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「一谷嫩軍記」の舞台・須磨寺訪問記


「一谷嫩軍記」の舞台・須磨浦(兵庫県神戸市)へちょっと寄って来ました。つまり源平の戦い・一の谷の合戦の戦場となった場所です。

何を隠そう、神戸は吉之助の生まれ故郷。須磨の海岸は吉之助が子供の頃によく海水浴した場所です。今も夏の須磨の海岸は海水浴で賑わうようですが、吉之助の思い出は50年くらい前の話。あの頃はポートアイランドも淡路大橋もありませんでした。海の向こうにうっすらと淡路島がかすんで見えます。この風景から歌舞伎の「嫩軍記・組討」の場面を想像してみてください。兵どもが夢の跡という風情あるでしょう。

一の谷の合戦は、平安末期の寿永3年/治承8年(1184年)2月7日に摂津の国福原および須磨で行なわれた戦いで、源平合戦のひとつ。有名なエピソードは源義経の奇襲作戦・鵯越(ひよどりこえ)の逆落しですが、もうひとつ有名なのが熊谷次郎直実と無官の大夫敦盛の物語です。「平家物語」に拠れば、奇襲を受けて海岸へ船を求めて敗走する平家方を追っていた熊谷は、沖の方へ馬を泳がせる若武者を見つけます。「後ろを見せるとは卑怯なり、返せ、返せ」と呼んだところ、若武者は馬を戻し、二人は一騎討ちとなりますが、剛勇の熊谷には到底かなわず、組み伏せられます。首を取ろうと相手の顔を見るとあまりに美しい顔立ちなので名前を尋ねると、若武者は名乗らず、「我が名は誰かに聞けば知っている者もあろう」とだけ言って、首を差し出しました。直実はためらいましたが、他の味方の兵士が近付いていて、とうてい逃れることはできまいと、涙をのんで、若武者の首をはねました。この時、熊谷は若武者の腰の笛に気付きます。その戦の朝、陣中で聞いた美しい笛の音色は、この若武者のものであったか。このことから熊谷は、無益な殺生をせねばならない戦の世に無常を感じて、後に出家を決意することになります。

JR須磨駅から山手へ徒歩10分くらい歩くと、須磨寺(すまでら)があります。正しくは上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)と云いますが、古くから「須磨寺」の通称で親しまれています。このお寺に無冠の太夫・平敦盛遺愛の青葉の笛や弁慶の鐘、さらに敦盛首塚などがあります。

下の写真は須磨寺の本堂。仁和2年(886)光孝天皇の勅命により、聞鏡上人がこの地に上野山福祥寺を建立し、北峰寺より聖観世音菩薩像を遷し、本尊としてお祀りしたのが開基と伝えられるますから、由緒あるお寺です。

左の写真は敦盛首洗いの池、その上に見えるのが義経腰掛の松と伝えられるもので、義経はこの松に腰掛けて敦盛の首を実検したのだそうです。「熊谷陣屋」というのは、この近くにあったということになりますかねえ。

首洗いの池から左手へ坂をちょっと登ったところに敦盛首塚があります。敦盛のご冥福を祈って来ました。やっぱり戦争はいけませんねえ。「熊谷陣屋」は反戦ドラマだと云う見方も、決して間違いではありませんね。

 

*須磨寺のサイトはこちら

*写真は、平成24年11月29日、吉之助の撮影です。

(H26・12・6)


 

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