(TOP) (戻る)死への欲動〜「リゴレット」のジルダと「妹背山」のお三輪に関する考察
*本稿は、音楽ノート:歌劇「リゴレット」としてもお読みいただけます。
1)死への欲動
何もかもオペラを歌舞伎に結びつけるつもりはないですが、本稿もそのうち歌舞伎の話に転化していくと思います。先日、英国ロイヤル・オペラ(コヴェントガーデン王立歌劇場)のライヴ・ビューイングで、ヴェルディの歌劇「リゴレット」(デヴィッド・マクヴィカー演出・2018年)を随分と久し振りに聴きました。吉之助は家でオペラを聴く時はなるべく対訳を参照するようにはしていますけれど、映像で歌詞の字幕が出ることは、オペラの深い理解のために とても役に立ちます。時折、ある部分にハッと気が付いて、今まで何度もこの曲を聴いたのに、俺はこれまで何を聴いていたんだろと思うことがあります。
ヴェルディの歌劇「リゴレット」(英国ロイヤル・オペラ、デヴィッド・マクヴィカー演出・2018年)
マクヴィカー演出は支配階級の退廃・傲慢を強調する意図が強く、それはそれとして面白かったですが、このような階級対立構図は「リゴレット」にはよくある演出コンセプトではあります。これと対照した形で、道化リゴレットが家に囲っており侯爵に誘惑されてしまう箱入り娘ジルダの清浄さが、今回の演出では良く出ていました。今回、ヴェルディのジルダの扱いについて色々考えたのは、そう云うことがあったと思います。ヴェルディが書いたジルダのパートは、例えば有名なアリア「慕わしい人の名は」などは旋律も単純だし清浄なイメージです。今回のロイヤル・オペラ上演でもほぼその線のように思いますが、清浄な乙女のイメージで全曲を通しても一応のジルダには出来るのです。
しかし、吉之助が今回「リゴレット」を聴いて改めて気付いたことは、ジルダの感情が高揚し始めると、ヴェルディが彼女に与える旋律は、それまでのリリック・ソプラノ風味から一転して超絶技巧になって旋律が激烈化することです。こうなるとジルダはもう完全にベルカントの役柄になって、その変転ぶりに目を剥くことになります。例えば第1幕、リゴレットの家でジルダと公爵(身分を隠している)が逢引する場面、物音を聞いて驚いて立ち去ろうとする公爵と一緒にジルダが「さよなら・・あなただけが、私にとって希望と魂、さよなら・・あなたへの私の愛は、永遠に変わることなく生きるでしょう」と歌う場面は、ほんの短い旋律なのに鮮烈な印象を与えます。ここでのジルダは一時的にバッと大きな炎が燃え上がるかのようです。普通の作曲家ならばこの旋律を大事に繰り返して長大な二重唱に仕立てただろうに、もったいないことにヴェルディはこんな見事な旋律をパッと出してアッという間に消してしまって、もう二度と同じ旋律を使わないのですよ。
第2幕第10番でリゴレットが「(公爵に対して)復讐だ」と叫ぶ傍らでジルダが「ああ、お父さん、彼を許して、私たちにさえ天からお許しの声が来るのですもの・・」と歌う場面も凄まじい。この旋律には父の復讐への怒りの炎とそれを鎮めようとする娘の哀願と云う趣がほとんど聞こえません。それどころか勝利への雄叫び・歓喜の爆発みたいな昂ぶった感情が渦を巻いて、どうしてヴェルディはこの場面にこのような倒錯した旋律を与えたのかと驚きます。イヤこれは決してヴェルディを貶めるものではありません。この倒錯感こそヴェルディなのです。この二重唱でブラヴォーを叫ばない方はイタオペ・ファンとは言えませんね。ここでのジルダは、それまでの清廉さをかなぐり捨てたかのように勇敢でさえあります。(このことを実感いただくためには、マリア・カラスが歌うジルダをお聴きいただく必要があります。1952年・メキシコ・シティ・ライヴ、超絶名演です。1時間26分辺り。)
こうなるとジルダを単なる清浄無垢な娘とするだけでは、イメージを持て余すことになります。ある局面においてジルダはまったく別人格に変わるというような解釈が必要になって来そうです。狂的な激しい感情が彼女を支配しており、これが愛する男の身替りになって死ぬという行為に彼女をひた走らせるのです。これこそフロイトが云うところの死への欲動、より激しく生きるために死す、或いは死することにより永遠の生を得ようとするものです。ヴェルディの天才は、フロイトよりも約半世紀先駆けて、音楽でそれを発見しちゃったのだなあと「リゴレット」を見てつくづく思ったことでした。(この稿つづく)
*ヴェルディ:歌劇「リゴレット」初演は1851年、フロイトの「快楽原則の彼岸」(死への欲動を述べた最初の論文)執筆は1920年。
(H30・3・30)
2)もっと多くの情報があったら、誤解がなければ・・・
ジルダはとにかく相手の素性を知りたがります。彼女の心のなかに何か満たされないものがあるのでしょう。これはジルダの人格を考える上でとても大事な点です。それを知らないとジルダは安心できないのです。だからジルダには、その人の名前がとても大事です。台本を読むと、恐らくジルダがまだ幼い頃に母親が亡くなり、リゴレットは娘を修道院に長い間預けていましたが、つい最近娘を手元に引き取ったようです。リゴレットは、我が娘を秘中の花として大事に育て、誰にも見せたくないと思っています。しかも、ジルダは父親の名前をまだ知りません。リゴレットは道化である自分の素性を恥じて娘に隠しているのです。ジルダが名前を聞いても、リゴレットは「それを知って何とする・・」と言って話しません。
ジルダは教会で見かけた恋しい若者にも名前を聞きたがります。「あなたの名前を教えて。聞いてはいけないのでしょうか。」 すると若者は「グァルティエル・マルデ・・・学生で、貧乏な・・」と答えます。こうしてジルダの心のなかに若者の名前が永遠に刻まれました。しかし、実は彼はマントヴァ公爵で、ただ遊びのためだけにジルダを誘惑したことが後で分かります。ここで大事なことは、ジルダは好色な支配者の餌食にされてしまったわけですが、何か磁力のような不思議な力によってジルダは自ら飛び込むように公爵に恋したのかも知れないということです。レオ・ゲルハルツは次のように書いています。
『ヴェルディの主人公たちは生きているうちに求めていた幸福に、死の瞬間に初めて出会うので、文字通り死にたがる。この内的欲求と比べて、彼らの失敗の外的要因はむしろ偶然であるかの如き印象を与える。もっと多くの情報があったら、誤解がなければ、もう少しタイミングが良ければ・・・ヴェルディの劇で悲劇的に死んでいった者たちは、幸せな夫婦、満ち足りた父親になれたかも知れない。(中略)ロミオとジュリエットよりもずっと具体的にジルダは死なねばならず、また死のうとする。なぜならば彼女の情熱は、死においてのみ偉大で永続するからである。ジルダは公爵に恋したのではなく、理想の幸福の幻に恋したのだ。そして犠牲的な死をとげる彼女には公爵よりも、この理想像と結びついた自分の感情が大事なのである。(中略)なぜ彼女は、時代と社会という敵から、死が合いを救う刹那的な幸福のなかに、衝動的に身を投じるのだろうか。この問題を考えるには、ヴェローナの逃亡先にある小屋に隠れている、ジルダとリゴレットを想像するだけで十分である。』(レオ・ゲルハルツ:形象と記号〜リゴレットに寄せて)
ゲルハルツが指摘するような、「もっと多くの情報があったら、誤解がなければ、もう少しタイミングが良ければ、あの失敗がなければ・・悲劇は避けられたのに・・・」というドラマが、歌舞伎には数え切れぬほどあることは言うまでもないことです。しかも、あたかも偶然であるかの如き顔をしていますが、ドラマの結末から振り返れば、それらはすべて死を志向するために仕掛けられているのです。歌舞伎の例としては、「鮓屋」のいがみの権太を挙げても良いし、「六段目」の勘平もまさにそのようなものです。(このようなオペラと歌舞伎の一致は、単なる符号とは思えません。似たような状況にある別箇のものが、同じような様相を呈するということなのです。詳しくは別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」をご参照ください。)しかし、本稿ではとりあえずジルダのことを考えなければなりません。歌舞伎にジルダを探すなら、それは誰でしょうか。(この稿つづく)
(H30・4・2)
3)異形の感情
『よく耳を傾けると、ジルダと公爵の振舞いは同じメダルの裏表であることが分かる。反対の方向から二人は、同じ事柄に近づいたのである。一方では、(支配階級の)軽薄さが、他方では(支配階級への)憧れが愛を求める。両者が共に並び立ったり(わずか一瞬でさえ)一致することは不可能である。(中略)ジルダには、夢の王子様が、彼女の属する市民階級の苦労とは縁がなく、学生の服装をしているが、輝かしい権力側の人間であることが(無意識のうちに)分かっていた。(中略)(公爵の)軽薄な情熱と、(ジルダの)大きな憧れは、他の力が加わらなくても近づき合うことができる。(中略)どのように第1幕の二重唱でジルダのカレンティーナが公爵の歌を導くのか、どうやって未知の感情が封建君主を襲うのか、それを知るには耳を澄ますだけで充分である。これに続く「さよなら」のカヴァレッタでは、公爵の軽薄さが逆にジルダを巻き込むのが分かる。町娘ジルダのドラマは、公爵の軽薄さに彼女がただちに情熱をもって答え、乙女の憧れが快楽と権力への欲求に代わることにあるのだろう。』(レオ・ゲルハルツ:形象と記号〜リゴレットに寄せて、分かりやすくするため若干吉之助が文章をいじりました。)
ゲルハルツは、第1幕の「さよなら」のカヴァレッタでジルダの性格が激変する理由を見事に解析しています。公爵の軽薄な情熱とジルダの大きな憧れが混じり合い反応して、感情が爆発したのです。そしてそれは爆発であるがゆえに、一瞬で生成してアッと言う間に消え去ります。それは何かの誕生であると同時に死を示唆しています。まさに死するためにジルダは突っ走ることになります。
吉之助はここで「妹背山」のお三輪のことを思い浮かべます。杉酒屋の娘がそんじょそこらに滅多にいない、色男の鳥帽子売りの求馬に恋をします。求馬は素性を隠していますが、実は藤原淡海公でありました。ジルダの未知なるものへの大きな憧れは、まさにお三輪と同じものであることは、すぐに納得いただけると思います。その感情が爆発した時、それは常のものとはまったく様相が異なる様を見せます。ジルダの「さよなら」のカヴァレッタがそう云うものだし、第2幕の父リゴレットとの二重唱もそうなのです。恋したために死すのか、死するために恋したのか、それが どちらかまるで分からない倒錯した瞬間が生まれます。例えばマリア・カラスの歌うジルダを聴くと、まるでジルダの形相が変わったと感じられる狂的な瞬間が聴き取れますが、お三輪が見せる疑着の相というのも、まさにそのような異形の感情ではないかと思われるのです。(別稿「疑着の相を考える」をご参照ください。)
一方、マントヴァ公爵の軽薄さと云うのは、例えばルチアーノ・パヴァロティの歌う「女心の歌」の、イタリアの澄んだ青空のようなあっけらかんと底抜けに明るい歌声を思い出してくれると良いですが、お三輪が恋する鳥帽子売りの求馬にそういうものがあるかと云うことも考えてみなければなりませんねえ。ここにはイタリアと日本の風土の違いが出ているようにも思います。求馬の軽薄さは、公爵のような底抜けの明るさのような形では出ません。それは憧れと云うオブラートに包まれて、ふんわりした柔らかい形で出て来るのです。(このような表出形プロセスを取るのは、日本での支配階級と庶民との関係が、欧米のようなストレートな対立構図では捉えられないせいでしょう。これはとても興味深い現象ですが、本稿では指摘するに留めます。)若衆としての柔らかい色気こそ、求馬が持つ軽薄さが持つものです。或いは「妹背山・御殿」の豆腐買い・いじめ官女を見ると、近松半二はずいぶんと奇天烈な設定を考えたものだなあとそのセンスをいつも興味深く思いますが、代弁する形でそこに支配階級の軽薄さ・傲慢さが表現されているのかも知れませんね。
(H30・4・8)