丸橋忠弥の煙管の見得
「慶安太平記」は黙阿弥の作。明治3年3月守田座で初演されました。黙阿弥はかつて四代目小団次によって一人前の座付き作者として育てられたわけですが、その養子である初代左団次のために書いたのが、この「慶安太平記」です。人気低迷気味であった左団次は、これが大当たりして一気にスターダムへのし上がったのでした。
「慶安太平記」(通称:丸橋忠弥)は由比正雪の乱を題材にしたものです。正雪の同志・丸橋忠弥は酔っぱらったふりをして、謀反を起こす時の下調べのため、千代田城(江戸城)の外濠に石を投げ込み、その水音でお濠の深さを測ります。それまでの酔態から正気の目付きに変わった時の凄み。さらに煙管を取り出しての見得。忠弥の行動を見た松平伊豆守がゆっくりと音もなく近づいて来て、忠弥に傘を差しかけます。ハッとして再びもとの酔態に返る忠弥。芝居味の横溢する名場面です。
左の写真は初演者である初代左団次の忠弥の煙管の見得です。革色木綿の着付けを高くはしょって、赤合羽を羽織って、煙管を構えた姿がなかなか格好いいでしょう。人気が出たのは分かる気がしませんか。
この煙管の見得、何をしているのか、最初は吉之助もよく分かりませんでしたが、これはお濠の水深を測っているのではありません。実はこれ、千代田城のお濠の幅を測っているのです。伊豆守が来なければ、さらに濠の石垣の高さ・櫓の高さなども測ったことでしょう。
これは画家さんがデッサンをする時に鉛筆を掲げて景色を見て、建物の高さを測っているのと同じことです。恐らく外国人画家のその仕草が面白く不思議に見えたのでしょう。それを見得に取り入れてみたということではないでしょうか。
だからこの見得は、やや身体は反らし気味に構え、煙管を右手に高く差し上げ、目を遠目にしながら景色全体をぐっとながめて見得をする、ということです。二代目左団次(初代の息子)の芸談によれば、初代左団次は技師の人から「煙管を縦に持ったのではお濠の幅は測れない」と指摘されて、2・3日、煙管を横にして持って見得をしてみたことがあったそうですが、形が悪くてやめたそうです。初代の写真を見ると、思ったより右手の煙管の位置が低く胸当たりの高さですが、これはお濠が足元に見下ろす位置にある、という心なのだろうと思います。二代目左団次の忠弥の写真を見ると、煙管はほぼ目の高さになっています。
今の人が見てこの煙管の見得の意味を混乱してしまうのは、お濠の幅を測るなら、舞台書き割りに千代田城とお濠が描かれているのですから、本当は観客に背を向けて舞台奥に向けて煙管を差し出さねばならないのに、客席に向けて煙管を差し出しているからでしょう。まったく向きが逆なのです。しかし、お客に尻を向けて見得するわけにはいかないですから、これはあまり深く考えても仕方がありませんね。
左の写真は猿翁(二代目猿之助)の忠弥。石をお濠に投げてその水音を聴く時に、それまでの酔態をがらりと変えて、その音に聴き入る凄みをご覧ください。猿翁は二代目左団次門下でありましたから、この忠弥は高島屋の型をよく写していると思います。
この仕草が面白いと思うのは、石をお濠に投げ込んで水音と、石が水底に沈んだ時の音を聴いてその時間差から水深を測ろうという歌舞伎のユニークな「科学思考」でしょう。同じく、煙管を掲げてお濠の幅を測るのも、三角法から言うと距離が分からなければ幅の計算はできない訳ですからいい加減なものですけど、これもそれなりに「科学思考」があるということだろうと思います。