義経の神性とは何か
〜「義経千本桜・川連法眼館」
1)義経と源九郎狐
『源九義経の義(よし)という字を読(よみ)と音(こえ)。源九郎義経(ぎつね)付添いし、大和言葉の物語りその名は高く聞こえける』
「義経千本桜」の四段目の結びの詞章です。「義経」の字を「ぎつね」と読んで源九郎狐と重ねていることからも分かりますように、義経と源九郎狐は呼応しあっています。「川連法眼館」で、義経は源九郎狐の親を想う気持ちに感動して初音の鼓を与えるのですが、義経はただ同情したから鼓を狐に与えたのではありません。義経は幼くして父親を戦乱で亡くし、母親から引き離されて育ち、いままた兄頼朝にも疎まれている身の上です。自分の置かれた境遇を思いやって親を慕う狐の気持ちを美しく感じたことでしょうし、涙もしたでしょうが、それだけでは法皇から拝領の大事な鼓をくれてやるわけにはいかないのです。
このことは別稿「義経と初音の鼓」でも書きましたが、もう一度触れておきたいと思います。「宝物に不思議な力が宿る」というのは西欧での宝石などでもよくある話ですが、こうした宝物は本来の場所に納まっている時はいいのですが、別の場所に移されるとその霊力が変な方向(災いを引き起こす方向)に作用するという こともよくある話です。
初音の鼓もそうです。宮中にあった時は雨の神をいさめの神楽に用いられ、「水を発して降る雨に、民百姓は悦びの声を初めて上げしより、初音の鼓と名付け給う」という霊力を発揮します。初音の鼓は桓武天皇の時代に、二匹の狐の夫婦(つまり源九郎狐の両親)の皮をもって作られたものでしたが、その間、鼓が義経の手に渡るまでの約400年間、子供である源九郎狐は手出しができなかったのです。源九郎狐は「禁中に留め置かれれば恐れあって寄り付かれず」と言っていますが、祟った様子もないようですから、やはり鼓は宮中ではそれなりに納まっていたと考えられます。初音の鼓は「自然の恵みと愛の象徴」でありました。
それが「この鼓の裏皮は義経、表皮は頼朝、すなわち兄頼朝を討てとの院宣」だと言って邪悪な意図を込められて義経の手に鼓が渡った時から、その鼓は異様な力を発揮し始めるのです。「打ちさえせねば身の誤りにならぬ鼓」と言って拝領した義経にたちまち災いが降りかかります。まず頼朝から謀反の疑いありとの追及がされ、卿の君は自害せざるを得なくなり、さらに自らも都落ちを余儀なくされます。ここから「千本桜」の物語は始まるのですが、この時の初音の鼓は「醜い権力闘争の象徴」なのです。初音の鼓の霊力のこの「二面性」を心に留めておいてください。
これを取り戻そうとして佐藤忠信に身を変えて登場するのが源九郎狐です。源九郎狐が鼓を慕って近づく時には鼓はその表情を変えて本来の「愛の力」を発揮し始めるのです。そして、「川連館」で義経が初音の鼓を源九郎狐に返してしまうことは、もちろん同時に「院宣を無視すること」を意味するのですから、ここで義経は醜い権力闘争に意識的に背を向けて「奥州での死を決意した」と私は解釈します。ただ源九郎狐に同情しただけで鼓を返したのではありません。(このことは、別稿「その問いは封じられた」をお読みいただければ、ご納得いただけましょう。)
源九郎狐が忠信に変身して義経に近づくことにもまた意味があります。忠信は兄思いであり、義経の身替わりになって戦死した兄継信のことを片時も忘れていません。言うまでもなく忠信の兄思いは義経の兄頼朝に対する気持ちに通じ、また源九郎狐の親を思う気持ちにも通じます。こうした忠信だからこそ、源九郎狐は彼をモデルにして義経に近づくのです。
さらに義経のことも考えなければなりません。もし義経が鼓を返してくれないような男であったとしたら、その時は源九郎狐は別の対し方をしたかも知れません。間違いなく源九郎狐は義経が自分の気持ちをわかってくれると感じて義経に近づいていると思います。これは義経という「神性」を考えるときの大事なポイントです。源九郎狐は義経の「神性」に感応して狐忠信として現れるのです。
2)義経は策略家ではない
「大物浦」で渡海屋銀平を知盛と見破った義経は、知盛の襲撃をかわし、沖の本船に乗ると見せかけて裏に小船を廻して陸に戻り、逆に安徳天皇と典侍の局を取り押さえます。さすがの知盛もこうなると手が出せません。「川連館」では義経は教経に負けたふりをして、教経をひと間のうちに誘い込みます。そこに踏み込んだ教経が見たのは、義経ではなく安徳天皇でした。こうして教経の気合いを削いでしまいます。
このように義経は相手の裏をかいてその先を読んで手を打っているように見えます。実際、義経の打つ手はズバズバと見事に当たっています。「千本桜」の義経像は、過酷な運命に翻弄されるなかでひたすら無力な貴公子、という感じとははちょっと違う感じを与えるようです。「千本桜」の義経像は「智」を感じさせ策略家・陰謀家的な感じがすると指摘する研究家もいます。(同じことが「一谷嫩軍記」での義経にも言えま す。)はたしてホントにそうなのでしょうか。「千本桜」の義経は策略家なのでしょうか。
確かにここでの義経は相手の心を読んで手を打っています。しかしそれは策略であったのでしょうか。「策略・陰謀」というと「相手をだまして裏をかいて、細工をする、こずるい」という感じがします。源氏と平家、法皇と鎌倉、兄と弟、その三つの座標のせめぎあいのなかで、冷静に政治的な計算をしながら状況を切り開いていく武将が義経なのでしょうか。本サイト「歌舞伎素人講釈」は「そうではない」と断言します。
「千本桜」での義経像もまた他の「義経もの」に見られるのと同じ要素によって成立しています。すなわち、義経はものの哀れを知る男、この世の無常に涙しこれを清めることのできる男です。それが歌舞伎における義経の「神性」です。
「大物浦」の知盛はまさに生ける怨霊の形相で義経に襲いかかりますが、最後には義経のその「神性」を理解し、「きのうの怨は今日の味方。あな心安や嬉しやな。」と言って安徳天皇を義経に託して入水します。明らかに義経の「神性」が知盛を変えたのです。
安徳天皇も同様です。安徳天皇の身の周りにある神性を脱がせて普通の子供に返して「平家物語」の世界に還す、このようなことは義経だからこそ可能なのです。それが義経の「神性」なのです。
もちろん変わらない人間もいます。義経の「神性」を感じられない感受性の鈍い人間、こういうのはどこにでもいます。そういう人間の方が多いでしょう。例えば、教経はそういう人間です。だから彼は「平家物語」の世界に還してもらえませんでした、覚範として死なねばならなかったのです。(このことは別稿「その問いは封じられた」をご覧下さい。)
義経の「神性」を誰でも感じられるわけではありません。それを感じるには、その人物にそれなりの感受性と人間性の高さが必要なのです。それが「千本桜」で言えば知盛・安徳天皇・人間ではないが源九郎狐であり、「一谷嫩軍記」ならば熊谷直実であり、「勧進帳」ならば弁慶・富樫です。それを感じた人間は、その一生をかけて義経に応えようという・そうした思いを抱かせるのが義経の「神性」です。
神は策略などという小細工を用いる必要はありません。その人間の心など見えてしまうのですから。だからそれに対して「よかれ」と思う手を義経は打っているに過ぎません。それを「策略」と感じるのはちょっと違います。もっと自然でスマートなものなのです。そうすることで自らの「技」を示すのが神というものです。そしてその「神の技」を感じることのできるのは「選ばれた人」だけなのです。
3)義経の神性とは何か
しかし「神性」を備えていても義経もやはり人間です。自分ではどうにもできないこともあります。遠く鎌倉にある兄頼朝の心を変えることは義経にはできません。そしてやがて「奥州平泉で果てる運命」を自分で変えることもできません。そうしたことには義経はまったく無力なのです。ただ運命に翻弄されるがままなのです。そして自らに課された運命を受け入れ、怨みも残さず死んでいきます。
似たような人間を思い出さないでしょうか。そうです、イエス・キリストです。イエスもまた生前に数々の奇蹟を行ないましたが、最後の最後には何もせずに、すべてを受け入れて死にました。「お前が神ならその十字架から下りてみよ」とイエスは嘲られましたが、下りませんでした。その死に方こそが、彼を神にしたのです。義経もまた同じようなもので、その死に方によって民衆によって神格化された宗教的存在なのです。このことが理解されませんと、義経信仰も歌舞伎の「義経もの」の意味も理解できないと思います。(誤解のないように申しておきますが、義経信仰とキリスト教が似ていると言っているのではありません、神格化の課程が似ているということだけです。)
神というものが「すべてを思い通りにコントロール」できる全能の存在であるとは必ずしも言えません。そういう神もいるでしょうが、たいていの場合は違います。神というのは、すべてをお見通しですが自分の意志で何でも変えるのことができるわけではありません。例えていえば、「神は、試合でどちらが勝つかは知っているが、スコアがいくつかとか、どういう展開になるかまでは分からない。それはあくまで人間の領域だ」ということです。
義経はその人に漂う運命の雰囲気を察知し、その定めに同情し涙します。その人の運命を変えてくれるわけではありません。ただ同情してくれるだけなのです。しかし、義経の神性を感じとることができる人にとってはそれだけで十分なのです。「義経だけは分かっていてくれる」という、それだけでわが身を捨てる価値がある、と信じさせるのです。それが義経の神性なのです。そして、義経の気持ちを信じて精一杯に生きる、それが歌舞伎の「義経もの」の登場人物たちのドラマであると思います。だからこそ「義経千本桜」の主人公は源義経なのです。
(H13・10・7)