吉之助流「歌舞伎の見方」講座
第7講:「劇評を読む・その2」
1)なんでも取り込む
いろいろな機会に申し上げておりますが、吉之助にとって武智鉄二氏はほとんど「師」と仰ぐべき存在でありまして本サイト「歌舞伎素人講釈」は武智氏なくして存在しないのであります。しかし「劇評を読む・その1」にも書きました通り、武智氏の若い頃の批評は毒舌の連続で「気に入らないものは徹底的に叩きまくる」という感じの批評でした。武智氏は六代目菊五郎崇拝でしたが、芸風でその対極にある十五代目羽左衛門などはそれこそケチョンケチョンにけなしてました。そういうことで武智氏は「逆賊武智」などと言われたりして敵が多かったのです。もっとも本人はそれを楽しんで悪役を気取っているようなところがありました。「ホンモノは誰にでも理解されるものじゃないんだよ」という感じもあったことは確かです。
歌舞伎学会誌「歌舞伎」26号で、山田庄一氏が武智氏の思い出を語っておられます。昔、山田氏は「武智はけしからん。あんなことやっていたら、むしろ歌舞伎は滅びる」ということで友人と夜中に武智氏宅に押しかけたのだそうです。
『そしたら武智さんがいて、「どうぞ上がってくれ」と。それで上がってしゃべったら、書いていることとしゃべるのと全然違うんだよ。こっちが自分の意見を言うと「その通りだ」って言われて、こっちは何か拍子抜けして、しゃべっているうちに何かうまくまるめこまれちゃった。それがつきあいの始まり。(中略)悪いところもすっかり分かっていて、しかもそれが必ずしも嫌いじゃなかったと思う。直接に話をしていると、それをすごく感じた。』(座談会「武智歌舞伎とその時代」)
この話を読んで「はあ、なるほど」と思いましたのは、最晩年の武智氏の批評は「これは武智さんならケチョンケチョンだな」と思うような舞台を褒めていたりして拍子抜けするようことがありましたが、あの頃の武智さんはもう評論家でなく歌舞伎ファンとしてお書きであったのだなと思ったことでした。「武智さんも年を取ったな」と言っているのではありませんので、誤解のありませんように。もう少し別のことを考えております。批評というのは視点が明確でなければ議論として面白くなりませんから、若い頃の批評家武智氏はわざと意識して毒舌と挑発を駆使していたのでありましょう。晩年はそういう肩肘張ったようなところがなくなって純粋な歌舞伎ファンとしての地が出たということなのかも知れません。
批評にしても演出にしてもそうですが、「あれもいいし、それも味がある、これも捨て難い」と言っていたら仕事になりません。最終的にはひとつの視点をもって取捨選択・あるいは切り捨てるということがどうしても必要になります。もちろんその判断によって取りこぼすものもあるわけですが、それを恐れていたら仕事にはなりません。仕事とはそういうものです。しかしベストの判断をするためにはそれぞれの良さも悪さも知っていないと、もちろん判断の仕様がないわけです。なるほど武智さんはやはりそうしたものをすべて認めて・取り込み・楽しむ度量の大きさを持っておられたわけだ、と改めて思ったことでした。
本サイト「歌舞伎素人講釈」においてもひとつの原稿はひとつの視点で書きませんと文章の論旨がおかしくなって読み物にならないので、当然ながら取捨選択はせざるを得ません。しかしそこが素人の良さというか柔軟性というか、節操の無さと言うべきか、「あれもいいし、こちらも味がある、こちらも捨て難い」という時には、 吉之助は「同じ芝居を三通りの切り口で楽しめる・三通りの文章が書ける」と思うことにしております。「歌舞伎素人講釈」は批評行為も含むと思いますがそれだけではなく、歌舞伎ファンが「より深く・多角的に歌舞伎を見る・楽しむ」ためのヒントを提供することを目的としております。したがって「これは面白い」と感じれば、そう思う材料は何でも取り込むことを旨としております。
2)「なぞり」と「偏向」
しかし「いろいろな感じ方・見方をすべて取り込んで味わう」というのは、簡単なようでいて実は非常に難しいことなのです。芝居でも音楽でもそうですが、大体、人間は一度何かに感激しますと、多かれ少なかれ、無意識のうちにまたそれと同じものを望むというか「なぞる」というような感じがあります。たとえば、フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンに感動して以来、その他の指揮者の演奏に感動できず、「フルトヴェングラーは最高だ、他は糞だ」と言い張っているような人はよくおります。本人が満足しているのだから、まっ、それはそれでよろしいで すが、傍から見ておりますと「他の名演奏に不感症」だというのは可哀相なお方であります。こういう人は何を聞いても自分の理想(と思い込んでいるもの)をなぞっているに過ぎません。一方、自分の好きなものを賛美する傍らでそれに反するものを否定・糾弾したくなる衝動も、誰でもいちどは感じるものです。これは劇評などを読み、その歌舞伎の見方を学んでいく過程では必ず誰にでも起り得ることだと思います。こうした「なぞり」と「偏向」を繰り返しながら、歌舞伎ファンも少しづつ成長していくものだと思います。
吉之助自身を振り返っても「なんでも認めて・取り込んで・味わう・楽しむ」心境に至ったのはついこの前くらいのことで、思えば二十年くらいはかかっております。そんなものですから、「早く歌舞伎が知りたい」とあせっても仕方ないことだと思います。まずは芝居を見て劇評を読みながら、時には「なぞり」ながら、時には「偏向」しながら、少しづつ自分なりの歌舞伎の楽しみ方をじっくり探って・熟成させていくということだと思います。それにはやはりそれなりの時間がかかるのです。
「歌舞伎素人講釈」がそのお手伝いに多少でも役立てば幸いでございます。
(H13・10・17)