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七代目宗十郎の舞台


七代目宗十郎は草双紙のような芸風で、特に戦後はその芸風が他に求められない古風な味であるとして「宗十郎歌舞伎」と言われて珍重されました。時代遅れで大袈裟な演技は、理屈 で舞台を見ようとする現代の観客からすると・ひとつ間違うと阿呆に見えかねない 危険もあるのですが、そんなところに宗十郎の味があったと言えます。

若き三島由紀夫は七代目宗十郎の芸をことのほか愛しました。三島は『その顔を生んだ時代の好尚をもはや拒みえない悲劇的な顔・時代が滅びた後にただひとり生き残った顔』と書いています。

*上の写真は「神霊矢口渡」のお舟。「矢口渡」は七代目宗十郎の当り役を集めた高賀十種のひとつでもあります。

若き三島は宗十郎の芸のどういうところに魅せられたのでしょうか。それは「かつて時代を担って滅びてしまったものの悲劇性」にあるのだろうと察しはしますが、具体的にその芸のどういうところが・・ということになると イメージするのは容易ではないようです。宗十郎の舞台写真はその手掛かりを教えてくれるかも知れません。

世によく言われるところの「ちょっと時代遅れで・芝居掛かった大袈裟な」ところだけを三島が愛していたのではなかったようです。 三島は宗十郎の芸の面白さは「思い入れ」の巧みさに要約されると書いています。

『世人は彼の大袈裟を非難しつつ、彼の一面に内輪な床しい女形の芸の伝統が流れているそのせせらぎのような声を耳にとめようとしない。』

上の写真は「吉野山」の静御前。なんとも古風でたっぷりとして・濃厚な味わいではありませんか。「春風駘蕩」という感じがいたします 。

下の写真は「実録先代萩」の浅岡です。別稿「引き裂かれた状況」において「伽羅先代萩」の七代目宗十郎の政岡を取り上げて いますが・その写真が手許にないので、「実録」の方の浅岡を掲載しておきます。

「三千世界に子を持った・・」で両手を開いて上を見上げる、その仕草がちょっとバンザイをしているようでもあって・まるで我が子が死んだのが誇らしいか・嬉しくてならないような感じでもあって、「私は可愛いわが子を失ってしまったんです・私は悲劇の母親なんです」とその悲しみを観客に切々と訴える、七代目宗十郎の政岡はそうした古風で派手な政岡であったようです。

七代目宗十郎の政岡は、見方によってはドラマとかけ離れた・痴呆的で何も考えていない役者本位の芝居をしているように見えたかも知れません。しかし、本人がどう考えて演じていたかは分りません けれど、もしかしたらその演技は「先代萩」の悲劇の重要なポイントを探り当てていたのではないか、そういうことを考えてみたのが別稿「引き裂かれた状況」です。是非ご一読ください。

(H16・6・20)


 
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