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さよなら歌舞伎座


今月(平成22年4月)末を以って歌舞伎座が建替えのために閉場となります。岡田信一郎氏設計になる現在の歌舞伎座は国の登録文化財で、現状保存・建替え反対の声も結構あったのですが、議論の末に建替えの結論になったわけです。新らしい歌舞伎座の開場は三年後の春が予定されています。

先日仕事で会ったドイツ人が、「前日の日曜日に散歩して写真を撮りまくっていたところ・素敵な建物を見つけた」と言って見せてくれたパソコンの写真が歌舞伎座でした。「これは劇場だよ」と言ったら驚いてましたが、確かに歌舞伎座を観て神社か何かと勘違いする外国人は多いようです。まあ色んな意味であの周辺では目立つ建物ではありましたね。

『私が思うには、歌舞伎という演劇の演技と演出は融通無碍と言ってもいいような自由さを持っている、と思わせている。私は本当はそうではないと思う。だけれども現実には、歌舞伎はどこでもできるんだ、どこでやっても広いところでも狭いところでも同じであるみたいな、そういう認識が近年は役者にもありますが、それはあまりいいことではないと思っています。歌舞伎にはそれにふさわしい空間が当然あるはずです。』(服部幸雄:対談「「大いなる小屋」から二十年」・歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評」・39)

ここに掲げたのは先年亡くなった服部幸雄先生の恐らく最後の発言のひとつです。服部先生は著書「大いなる小屋」などで歌舞伎劇場の変遷を研究された立場から発言されています。歌舞伎役者は旅巡業でいろんな場所で芝居打つことが多いですから、劇場に合わせて表現を適当に変えて・それで型がルーズな方向に行っちゃっても「まあいいや」で済ませるところがあるようです。だから、役者にあまり入れ物(劇場)にこだわらない習い性が出来ちゃってるようです。良く言えば歌舞伎は「どんな劇場でもそれなりにできちゃうんだよ」という柔軟性を持っているのです。これはまあ観る方(観客)も事情は大体同たようなものです。吉之助の観劇歴のなかでは歌舞伎に関連する劇場の改築だと新橋演舞場と明治座のことが思い浮かびますが、どちらの劇場も建替えで芝居ファンが騒いだという記憶が吉之助にはあまりありません。「畳と劇場は新しい方が良い」というような感じで・新しい劇場がどのようになるかの方に関心がありましたし、気が付いたら入れ物(劇場)が新しくなっていたように思います。歌舞伎座は吉之助ももちろん一番通った劇場ですから・もちろん個人的な思い入れはありますが、実は今回の歌舞伎座の改築の話が持ち上がった時の吉之助の感想も「老朽化ではまあ仕方ないか、建替えるなら良い劇場を作ってくださいね」というくらいのものでした。

しかし、今回の歌舞伎座の場合はマスコミも歌舞伎ファンも様相がかなり異なるようです。高い料金設定(演目立てもやや魅力に欠ける)にも関わらず「さよなら興行」は連日満員のようです。松竹の商売上手も確かにあると思いますが、歌舞伎座が無くなることを惜しむムードというのか・「とにかく最後にちょっと見ておこう」という関心が世間に意外と強いようです。吉之助もこれにはちょっと驚きました。ひとつには琴平の金丸座とか・山鹿の八千代座とか地方の古い芝居小屋での歌舞伎上演が話題になったりして、周辺環境も含めた劇場・あるいは劇場機構への関心が高まってきたこともあると思います。これには服部先生のご尽力の賜物でもあったわけです。もうひとつは世の中全体のムードが保守的で、どちらかと言えば懐古趣味になっているということもあるかと思います。

*若い方はご存知ないと思いますが、今はありませんけど、20年ほど前に内部改装する前の歌舞伎座には、揚幕のすぐ横にも客席がありました。ちょうどこの上の写真のフォーカスです。ここだと飛び六法の弁慶がこちらに向かって突っ込んで来る感じになりますのでね。そこが吉之助のお気に入りの席だったのです。二代目松緑の最後の「勧進帳」を吉之助はこの角度で見たわけです。

『私はこんにち歌舞伎座の舞台構造が、少し語気を強めるなら、かぶきの本質的なものを歪めたし、それが、その後のかぶきの全体に波及し、更にはそのままの流れが現在に至っているとさえ言えるのではないかと思っている。』(利倉幸一:「雑談・大正の歌舞伎・8」〜「演劇界」昭和56年11月号)

ここで利倉先生が「歌舞伎座の舞台の大きさが歌舞伎の本質を歪めた」と指摘しています。この利倉先生の発言は以来ずっと吉之助の頭のなかにあるものです。しかし、現実に目にできる歌舞伎は・幸か不幸か・歌舞伎座のものが大半ですから、歌舞伎のイメージが歌舞伎座で作られることは致し方ないことです。実際、歌舞伎座の舞台に慣れてしまって他劇場の小さめの舞台だとなんだか窮屈な感じに見えることがあります。「歌舞伎座の歌舞伎」が標準になることで、歌舞伎の感覚も次第に変わらざるを得なかったと思います。

例えば舞台の端まで歩く時、これまでの劇場ならば5歩で行けたところが10歩掛かる。そこをカラ二でつなぐ時間が長くなることで、芝居の感覚がどれだけ変わるかという問題です。先々代(十三代目)仁左衛門が芸談のなかでそういう不満をよく語っていましたが、こういうことは十分論じられていませんし、また検証もしにくいものです。またある時代においては「大きい舞台は良いことだ」という時期があったことも確かなのです。歌舞伎批評も、否応なく「歌舞伎座の歌舞伎」を現実として受け止めなければならぬところから始まっています。

吉之助が「老朽化なら仕方ないか、まあせいぜい良い劇場作ってください」となるのは随分醒めてるように思うかも知れませんが、それは結局、「歌舞伎座の歌舞伎」も長い歌舞伎の歴史のひとコマに過ぎないと考えているからです。吉之助が「歌舞伎座の歌舞伎」に育てられたことは事実ですが、吉之助がこれを標準感覚にしないようにしてきたのは先の利倉先生の教えがあったからです。誤解のないように付け加えますが、これは「歌舞伎座の歌舞伎」が間違いだということではありません。また利倉先生がそう言ったわけでもありません。まあ「歌舞伎座の歌舞伎」も歌舞伎の仮の姿に過ぎないということですかね。新しい歌舞伎座が出来れば・そこから歌舞伎の新しい時代が始まるでしょう。新しい劇場を根拠地にすることで歌舞伎もまた必然的に変わると思いますが、それは致し方のないことだと思っています。

ところで、最近の吉之助は目が悪くなったせいもあって・いつも一等席で観るのですが、若い頃はもちろん三等B席専門でした。二代目松緑の「勧進帳」とか・六代目歌右衛門の「関の扉」とか・これはどうしても・・というものは 一階で見ましたが、吉之助にとっての歌舞伎座はやはり三階席なのです。久しぶりに三階の通路を通った時に一瞬ちょっとデジャブー感覚がありまして、30年ほど前のことを思い出したのですが、あの頃の三階席はガラガラでしたねえ。21世紀になったら歌舞伎はあるのだろうか・今の内に観ておかねば歌舞伎は観れなくなる・・・と心配になるほどでした。それが30年経ったらこの盛況ぶり。不思議なものですねえ。だから30年後の歌舞伎もあると思います。ともあれ歌舞伎座にはお世話になりました。最後のお別れが出来て、吉之助も何かをおろしたような気がしました。

*上記の写真は平成22年4月・「さよなら歌舞伎座」興行中の歌舞伎座。吉之助の撮影です。

(H22・4・10)


 

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