紀州・道成寺訪問記〜「娘道成寺」のふるさと
道成寺は、和歌山県日高郡日高町にある天台宗のお寺です。歌舞伎ファンにとって知らぬ人がいるはずがない、あの「京鹿子娘道成寺」のお寺です。言うまでもなく「道成寺」物は、日本芸能史での大きな系譜を 成すものです。ですから吉之助も歌舞伎研究者として訪れねばならぬと思ってはいましたが、吉之助も和歌山市までは行ったことがありましたが、出張ついでに気軽に 寄り道するという訳に行かないロケーションなのでなかなか機会がなくて、今回やっと宿願を果たしたわけです。 大阪JR天王子駅から紀勢本線を特急乗り換えで道成寺駅まで約1時間40分でした。
「道成寺」説話は平安中期の「本朝法華験記(ほんちょうほっけげんき)」第129紀伊国牟婁(むろ)郡悪女の話を起源としたものですが、実は道成寺の創建はそれよりもずっと古 いもので、大宝元年(701)、あの大宝律令が制定された年にまで遡ります。道成寺は、和歌山県で一番古い由緒あるお寺なのです。これがどうして「安珍清姫」のお話で有名になったのかは、別稿(追って掲載を予定)にて考えることとします。謡曲「道成寺」は、安珍清姫の事件で焼失した鐘を再建した二代目の鐘楼の落成の日の出来事という設定になっています。現在の道成寺に鐘楼がないことはご存じだと思いますが、何となく二代目の 鐘楼は謡曲「道成寺」の時に清姫の霊によって壊されちゃったように思っている人は少なくないと思います。そう云えば、あの時の二代目の鐘楼はその後どうなったんだ?ということを、吉之助もあまり深く考えたことがありませんでした。実は二代目の 鐘楼は織田信長の軍に焼き討ちされて焼失し、鐘はこの時の戦利品として京都に持ち去られて、今も京都の妙満寺に安置されているそうです。
上の写真が道成寺境内です。本堂の手前(写真中央)に見えているのが、「安珍塚」の碑です。その右が「鐘巻」の碑になります。伝承では、この「鐘巻」の碑の位置に 初代の鐘堂があったとされています。ですから道成寺説話で、鐘のなかに隠れた安珍を、蛇体と化した清姫が鐘に巻き付いて焼き殺したのは、この場所ということです。「安珍塚」は、鐘の残骸と安珍の遺骸を葬った場所だそうです。
下左の写真が「安珍塚」の碑、下右が「鐘巻」の碑になります。「鐘巻」の碑の 裏手に、二代目の鐘堂の跡地があります。
下の写真が二代目の鐘堂の跡地になります。謡曲「道成寺」や歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」の舞台に出て来るのは、この場所ということ になります。
本堂には、能・歌舞伎・舞踊で「道成寺」を演じた方が 、舞台の成功祈願で奉納した額が いっぱい飾ってありました。
当寺の縁起堂で、絵解き説法を聞くことが出来ました。道成寺縁起を絵巻物(これがでっかいロールペーパーで)を使って説明してくれます。紙芝居みたいなものですが、昔は、このような形で視覚を使って、民衆に分かりやすく教えを説いたものなのですねえ。現在ではこのような絵解き説法を日常的に見せてくれるのは、全国でも道成寺だけだそうです。(今回の道成寺訪問は、これを聞くのが目的であったわけです。)昔の絵解き説法では女性は業(ごう)が深い存在だみたいな説法をした時代があったと思いますが、さすがに男女同権の現在ではそういうことはありません。説法の時間は15分弱というところだったでしょうか。「仏教では「西方浄土」と申しますが、当道成寺では「妻宝浄土」と言っています、みなさん、奥さんを大切にしてください」と教えていただきました。これは当世流ということだと思いますが、大事なことですね。
ここまで来たら 、天気も良かったことだし、安珍を追って清姫が渡ったと云う日高川へも寄ってみないと気が済まなかったので、道成寺から歩いて15分くらいの日高川川岸へも行って来ました。左の写真 は、もし蛇体となって日高川を渡った清姫が道成寺山門を目指して直線最短距離で迫ったとするならば、この辺が上陸地点であったかなと思えた場所です。
「日高川入相花王」の舞台では随分大きな川に想像されますが、実際の日高川はこんな感じでありました。川の流れも静かで、ドロドロした情念のドラマとはまったく無縁の、のどかな風景ですねえ。*道成寺のサイトはこちら。(道成寺縁起絵巻を見ることができます。)
*写真は平成29年1月20日、吉之助の撮影です。
(H29・7・8)