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獅子物舞踊の系譜

*本稿は「獅子物舞踊のはじまり」の関連記事です。


「獅子物」舞踊は、「道成寺物」と並んで歌舞伎の女形舞踊の二大ジャンルです。獅子物舞踊はその発想を謡曲「石橋」に発しています。中国にある清涼山には何千丈もの深い谷があって、そこに石橋が掛かっている所があるそうです。ある僧がそこを訪れると、童子がどこからともなく現れ、その石橋の由来を語ります。しかし、やがて童子はその正体を現して、獅子の狂いを見せるのでした。これが謡曲「石橋」の粗筋ですが、この骨格を歌舞伎の獅子物舞踊が借りているのです。このことから獅子物を「石橋物」とも 呼びます。

しかし、謡曲「石橋」の系統でない獅子物舞踊もあるのです。左の写真は「鞍馬獅子」の舞台(七代目三津五郎・六代目菊五郎)。「鞍馬獅子」は「石橋」の系統ではなくて・お神楽系統からくる獅子物舞踊です。「越後獅子」・「勢獅子」なども同じくお神楽系統の獅子物です。これらは日本古来の鹿(しし)踊りの流れを汲むものであるかも知れません。

「石橋」を最初に舞踊に取り込んだのは享保19年江戸中村座で大当りをとった名女形・初代瀬川菊之丞の「風流相生獅子」 であると言われています。菊之丞は娘姿で手獅子か何かを使って前シテを踊り、後シテは花笠をかぶって牡丹の枝を持って優雅に踊ったのではないかと 思われます。左の「相生獅子」(三代目中村鴈冶郎・中村芝翫)は古曲の復活ですが、初演の振りは伝わっておりません。前シテは姫姿と傾城姿の場合の二通りがあり、姫姿の場合は左の写真のように二人で踊ることもあります。

「相生獅子」はその後の「枕獅子」・「執着獅子」に発展していって、それ以来「獅子物」は「道成寺物」と並んで女形舞踊の 重要なレパートリーとなっていきます。

下の写真は「英執着獅子」(六代目中村歌右衛門の)の舞台。前シテは廓の大広間で踊る遊女、後シテは牡丹の植え込みがある石橋の庭で踊ります。歌舞伎の初期においては、舞踊というのは女形の演し物でありました。初期の獅子物の後シテの狂いは、このように花笠をかぶった女形役者の優美な・あくまで優美なものでした。

女形役者の優美な踊りと、獅子舞の獅子頭に見るような・獅子の武骨で荒々しいイメージは直接的に結びつきません。それがどうして女形舞踊の題材として取り入れられていくのでしょうか。その発想は、日本古来のシシ(鹿)のイメージを原点としているとしか考えられません。このことを「獅子物舞踊のはじまり」で考えてみます。

時代が下っていきますと、「獅子」のイメージに次第にライオンの勇壮なイメージが入り込んでいくように思われます。「春興鏡獅子」(明治26年・作詞福地桜痴)は、九代目団十郎が娘(二代目市川翠扇)が「枕獅子」を練習しているのを見て思いつき・傾城を御小姓に変えて「鏡獅子」を仕立てたものと言われています。可憐なお小姓に獅子の精が憑依して・獅子の姿に変わってしまう・そのイメージの変化が団十郎の狙いなのです。「鏡獅子」という作品は、その意味で女形舞踊の獅子物の系譜としては「異端」であるということは知っておいた方がいいです。「鏡獅子」はどちらかと言えば「立役のための獅子物舞踊」なのです。

上の写真は「鏡獅子」での六代目菊五郎の小姓弥生。菊五郎が得意にした演目であり、詩人ジャン・コクトーは昭和11年に来日し菊五郎の「鏡獅子」の舞台を見て感激し、次のような文章を残しています。

歌舞伎は祭祀的だ。
かれらは演技し、うたい、伴奏し、奉仕する司祭だ。
だがこれを宗教劇と混同してはならない。
われわれは歌舞伎において、宗教劇ではない宗教と、その祭祀に接するのだ。
菊五郎はひとりの司祭だ。

(H16・4・5)



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