七代目中車の武智光秀
昔の話ですが、歌舞伎座でたまたま芝居歴に年期の入ったご老人とご一緒することになり、その時の演し物が「絵本太功記」十段目(通称「太十:たいじゅう)」でありました。光秀役は二代目松緑で、これはなかなか良い出来と思いましたが、そのご老人は「ありゃ駄目だね、それに較べて中車は良かった」と懐かしそうにおっしゃいました。何と言っても観たことのない役者との比較では反論もできませんからただ「フムフム」とうなずいておりましたが、ご老人の嬉しそうな顔と言ったら。正直申し上げて、俺もこれから芝居を見つづけていってこんな風に「先代は良かったゾ、あんなもんじゃなかったゾ」といつか言いたいもんだと思ったのでありました。
左の写真は、そのご老人推薦の七代目市川中車(1860-1936)の武智光秀です。「絵本太功記」十段目尼ヶ崎の中盤で、「夕顔棚のこなたより、現れ出でたる武智光秀」のチョボで竹やぶのなかから登場して編み笠を掲げて見得をする光秀の有名なポーズです。
中車は九代目団十郎の弟子ですが、もともとは名古屋の役者ですから家柄がいいわけではなく、まさに腕一本でのし上がった名優です。本姓を橋尾というので幕内では「橋尾の小父さん」で通っておりましたが、「太功記」の光秀はその最高の当たり役であり、世間から「光秀役者」とまで呼ばれました。間合いを大きくとった古風な歌舞伎手法を使って、スケールの大きい光秀像を創り上げました。
写真でもお分かりかと思いますが、とにかく目付きと表情に凄みのある役者であり、「先代萩」刃傷の場での仁木弾正で、短刀を逆手に持って花道から血走った表情で走り出てくると、子供が恐がって泣き出したという話も残っています。
「絵本太功記」十段目は、立役・立女形・老け役・若衆・姫役と役柄が揃っておりますので、昔から義太夫の練習にもってこいだというので非常にポピュラーな演目でした。役者揃いの舞台で見ると、これほど見ごたえのある演目も少ないと思います。
作家戸板康二氏が、大正・昭和を通じて一番覚えている舞台は?と聞かれて、昭和2年7月の歌舞伎座の「絵本太功記」十段目を挙げておられます。その時の配役は、光秀が七代目中車、十次郎が十五代目羽左衛門、初菊は七代目宗十郎、操は六代目梅幸、正清は八代目訥子、久吉は二代目左団次、皐月は四代目源之助、というものでした。この顔ぶれを聞いただけでその豪華さに思わずうなってしまいます。
上の写真は、同じく七代目中車。先ほどの光秀登場の見得を至近で捉えたものです。「寄り目」と言って、目玉をぐうっと中央に寄せて睨む手法により、その目付きの凄みが一段と迫力を増しています。それにしても、なんとも歌舞伎味のある顔ではありませんか。
(追記)
別稿「勇気の人・武智光秀」をご参照ください。
(H13・5・20)