすび)」ということがよく云われます。これはどういう意味かと云うと、一に富士山、二に愛鷹山(あしたかやま)、三に茄子の値段ということで、これは駿河の国で高いものを三つ並べたものだそうです。もうひとつ、異説として あるのは、日本三大仇討ちのことを指すのだという説です。すなわち富士の裾野での曽我兄弟の仇討ち、次に赤穂義士の討ち入り、これは赤穂浅野家の家紋「丸に違い鷹の羽」のことを指します。三つめが、伊賀の上野の鍵屋の辻で荒木又右衛門の仇討ちのことですが、これが茄子になるとはどういうことでしょうか。

この説を分かりやすく説明した句としては、「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に上野の花ぞ咲かせる」や、「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名をなす伊賀の仇討ち」というのがあります。「名をなす」に茄子が掛け言葉になっています。つまり茄子とは、伊賀上野の仇討ちで又右衛門が本懐を遂げて、名を成した、まことに目出度いということなのですが、こじつけがちょっと苦しいという気もしますがねえ。

上の写真は、伊賀上野城の天守閣。

まあそういうわけで、歌舞伎研究者としては、伊賀上野の鍵屋の辻に一度は行ってみなければならぬだろうということで、行って来ました、伊賀上野。 上の写真は伊賀上野城の天守閣から眺めた西方向です。上の写真中央辺りの中学校のグラウンドの向こうに見えるこんもりした林の辺りが鍵屋の辻の方角になりますが、その手前にある高台が邪魔して天守閣からは鍵屋の辻が確認できません。しかし、鍵屋の辻 が当時も伊賀上野の城下町の西端の外れたところであったことが分かります。ここから伊賀上野城下からの街道が奈良へ続きます。

上の写真の左が鍵屋の辻で、伊賀上野城下から半キロほど西に行って、坂路を下ったところに鍵屋の辻史跡公園が整備されています。 ここをまっすぐに西へ向かうと奈良路、反対の東へ行くと城下町を経て伊勢路です。上右の写真は、鍵屋の辻の仇討ちの顕彰碑です。ところで嘉永9年(1632)11月7日の鍵屋の辻の決闘は又右衛門の仇討ちということで有名なわけですが、正確に云えばこれは岡山藩士渡辺数馬が仇河合又五郎を討ったものです。又右衛門は数馬の姉婿で郡山藩剣術指南であり、数馬を助太刀したのです。これが歌舞伎では「伊賀越道中双六」となったことは、ご存じの通りです。

鍵屋の辻資料館には又右衛門・数馬らの資料が展示されています。また資料館裏庭に河合又五郎首洗いの池があります。なお伊賀上野は俳聖松尾芭蕉の生誕の地でもあります(芭蕉生誕の地が記念館になっています)が、芭蕉の生年は寛永21年(1644)なのでずっと後のことですけれど、もちろん又右衛門の仇討ちの逸話は幼い時から聞いて育ったことでしょうね。

*写真は平成29年12月1日、吉之助の撮影です。

(H29・12・9)


 

  (TOP)        (戻る)