六代目歌右衛門の「鏡獅子」
*本稿は別稿「試論:獅子物舞踊のはじまり」の関連記事です。
「春興鏡獅子」(明治26年・作詞福地桜痴)は、九代目団十郎が娘(二代目市川翠扇)が「枕獅子」を練習しているのを見て思いつき・傾城を御小姓に変えて「鏡獅子」を仕立てたものと言われています。団十郎はもちろん立役で すから、優美なお小姓が一転して・後シテで勇壮な獅子に姿を変えて豪快に毛を振り回す・そのイメージの変化(落差)を見せるのを作品の「売り」にしているわけです。
それ以来、「鏡獅子」と言えば六代目菊五郎や十七代目勘三郎・当代勘九郎のように、どちらかと言えば立役が踊ることが多い舞踊になっています。「鏡獅子」は立役のための獅子物舞踊なのです。
立役が踊ると、前シテ(小姓弥生)は女形が加役であることのぎこちなさ・固さの不利がどうしても出てくるでしょうが、それよりも後シテが映えることの方が「鏡獅子」の場合は比重が重いのでありましょう。 後シテは立役の方が明らかに映えるのです。そのせいか現行の「鏡獅子」の舞台を見ていると、後シテとの見た目の落差ばかりが気になって・前シテが女性でなければならない必然があまり見えてこないようです。
しかし、「鏡獅子」の作意とは違うと思いますけれど、女形の獅子物舞踊の系譜からすれば、たとえ後シテが多少ナヨッとして頼りなかったとしても・前シテに重点を置いたものが見てみたいという気がします。例えば、六代目歌右衛門と言えば・これは 確かに「枕獅子」の人でしたけれど、その「鏡獅子」の舞台(歌右衛門は昭和26年から昭和31年にかけて6回ほど「鏡獅子」を踊っています)は是非見たかったという気がします。
ここに掲載した写真2葉は昭和26年9月歌舞伎座での歌右衛門の「鏡獅子」です。歌右衛門の前シテはもちろん素晴らしかっただろうと思いますが・後シテは写真を見てもあまり勇壮豪快ではなかっただろうと思います。 どことなく「頼りない」けれど優美な後シテではなかったかと思います。しかし、後シテの狂いのなかにも女性の狂おしい恋心を見せてくれたのではないか・そこに大和ごころのシシ(鹿)のイメージを見せてくれたのではないか と吉之助は想像するのですが。
渡辺保: 歌右衛門 名残りの花
(H16・6・7)