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光と闇の狭間に〜「引窓」をかぶき的心情で読む

〜「双蝶々曲輪日記・引窓」


1)闇の暗さ・月の明るさ

「昔の人々にとって、喜びと悲しみ・光と闇のへだたりは、今よりずっと大きかった」、とヨハン・ホイジンガはその著書「中世の秋」の冒頭で言っています。

『世界がまだ若く、5世紀ほども前の頃には、人生の出来事は今よりももっとくっきりとした形を見せていた。悲しみと喜びの間の、幸と不幸の間のへだたりは、私達の場合よりも大きかったようだ。すべて、人の体験には、喜び悲しむ子供の心に今なおうかがえる、あの直接性・絶対性がまだ失われていなかった。(中略)夏と冬との対照は、私達の経験からはとても考えられないほど強烈だったが、光と闇、静けさと騒がしさとの対照も、またそうだったのである。現在、都市に住む人々は真の暗闇・真の静寂を知らない。ただひとつまたたく灯、遠い一瞬の叫び声がどんなものかを知らない。』(ホンジンガ:「中世の秋」)

*ホイジンガ:中世の秋〈1〉 (中公クラシックス)

「引窓」という芝居を思う時に、いつも心に思い浮かべるのはホイジンガの指摘している「喜びと悲しみ・光と闇とのへだたり」のことです。それは今の私たちが感じるよりも、昔の人々にとってはずっと強烈に、もっとくっきりとその姿を見せていたのです。そして、我々がなにげなく感じるものにも、深い悲しみと陰・湧き上がるような喜びと輝きをそこに見たに違いありません。

京都の南に位置する八幡の地周辺は藪が多く、民家には「引窓」と言って、綱で開閉する明りとりのための天窓を備えた民家が多かったようです。この芝居ではこの引窓が活躍します。引窓の開閉によって、その場の局面が変化し、役の性根も変わりながらドラマが展開するこの芝居は考えようによってはかなり技巧的な作品です。

例えば手水鉢の水に映った濡髪の姿を与兵衛が見咎めると、母親の苦悩を知るお早が濡髪の姿を隠すために「もはや日の暮れ、燈をともして上げましょう」と言って引窓を閉めてしまいます。たちまち家の内部は真っ暗になってしまう。すると、与兵衛が「日が暮れたれば(濡髪の探索は)この与兵衛が役。忍びおるお尋ね者。イデ召し捕らん」と言い、自分は十手を持つ役になると言うので、お早はあわてて「それまだ日が高い」と言って引窓を開けます。

幕切れでも与兵衛(この時の性根は武士・南方十次兵衛)は濡髪を引窓の縄で縛りますが、この縄を切るとガラリと窓が開いて月明かりが差し込みます。すると「南無三宝夜が明けた。身どもが役は夜のうちばかり。明くればすなはち放生会(ほうじょうえ)。生けるを放す所の法。恩にきずとも勝手にお行きやれ」と与兵衛の性根に返って、濡髪を解き放ちます。

まずここで印象的に思うのは、闇の暗さと同時に月の光の明るさです。お早は引窓を開けて「まだ日は高い」と言いますが、実はこの芝居の時刻はすでに夜であって、差し込む光は太陽の光ではなくて月の光です。しかし、月の光でも十分に明るいのです。それでないとこの芝居が成立しないのは言うまでもありません。このことは現代の我々はほとんど意識しなくなっていますが、当時の人々が感じていたであろう月の光の明るさ・有り難さを想像させてくれます。陰暦の8月15日に行なわれる岩清水八幡の放生会(ほうじょうえ:仏教の不殺生の教えに基づいて、捕らえられた生類を放してやる儀式)の前夜のことですから、ほとんど満月に近い月明かりです。

文楽でも歌舞伎でも引窓の開閉に合わせて舞台の照明を明るくしたり暗くしたりすることはしません。そのような演出を八代目中車が一度試みたことがあったそうですが、あまり効果を上げなかったようです。引窓の開閉に合わせて舞台照明を変化させますと、いかにもト書き通りで写実で分かりやすくなるように思いますが実はそうではなくて、親切どころか余計なお節介で芝居の情感を消してしまうものなのです。「闇の底知れない不気味な暗さ」・「月の光の救われるような明るさ」を観客が心のなかで感じ取るためには、こうした視覚的な手助けはかえって迷惑だということです。


2)義理と人情との調和

与兵衛が武士・南方十次兵衛としてお尋ね者・濡髪の探索に携わるのは夜のうちだけ、夜が明ければ元の町人・南与兵衛です。ここでの闇と光・夜と昼は、芝居のなかで象徴的に扱われています。「夜の底知れぬ不気味な暗さ」のなかに社会の規律のなかで生きている人々の意識・義理の世界が象徴されています。一方、「日光の差す明るい昼間」は、人々の善意と情愛・人情の世界が象徴されていると言えます。

この点は誤解を生みやすい所なので、注意していただきたいと思います。ここでは確かに夜と昼は対比される概念ですが、決して対立概念ではありません。この「引窓」では、社会の掟・武士に代表される封建社会の倫理への「非人間性」への批判がされているのではありません。社会の掟に反してでも大切にしなければならない「人の情」があるというのが「引窓」の作品主題であると書いてある歌舞伎入門書が多くあります。そういう見方もあるかも知れませんが、しかし、この芝居は本来、そうした視点で書かれたものではないと思います。

たしかに、そうした社会の掟・倫理の重さが時として重くのしかかり、生き難く感じられることもあります。しかし、多くの人々はそうした社会の掟・倫理を是として生きて いるのです。人間はただ一人で生きることはできません。集団のなかで社会を形成して、一定のルール・掟・倫理観のなかで生きているものです。それを「非人間的なもの」として否定してしまっては、人間の人間としての「道」が立ちません。「引窓」の登場人物たちはそのことを十分承知しています。だからこそ義理と人情のはざまで苦しむのです。

この「引窓」は歴史上の英雄が登場するわけでもなく波乱万丈の展開があるわけでもないのに、見終わって何だか暖かい満足感が残ります。それは義理と人情のはざまにほどよい調和が取れているからです。だから観客は「引窓」を見終わって「人情は死んではいない」と何だかホッとするのです。

本作「双蝶々曲輪日記」(「引窓」はその八冊目に当たります)は、寛延2年(1742)・大坂竹本座での初演。作者は、「忠臣蔵」と同じく、出雲・松洛・千柳の黄金トリオ。近松門左衛門からこの時代(浄瑠璃最盛期)までの浄瑠璃では、個人と社会の関係はほどよい調和がとれています。社会の掟・義理といったものは個人の生々しい感情を導き出すための「状況」として作用していますが、 社会を個人を押さえつける対立概念として意識しているわけではありません。もう少し時代を下った近松半ニの作品あたりから状況はその圧し掛かる重さを増していきます。こうした作品と時代との関係を理解していませんと、何でもかんでも「唯物史観的な社会批判」でしか作品を読めなくなってしまいます。


3)「引窓」の技巧

先ほどこの「引窓」には技巧的なところがあると書きました。与兵衛は引窓が閉まり部屋が暗い(つまり、夜)時は武士・南方十次兵衛としての性根、引窓が開いて月の光が差し込みます(つまり、昼)と商人・南与兵衛の性根に変わります。この武士と町人の性根・つまり時代と世話の切り換わりを鮮やかに見せるのは与兵衛役者の芸の見せ所ですが、しかし意地悪く見ますと、誰も(観客以外には)見ている者はいないのに、引窓が開こうが閉まろうが関係ない・どうしてこう性根をコロコロ変えねばならないのか・これは芝居の見た目本位の趣向からくるものではないのかと感じないでしょうか。

これはこのように考えられるのではないでしょうか。登場人物たちは自らを納得させたいのです。自らに社会の規範や人情の基準を置いて、それをそれぞれ大事にして生きています。義理と人情のどちらが立たなくても人間としての自分の道はないと彼らは考えるのです。

引窓が開いて今は昼間だから(つまりお役目の時ではないから)与兵衛は町人として妻や義理の母親の話を素直に聞ける・引窓が閉まって今は夜だから(つまりお役目の時だから)与兵衛は罪人濡髪を引き受けねばならないということです。そして、濡髪を縛った縄を切ってうっかり引窓を開けてしまったことにして、与兵衛は「南無三宝夜が明けた。身どもが役は夜のうちばかり」と言って、濡髪を解き放ってしまいます。まだ夜は明けていないのに、「夜が明けた」と頑固に言い張ってしまいます。

与兵衛は自分の言動・行動の裏付けを社会的な規範に置くことで、自らを納得させたいのです。(当然ですが、観客もまた納得したいのです。)こうすれば、お役目は果たされ、また義理の母親への孝も立つということなのです。納得ったって自己満足じゃないのなどと言うなかれ。これにより、武士たる南方十次兵衛のアイデンティティーは守られ、また南家の主人としての与兵衛のアイデンティティーも守られるのです。これもまた「かぶき的心情」のなせる技だということを知らねばなりません。

ここでは、義理も破られることもなく、人情も破られることもありません、そのように芝居は書かれています。だから観客は「引窓」を見終わってホッとするのです。義理より人情の方が重い・社会の掟に反してでも守らねばならない「人の情」があるなんて事はどこにも描かれてはいないのです。「状況において義理と人情とにどう折り合いをつけるか」、それがこの「引窓」のテーマであると思います。

(H13・12・30)


 

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