追悼・小澤征爾さん
*小澤征爾さんは、令和6年(2024)2月6日死去。
1)追悼・小澤征爾さん
指揮者・小澤征爾さんが先頃(6日)亡くなったとのことです。日本のクラシック音楽ファンにとって、小澤さんは日本人音楽家が世界で活躍する道筋を切り拓いたパイオニア的存在でありました。現在世界で活躍する日本人演奏家は数多くいますが、みんな小澤さんの後を追ってきた人たちです。吉之助は小澤さんの演奏を生(なま)で聴く機会はそれほど多くなかったですけど・いろんな録音を通じて・もちろん吉之助の音楽歴のなかでも重要な音楽家の一人です。取り留めのない文章になるかも知れませんが、本稿で小澤さんに感謝の意を伝えたいと思います。
吉之助は小澤さんと個人的な面識はありませんが、小澤さんに声を掛けられたことが一度あります。それは1983年8月17日のザルツブルク祝祭劇場でのことで、当日はロリン・マゼール指揮によるベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」上演でしたが、第1幕が終わって・その休憩時間に2階ロビーの柱に寄りかかってプログラムをパラパラやっていた時でした。「ヨオッ」と声がしたので顔をあげたら、10mくらい先でタキシード姿の小澤さんが吉之助に向かって笑顔で右手を振っていらっしゃいました。吉之助は慌てて最敬礼をしましたが、それだけのことなんですけどね。多分吉之助のことをこちら(欧州)に勉強に来ている音楽学生だと勘違いしたのだと思います。あの頃の吉之助は既に歌舞伎は毎月見ていましたが、まだ音楽評論を諦めていなかったし、若い頃の吉之助には音楽をやっていそうな雰囲気はあったと思いますね。小澤さんは21日にウィーン・フィルを振る予定(ベートーヴェンの第7番など)であったので早めに現地入りをしていたようです。ただし旅程の関係で小澤さんの演奏会は聞いていません。
今回の訃報に当たり多くの方が同様のコメントをなさっていますが、音楽で結ばれた人には分け隔てなく接する気さくな方であったと思います。吉之助の脳裡には小澤さんのあの時の笑顔が今もしっかり刻まれています。あの頃に携帯があればその場で写真を撮っていたところだが、写真がなくてとても残念です。
小澤さんの音楽的業績は今更ここで書くまでもないことですが、小澤さんが24歳の時、「外国の音楽をやるためには、その音楽が生まれた土地、そこに住んでいる人たちのことを知らねばならない」と一念発起して、スクーターに乗ってヨーロッパ一人旅にむかった話を本にまとめた「ボクの音楽武者修行」(昭和37年・1962年刊行)は、小田実の「何でもみてやろう」((昭和36年・1961年刊行)と並んで、その後の日本の若者の海外旅行ブームの先鞭をつけたものだと思います。そういう意味では音楽以外の功績も大であったわけです。吉之助も(スクーターに乗ってではないけれども)学生時代にヨーロッパ一人旅をしたのは、小澤さんの影響が多少なりともあったことは疑いのないところです。(この稿つづく)
(R6・2・10)
2)インターナショナルなものと内なる日本との対立
昨年(2023)3月にリッカルド・ムーティによるイタリア・オペラ・アカデミーを聴講した時、ムーティ以外・ここ(東京文化会館大ホール)に集まったのはほぼみんな日本人(オケも合唱団もソリストも・吉之助を含む聴講生も)で、どうして・何のために・我々はここに集まって・海の向こうの文化(ヴェルディ)を必死に学ぼうとするのか?、どうしてムーティは情熱を傾けてこの極東の異国に正しいヴェルディを伝えようとするのか?という問いが湧き出てきて、この問いははっきりとした結論を見出さないまま、吉之助のなかに今も残っています。
多分吉之助の場合これは、どうして自分は歌舞伎や文楽など日本の伝統芸能の奥底を知りたいと頑張っているのか?と云う思いと表裏一体を成していると感じます。インターナショナルなものを追おうとするとますます内なる日本と向き合わざるを得ないということです。逆から言うと、内なる日本のイメージを研ぎ澄ませるためにインターナショナルなものと対峙せざるを得ないということでもあります。(必ずしもインターナショナル=普遍的ではないのだが、そこに普遍的なものへの取っ掛かりがあるだろうという幻想・と云うか目論見がある。)本サイト「歌舞伎素人講釈」のなかに歌舞伎とオペラが混然としているのも、そう云うことであろうと自己分析しています。
そう云う意味では、1950年代に日本を飛び出して・欧州の音楽界に斬り込んでいった小澤さんの生涯もそう云うところがあったと思うのです。しかし、西欧音楽の厳格な体系とあの時代の欧州楽壇の保守的な価値観・システムのなかで単身勝負するということになると、内なるものを捨ててでも・インターナショナルに徹しないと活路が拓けない場面が多々出てくるわけです。東洋的なモーツアルト、日本的なベートーヴェンなんて言っておれないのです。そのなかで欧州の音楽界に自分を認知させて行かねばならなかった小澤さんの苦労は、相当なものであったろうと思います。多分現在世界楽壇で活躍している若者(小澤さんより40年ほど遅く生まれた世代)はそう云う切迫した思いをあまりせずに済んでいると思います。あの頃とは時代環境が全然変わって、多様性が受け入れられる時代になっています。これはもちろん小澤さんの苦労のおかげと云うことでもあります。
このように吉之助は小澤さんの音楽をどうしても「インターナショナル」というキーワードで捉えてしまうところがありますが、小澤さんの演奏から「日本」(と云うか東洋)をそこはかとなく感じたことが全然なかったわけではありません。吉之助にとってはそんな思い出深い小澤さんの演奏(録音)を二つあげておきます。
ひとつはベルリン・フィルとのバルトーク:管弦楽のための協奏曲(1994年10月27日・ベルリン・フィルハーモニー・ホール)、もうひとつはサイトウ・キネンOとのマーラー:交響曲第2番「復活」(2001年1月2日・東京文化会館)です。「吉之助のクラシック音楽雑記帳」の小澤さんの項をご参照ください。
*小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ
マーラー:交響曲第2番「復活」
2000年1月2日東京文化会館ライヴ小澤さんは、日本各地をまわって音楽の愉しさを広める演奏会など長期に渡り地道に続けて来られました。別にプロの演奏家になるためだけが音楽を学ぶということでなく、もっと気楽に音楽の愉しさを知ってくれたらそれでいいんだと、そういう場合にはモロにローカルの地を出していたようです。そこのところは割り切って考えていたと思いますね。
『僕が西洋の人と同じようにバッハができることになるのが目的ではなく、問題は、演奏した時にその僕がやったっていう価値があるものが出て来るかどうかなんです。(中略)ドイツ語を話す人、イタリア語を話す人がやるバッハではそれぞれ味が違う。日本で地方にホールがありますよね。そこでやるバッハは、東京とかウィーン・ミュンヘンでやってるのと違うけど、価値がある時代がくれば最高なんです。そこに聴きに行くと、「おらがバッハだ、音楽だ」と、西洋人が書いた曲なんだけど、おらがやるのが価値があるんだ、というところまでくればもう立派なもんだね。』(小澤征爾インタビュー:「週刊朝日」02・3・8号)
まあそう云うわけなので、吉之助のなかでの小澤さんは、インターナショナルなものと内なる日本との対立を一身に背負い、敢えて「インターナショナル」に徹した音楽家ということになりましょうかねえ。ご冥福をお祈りします。
(R6・2・13)