吉之助流「歌舞伎の見方」講座
第4講:劇評を読む
1)劇評を読む
歌舞伎観劇の楽しみをさらに倍加するために、芝居を見た後には雑誌「演劇界」でも新聞でも結構ですから、その舞台の劇評を必ず探して読むことをお勧めしたいと思います。歌舞伎を楽しむには自分にそれなりの尺度を持たなくてはなりませんが、それが育っていくまではやはり先輩の目を借りて「学ぶ」ことが必要になります。劇評を読みながら、その舞台を見た時の感動や疑問を思い出し再確認していく・・・これは観劇のあとのお楽しみであると同時に、鑑賞眼を養うために非常に役に立つ作業であると思います。
しかし人に劇評を読むことを勧めておいて何ですが、現在の吉之助は劇評を読むことはほとんどなくなってしまいました。最近は、読むというより資料として見る感じで劇評を眺めるようになってしまって、真剣に読む気にはあまりならなくなってしまいました。じっくり読むのは、名前はここでは挙げませんが自分が信頼できるほんの何人かの批評家の劇評に限られています。もうある程度見方が固まってしまっているせいかも知れません。
もっとも歌舞伎を見始めた頃には誰の劇評でも読みましたし、どの劇評からもそれなりに教えられたものでした。そのうち、「これは自分の感じたことと違う」とか「この見方はおかしいのじゃないの」とか思うようになって、次第に劇評からおさらばしていくものだと思います。そうなるまでは劇評はやはり「歌舞伎を見る目」を育てるために有用なものだと思います。そのなかで自分の信頼できる劇評家を選んでいくべきでしょう。
「どういう劇評を読むべきなのか」という質問は非常にむつかしい質問です。これもご自分の目で読み、ご自分の感性で選択していくしかありません。どのような劇評家に出会い、影響されていくかも「ご縁」であるとしか言いようがありません。
批評家の好みに影響されるということも実際にあります。音楽の話ですが、日本ではオペラ歌手というとマリア・カラスがダントツで人気です。カラスは確かに素晴らしい歌手でしたが、ヨーロッパでは高い評価をうけているジョーン・サザーランドやモンセラット・カバリエは日本では人気がさっぱりありません。これは日本のオペラ批評の重鎮の高崎保男先生のせいだと巷では密かに言われております。それはまったくその通りだと思います。高崎先生の熱烈なカラス賛辞のあとに、「美しいばかりで内容的には何もない人形みたいな・・」というようなサザーランド評をさんざん読まされて、彼女の歌唱を聞こうという気になりましょうか。かく言う吉之助もその被害者で、たまにサザーランドの歌を聞くと「どうも高崎先生は間違ってるようだ」とは思うのですが、吉之助のオペラのCDコレクションは概ねカラスで揃ってしまっているのでした。しかし吉之助のオペラの聴き方は高崎先生に教わったといってもいいのですし、まっ、これは高崎先生への感謝も込めた不平なのでありますが。吉之助の歌舞伎での六代目菊五郎崇拝(見てもいないのに!)も、尊敬する批評家武智鉄二の影響なのは間違いありません。
2)自分の感じたことが一番正しい
批評というのは詰まるところは「好きか、嫌いか」なのである、と言う人がいます。そういうところがあるかも知れませんが、そう言い切ってしまうと身も蓋もない感じがします。もちろん発端は「好き、嫌い」にあっていいのですが、「なぜ好きなのか、なぜ嫌いなのか」を自分が納得できるまで追求していく、その過程にある種の客観性が備わっていなければそれは「批評」とは申せません。客観性がない文章は、単なる「個人的感想」に過ぎません。
批評というのは、「神に代わってその物の価値を断じる」というものでは決してありません。劇評であれ音楽評であれ、その演技なり演奏なりを「いいの悪いの」と他人が断じることは恐れ多いことで、本来は神でもない者がそういう恐れ多いことをやっているのだという謙虚さが批評家の側にないと、「その文章が卑しくなる」と吉之助は思います。こうしたことが分からずに、「個人の好き嫌い」を前面に押し出した文章で「辛口批評」を気取っているのをしばしば見かけますが、困ったことです。
武智鉄二も若い頃の文章を読むと、気にいらない役者の演技に「国語の勉強をやり直すべきだ」とか「脳膜炎」とか罵詈雑言をぶつける傾向がありましたが、これで武智氏は要らぬ敵を随分作ったと思いますし、これが氏の業績が正当に評価されない遠因にもなっていると思います。吉之助も若い頃は武智氏のこうした調子の文章を面白がって読んでいた時期がありましたが、今にして思えばやはりこうした批評態度はチトまずいと思うのです。(もっとも武智氏の場合は本人が意識して憎まれ役を気取っていた面があったと思いますし、論戦を吹っかけてやるくらいの気があったのかも知れません。)この「歌舞伎素人講釈」も評論の一種でありますから、この点は重々気を付けるようにしております。
批評も薬にもなり毒にもなります。自分がいいと思っていたものが批評でけなされていて自分の鑑賞眼に自信をなくすということもあります。逆に「こいつは何を書いているんだ」と怒りたくなる批評もたまにあります。そういう一喜一憂する過程も踏まないと鑑賞眼は育っていかないのかも知れません。しかし、申し上げたいのは、批評を読んであまり一喜一憂などせずに、自分が「これは良い・悪い」と感じたことにすべての原点があるのだから、その感覚を大事にしたいということです。
それには批評の良いとこだけを取って自分の栄養にしていくのがいいのじゃないでしょうか。自分のいいと思ったところが褒めてあれば、「そうだ、その通りだ、分かってるじゃないか」と思い、自分のいいと思ったのをけなしていれば「こいつはこの良さが分からないのか、可哀想な奴だ」と思って気にしなければよろしい。自分が良くないと思った演技を褒めていた時は「なるほど、そういう見方もあるのかな」とちょっと取り入れればよろしい。そうしたなかで自分とフィーリングの合う劇評家を選んでいけばいいと思います。
(H13・7・13)