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「互いに未来で」〜「俊寛」の幕切れの意味

〜「平家女護島・俊寛」


1)幕切れの「俊寛」

吉之助が最初に見た歌舞伎は前進座の「俊寛」の舞台でした。もう三十年も前の話です。この幕切れには感動しました。というより驚きました。いままで何人か暮らしていた島ですから鬼界ヶ島はそれなりの大きさのある島なのですが、それが地がすりが取り払われて一面が海になってしまい、波布に隠されてしまって、舞台がたちまち絶海の岩ひとつになってしまうのには、こういう手法があったのかとホントに驚きました。自然主義の演劇ではちょっと考えられないシュールで「飛んだ」発想だなと思いました。

その幕切れは島に独り取り残された俊寛の「絶対の孤独」が視覚化されていて、その印象は強烈なものがありました。恐らく数ある歌舞伎作品のなかでも「俊寛」の幕切れは最も印象的なものだろうと思います。海外で歌舞伎を上演する時にも「俊寛」は最も受けがいい作品だと言われますが、それもこの幕切れあってのことではないでしょうか。

この「俊寛」のシュールな幕切れが一体どういうところで発想されたものなのかということは吉之助のなかでずっと気になっていた疑問でありました。「それが歌舞伎の発想なんだよ 」と言ってしまえばそれまでのことです。しかし、「俊寛」の台本を読んでみると、この近松の芝居というのは時代物であっても登場人物の心理は細やかに描かれていて、なかなかにリアルな芝居なのです。それが、幕切れだけ急にテンションが高くなっていて、象徴主義的というか、ちょっと別次元の芝居になっているようにも思われました。

ところで「平家女護島」 は今では文楽でも人気曲ですが初演は決して当たったとは言えなかったようで、江戸時代には4回しか上演されていません。昭和に入って山城少掾が復活上演するまで文楽ではほぼ二百年上演が絶えていた作品なのです。これは「平家女護島」だけのことではなくて、近松作品の多くは文楽でも歌舞伎でも江戸時代にはもっぱら改作物で上演されたもので、原作通りに演じられたものは意外と少ないということは知っておかねばなりません。

一方、江戸時代の歌舞伎では、大歌舞伎よりもむしろ小芝居において「俊寛」はよく上演がされました。それは「姫小松子の日の遊び」という芝居のなかの序幕として上演されたものです。これは通称を「山の俊寛」と言いまして、鬼界ヶ島に流されていた俊寛がその後に島を脱出して、兵庫の麻耶山の山賊になって住んでいるという芝居です。その序幕の夢の場として「島の俊寛」が演じられたのです。つまり、鬼界ヶ島に独り残された俊寛が孤独に泣き叫ぶ・その時にハッと山賊の俊寛が夢から覚める。ああ、今のは夢であったのか、あの時は寂しかったなあ、ということになるわけです。現在の歌舞伎の「俊寛」の型はこの「島の俊寛」の型から来ているのです。

「俊寛」は昭和になってから初代吉右衛門や二代目猿之助(猿翁)が演じて人気演目になったのですが、このように「俊寛」の原型はもともと小芝居の型でして、これが三代目歌六や二代目段四郎らを通じて大歌舞伎に入ったものです。

小芝居だから悪いということはもちろんありません。しかし、この「島の俊寛」の場合は近松の「鬼界ヶ島の場」をもとに山賊の俊寛が往時の孤独感を回想するという芝居にしているので 近松の原作とはちょっと異なるものだと言ってよろしいでしょう。夢のなかの俊寛が「あの時は寂しかったなあ」という気持ちを強く表現しようとしているわけですから、その流れを汲む現行の「俊寛」の幕切れが、その孤独感を象徴的なほどに強調したものになっているのも納得がいきます。

史実の俊寛の最後は正確には伝えられていません。嘆きのあまり岩に頭を打ちつけて死んだとも、自ら食を断って死んだとも言われています。ところが一方で俊寛終焉の地と称する土地が全国に十数ヵ所も存在するそうです。

康頼らが都に戻ったときに一行のなかに俊寛の姿のないのを知って、俊寛に使えていた侍童・有王が苦労の末に鬼界ヶ島に渡り、そこで俊寛の死を看取ったとも伝えられます。また、一説によれば俊寛は有王とともに島を脱出したとも伝えられています。民俗学者は「有王」とは俊寛の忠実な侍童の名前であったと同時に、俊寛の物語を全国に伝え歩いた人々の呼び名でもあったのだろうと説いています。その土地の人々は俊寛の物語を聞いてその孤独を思いやり、そしてその魂を弔ってやろうと思ったのかも知れません。

山賊になった俊寛という着想はちょっと飛んでいてビックリしてしまいますが、そのような民俗的素地があったればこそ「山の俊寛」のような改作も登場するのでしょう。


2)本来の近松作品の感触とは・・

本稿では「俊寛」の幕切れを考えたいと思います。現代の「俊寛」の人気はその幕切れ故なのは、これは間違いないことだと思います。岩に取りすがった俊寛の心境をどう表現するかというのが役者の腕の見せ所にもなっています。

しかし別稿「時代物としての俊寛」において考察しましたように、現行の「俊寛」の舞台は何となく世話っぽい。それは島に独り取り残された俊寛個人の寂しい心境に焦点を当てようとしているからで、小芝居の「島の俊寛」の幕切れのコンセプトが近松の本来のものとはちょっと異なっているからだと思います。幕切れの「孤独」の表現だけが時代物の作品構造のなかから遊離しているように感じられます。

ひとつには孤島での流人の悲惨な生活が舞台からあまり伝わってこないことがあります。近松の原作では冒頭に俊寛の島での苦しい生活が詳細に描写されています。現行の歌舞伎の舞台では、花道から康頼・成経が目さい篭、びくなどを持って登場するのを堂本正樹氏が「とんと避暑族の潮干狩り」と皮肉ったことがあるそうですが、そういう感じもなしとしません。

あるいは島に上使の船が着いて、名前を呼ばれた流人たちが転げるように飛び出していくところ。俊寛はまるで他の二人を押しのけるようにして先頭に飛び出します。書面に自分の名前がないと知った時の俊寛の狼狽ぶり・嘆きぶりは激しく、役者の仕所としてたっぷりと演じられます。こういう俊寛の姿は都へ帰りたいという気持ちを表現していて「人間臭い」とも言えましょうが、ちょっと浅ましい。俊寛の人物を情緒不安定的な感じに見せて、なんとなく浅いものにしているような気がします。それでも「俊寛」の最後のシーンを感動的・印象的に見せるために俊寛の帰郷願望・娑婆っ気が強いことを見せておこうという演出意図が働いているようです。

しかし、近松の「俊寛」は謡曲「俊寛」とは違って、清盛の憎しみで置き去りにされるのではなく自らの意思で島に残るのです。その俊寛の自己犠牲の精神こそが近松の「俊寛」の特色でなければなりません。そのような俊寛であっても最後の最後では「凡夫心」から心乱れるのです。だからこそ最後のシーンが「人間的」に感じられるのではないでしょうか。


3)千鳥の未来

さらに近松の「俊寛」を独自のものにしているのは、千鳥の存在です。千鳥のことを考えなければ俊寛の自己犠牲の意味が見えてこないと思います。俊寛が瀬尾を討ち取った後、千鳥は「夫婦は来世もあるのに自分の未練で俊寛にこんな思いをさせて・・」と言って去ろうとするのを俊寛は止めて次のように言います。

『コレ我この島にとどまれば五穀に離れし餓鬼道に今現在の修羅道、硫黄の燃ゆるは地獄道、三悪道をこの世で果てし後生を助けてくれぬか。俊寛が乗るは弘誓(ぐぜい)の船、うき世の船には望みなし。さあ乗ってくれ、早や乗れ』

この俊寛の台詞は重く受け取らねばなりません。ここでの俊寛は自暴自棄になっているわけではありません。「俊寛が乗るは弘誓(ぐぜい)の船」とあるように、俊寛は自分が島に留まることで「わが娘」である千鳥の未来に望みを託しているということだろうと思います。

想像を絶した孤島での生活。「友のう人とても明けても康頼、暮れても少将」という生活のなかでの思いがけない少将と千鳥との恋。これを聞いて俊寛は、「珍しし。配所三歳がその間、人の上にも我が上にも恋という字の聞きはじめ、笑い顔もこれ初め」と言って喜びます。少将が千鳥とのなれそめを語る場面の近松の文章の、たとえば「そりや時ぞと夕浪に、可愛いや女の丸裸」などのユーモアと健康的なエロスの入り混じった筆致は実に見事です。

俊寛が少将と千鳥の恋にどれほどに感動したのかは想像もできないほどです。俊寛には都に残した東屋という妻があり、「明け暮れ慕えば夫婦の中も恋同然」というほどであったといいます。そのような俊寛が少将の恋の話を聞いて我が事のように喜びます。今生よりの冥途であると思われたこの鬼界ヶ島において俊寛は初めて「生きている」と感じられたのであろうと思います。この島には都での平家との醜い政治闘争も身分の違いによるしがらみも何もありません。悲惨な生活ですが、この島ではすべての人間が平等です。千鳥の笑顔がそのまま俊寛の生きがいであると感じられたのでありましょう。

この感動があればこそ俊寛は「我が娘・千鳥」にはその恋を貫かせたかったのであろうと思います。「武士(もののふ)はものの哀れを知るというは偽り虚言(そらごと)よ。鬼界ヶ島に鬼はなく、鬼は都にありけるぞや。」、瀬尾に乗船を拒否された千鳥の嘆き。これを聞いた時に俊寛は耐えられなくなったのです。この時、俊寛のこころのなかに「かぶき的心情」が一気に噴出します。こうして俊寛は千鳥の未来に自分の存在を 掛けることを決意するわけです。(俊寛の「かぶき的心情」については、別稿「今日より親子の約束、我が娘」をご覧下さい。)

「かぶき的心情」というものは、社会のなかにおける個人の心情・アイデンティティーの主張に根ざしているものです。そうした心情から発したドラマである以上は、それは単なる個人的な悲劇だけでは有り得ません。もっと大きな世界構造のなかに組み込まれた悲劇であると読むべきでしょう。そこに時代物たる「俊寛」の意味があるのではないでしょうか。その点において現行の「俊寛」の幕切れは確かによく出来ていて感動的ではあるのですが、ちょっと 個人の感傷のなかに溺れ過ぎなのかも知れません。

むしろ今の吉之助は俊寛を島に残して 千鳥と少将・康頼を乗せた船がまさに動き出そうとするシーンが好きです。「少将夫婦、康頼も名残惜しや、さらばやと言うよりほかは涙にて、船よりは扇を上げ、陸(くが)よりは手をあげて、互いに未来で未来でと呼ばるる声も出で船に・・」、そして船がググッと動き出す瞬間に時代物の醍醐味を見ます。

島にひとり残った俊寛が沖を見据える時、彼の目には何が見えているのでしょうか。さっきまでは耐え難いほどであった孤独感は嘘のように消えてしまって、悲劇の主人公だけが得られる永劫の至福のうちにあるのだと思います。

(参考文献)

武智鉄二:「俊寛の型の意味するもの」(季刊「伝統芸術」第5号)

(H14・11・24)





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