絶対的なるもの〜吉田秀和・最後の言葉
いつもの通り歌舞伎と関係ない話から始まりますが、2012年6月号の「レコード芸術」誌の特集が、30名の音楽評論家の投票に拠る「名演奏家ランキング:ピアノスト編」というものでした。吉之助はこの手のランキングにもう全然興味がないので、お遊び程度に考えれば良いことですが、一応、順位を記しておくと、
1.ホロヴィッツ、2.リヒテル、3.ポリーニ、4.アルゲリッチ、5.ルービンシュタイン、6.グールド、7.ミケランジェリ、8.グルダ、9.フランソワ、10.ゼルキン
でありました。別に順位はどうでもよろしいのですが、まあそれなりの名前が挙がっているとは言えます。この10人のなかで現役はポリーニとアルゲリッチのみ、他は物故者ですね。20位までを見ますと、
11.バックハウス、12.アラウ、12.(同点)ギレリス、14.コルトー、15.リパッティ、16.エマール、17.ハスキル、18.ブレンデル、19.ギーゼキング、19.(同点)ケンプ、19.(同点)ラフマニノフ
このなかで現役はエマールのみ。ブレンデルは既に引退、他は物故者です。コルトー、リパッティ、ラフマニノフなどモノラル時代の演奏家の名前も登場します。この辺は歌舞伎で言えば、六代目菊五郎・初代吉右衛門・十五代目羽左衛門というところになりましょうか。いちおう、20位までで入るべき演奏家はほぼ入っているという・至極まっとうな結果になっているようです。(細部を見ると個人的にこの人を入れたいという思いは残りますが。)この豪華顔触れだとこれからの若手ピアニストが将来に1位どころかベスト10に入ることも、ほぼ不可能でしょうねえ。誤解があっては困るので付け加えますが、音楽批評の場合は録音媒体を材料にすることが多いため、対象のピア二ストの時代がほぼ100年に渡ってしまい、上記のような結果になってしまうわけです。音楽評論家が現役ピアニストを軽んじて・過去のピアニストばかり聴いているわけでないのは当然のことです。むしろ現役ピアニストの解釈論を展開するために、ますます過去のピアニストを聴かねばならないということになります。それにしても、現役若手ピアニストが聴衆からホロヴィッツやリヒテルと始終比べられていると思えば、これは確かにシンドイことだと思います。実際、吉之助も演奏会から帰ってから・同じ曲のいろんな演奏家の録音を取り出して・解釈を比べてみるなんてことはしばしばあるものです。 表現の巧拙などではなく、解釈が作品の本質にどれだけ迫っているかということです。音楽批評はもはや時系列を越えたところで成立していますし、そうならざるを得ません。
映像記録が急激に増えているとは言え、歌舞伎のように生(なま)信仰の強い世界で同じような現象が起きることは当面ないでしょう。しかし、時代と伝統芸術との乖離が徐々に強まっている昨今においては、過去の映像を見ることのニーズはますます高まっています。これは「芸のレベルが段々落ちてきている」とか「型が崩れてきている」ということではありません。今の歌舞伎が見ていられないレベルで・昔の歌舞伎の方が良かったなんてことを言っているのではありません。伝統芸術というのは過去から発し・そこから展開していくものですから、常に過去に立ち返り・過去から高められねばなりません。だから過去の映像の価値が次第に高まっているのです。同様な意味において、現役歌舞伎役者は六代目菊五郎・初代吉右衛門・十五代目羽左衛門と始終比べられねばならないと思うわけです。
『(渋)(九代目団十郎の)助六なんかはどうですか。/(遠)これは昔は団十郎以外はやらなかったから。/(渋)ダメですか。/(遠)だれも足元に及びませんよ。/(渋)写真で見ると団十郎って人はそう大きい人じゃないでしょう。だから(十五代目)羽左衛門の方が見栄えがあるというような気がす るんだけれど。/(遠)しませんね。それはもう大変な違いです。/(渋)例えば弁慶なんかなら、先代(七代目)幸四郎の方が立派に見えるように思いますけど。/(遠)だけどもダメですね。/(渋)動かなくても出てきただけでもダメですか。/(遠)ダメですね。/(渋)それは遠藤さんの信仰みたいなものじゃないですか。/(遠)いや信仰と言われるかも知れません。信仰と言われても、そうじゃないという証拠がないからな。/(渋)同時に信仰だという証拠は挙げられませんわね。たくさん芝居をご覧になってる遠藤さんがそう言われるんだから、そうに違いないと思うんだけれど、そうですかね。/(遠)これが六代目菊五郎のすることと勘三郎のすることと、どっちがうまいかと言われりゃ、両方見てる方ならすぐ答えられるでしょう。それと同じだと、あたしは思うな。』(対談「歌舞伎よもやま話」・渋沢秀雄・遠藤為春・季刊雑誌「歌舞伎」第6号・昭和44年)
団菊爺いの遠藤為春氏の対談です。どこがどう違うと説明しないで、「全然違うんだ」とただ繰り返すだけ。こういうのを老人の繰言だと笑う方は多いかも知れませんが、どうも九代目は違ったらしい・・・ということを教えてくれていれば、役目は十分果たしているのです。九代目のどこがどう違ったのか・どこが良かったのか、そういうことは我々が考えるべきことです。音楽批評の場合は膨大な録音資料がありますから・そういう意味では楽なわけですが、方法論としてほぼ同じと考えてよろしいのです。
『人はいつでもこう言います。「誰々の指揮した(ベートーヴェンの)第7交響曲を聴きましたが、素晴らしかったです。」 私は答えます。「そんなことを私に言ってはいけません。私は同じ交響曲をマーラーが指揮したのを聴いたことがあるのですから。私には分かっています。」』(オットー・クレンペラー:「クレンペラーとの対話」・白水社)
クレンペラーとの対話 ピーターヘイワース編
吉之助は上記のような音楽の聴き方に慣れていますから、歌舞伎の場合でもまったく同じ対し方です。40年前はビデオなんてものは普及していませんでしたから、若い頃の吉之助は雑誌で戸板康二や渥美清太郎・志野葉太郎といった面々の・型の研究の記事を読みながら、さっき見た舞台の光景を反芻してみたものでした。そこから感触の違いを自分で想像したものです。今でも吉之助は劇場から帰ってから、同じ作品の気になった場面を複数の役者の映像でチェックすることがしばしばです。九代目団十郎や六代目菊五郎は映像というわけに行きませんから文献との併用になりますが、映像記録媒体を使用することに全然抵抗を感じないのが吉之助の評論スタイルなのです。そういうやり方を吉之助はクラシック音楽から学びました。
それは当代海老蔵や染五郎・猿之助ら若手の芸と、九代目団十郎や六代目菊五郎・初代吉右衛門の芸を同一線上で捉えるということです。これは、どちらが良いとか悪いとか・好き嫌いを論じるということとは違って、何かひとつの尺度のうえで芸を論じるという対し方のことです。もちろんその尺度は吉之助のなかにあるものですが、批評のなかで尺度の意味自体も問われることになります。昭和30年前後は雑誌「幕間」などでも伝統芸能家ランキングなんて企画がありました(もっともこれは当時現役の伝統芸術家のランキングでした)が、近年はそういう企画はないようです。あってもファンの人気投票みたいな感じになってしまうでしょうね。今は歌舞伎の世界よりも、クラシック音楽の世界の方が ある意味で伝統芸術的なのかも知れませぬ。
(H24・7・1)
去る2012年5月22日に音楽評論の御大・吉田秀和氏が亡くなりました。その翌日から本サイトのアクセスが急激に増えまして・何事?と思いましたら、調べてみると・それは別稿「吉田秀和は本当に偉いのか?」の記事のせいでした。これは現在も続いていて、吉田氏の根強い人気を改めて実感した次第です。わざわざおいでいただきました音楽ファンには大した文章でなくて恐縮でした。本サイトも歌舞伎でなく・音楽でおいでくださる方も多いようですので、そっちの方の記事も増やしたいなあと思っています。
さて「レコード芸術」誌の2012年7月号では・遺稿となった連載の「之を楽しむ者に如かず」と共に「吉田秀和・追悼特集」が組まれました。そこでの記事ですが、雑談・前回で触れた「レコード芸術」誌・6月号の「名演奏家ランキング:ピアニスト編」について担当編集者に、「どうして今、ポリーニでも・アルゲリッチでもなく、ホロヴィッツなんだろう?不思議じゃない?(中略)あのランキングは、少し前ならやっぱりホロヴィッツがこんなに支持されることはなかったんじゃないだろうか。こんな演奏がいい、と皆が感じる何かが変わった。簡単に言えば、より広く、より自由な表現がも求められるようになった。いろんなことがひと回りして、また時代が変わったんだよ。」と仰ったのだそうです。この発言が5月21日のことだったそうですから、これが事実上最後の言葉になったようです。
吉田氏の仰ることは何となく分かる気がします。吉田氏がホロヴィッツ1位の結果に異議を唱えているのでないのは当然のことです。吉之助が音楽を聴き始めた1970年代であれば、当時のクラシック・ファンには古い録音より新しい録音の方が良いという感覚が間違いなくありました。こういうのは未来に希望が持てて・頭打ちになることなくどんどん成長していく時代の雰囲気に関連するものだろうと思います。もしあの頃にランキングを取ったならば、少なくともモノラル時代の名演奏家は後退して・現役中心の順位になったに違いありません。どうして今、ポリーニでも・アルゲリッチでもなく、20年前に死んだホロヴィッツなんだろう?という疑問は、改めて問われてみると、なるほど確かに「時代の何かが変わった」ということなのでしょうねえ。そういうことをサラリと指摘できる感覚が吉田氏の鋭いところです。
実は吉之助は昔からのホロヴィッツ・ファンであるので、ランキングの結果に違和感はないのです。投票した音楽評論家諸氏もホロヴィッツに同時代で親しんだ世代だと思いますから、批評基準のなかにホロヴィッツが沁み込んでいると思います。しかし、ホロヴィッツは1989年没ですからレパートリー的にもほぼ全体像が見渡せるものを良好な音質で十分量残せた(映像も結構残っている)ピアニストだと思いますから、今後も恐らく「神話」が揺らぐことはないと思います。ホロヴィッツは神話になり続けるでしょう。吉田氏は「時代の何かが変わった」ということの意味を詳しく語らなかったようですが、絶筆となった「之を楽しむ者に如かず」を読むと、その答えは出ていますね。
『音楽、いや演奏というものは、ある絶対的なものの追求に他ならない。その絶対的なものはちょっとやそっとでは捕らえられず、実現できない。演奏家たちはそれを掴まえようと必死になっている。私たちは、その姿に感動する。そうしてその彼らのなかから、ある絶対的なものに到達して、あるいはほとんど到達して「神話」の高みにまでのぼりつめようとしたものが出てくる。(中略)そういうものの存在に敏感な公衆がないところには、「絶対的なるもの」のきれはしさえ存在し得ないのだろうか・・・。』(吉田秀和:「之を楽しむ者に如かず」〜「ある絶対的なもののために・ハイフェッツとボロヴィッツ」・絶筆・「レコード芸術」誌・2012年7月号)
100年に渡る録音アーカイヴの蓄積のなかで、音楽表現は地層のように積み重なって、伝統芸能の如き趣を呈し始めているのかも知れません。「神話」が確かにそこに存在したということが、録音・映像という・ある程度確固とした情報で確認できるからに違いありません。あとは自分の感性 と想像力で肉付けしていけば、神話は出来上がります。実際優れた演奏家というのは、他人の演奏・いろんな録音を実によく聴くものです。現代の演奏家はそのような環境から逃れることは決してできないのです。本サイトは歌舞伎のサイトなので・歌舞伎で締めますが、歌舞伎こそ伝統芸能なのですから、そのような「絶対的なるもの」への憧れが常に頭のなかになければいけないと思います。そういうものの存在を昨今の歌舞伎は・歌舞伎評論は忘れていませんかねえ。吉田秀和氏のご冥福をお祈りします。
(H24・7・7)
○絶対的なるもの(続)
前項で「そういうもの(絶対的なるもの)の存在に敏感な公衆がないところには、「絶対的なるもの」のきれはしさえ存在し得ないのだろうか・・・」という吉田氏の絶筆の文章を引きました。ここで「絶対的な存在・絶対的な美・絶対的な表現」というものをちょっと考えてみたいと思います。巷間多く見かける誤解は、絶対的なものというものを「唯一無二のもの」・ただひとつだけの完全無欠なものという風にイメージすることです。「○○の演奏が最高・これを聴かなければこの曲は分からない・これに比べれば他の演奏は聴けたものではない」ってなことを言う方にしばしば出くわします。そういう方に吉之助は別に反論はしませんけれども(お好きになされば良ろしいことです)、静かにその方の傍を離れます。
「絶対的な表現」というものの解はひとつではないのです。○○ではこの表現が絶対だと思えても、□□では別の表現こそ「これしかない」と思えることはしばしばあるものです。 また別の表現でもそれが起きる。だから、その解は無限にあるのです。それじゃ絶対とは言えないじゃないか・・と言う方がいるかも知れませんが、「絶対的な」というのは域のことを言うのであって、そこに至る過程(解)は無限にあるのですよ。音楽を聴き込んでいけば、そういう真理は自然に会得されるものだろうと思いますが、しかし、残念ながら、そうならない方もしばしばお見受けいたします。
ですから「そういうものの存在に敏感な公衆がないところには、「絶対的なるもの」のきれはしさえ存在し得ないのだろうか・・・」という吉田氏の文章は意味深なのでして、 逆に返して言えば「そういうものの存在に無関心な公衆・そういうことを感じ取らない公衆が増えてくれば、絶対的な存在・絶対的な美・絶対的な表現も消えてしまうということになるのだろうと思います。
まあ雑音の多い世の中です。「曽根崎心中」を見ても絶対的なるものを感じ取れない政治家もいるようです。「曽根崎心中」が分からなくても良いのです。別にその必要もないと思います。しかし、人がそういう世の中を懸命に生きてきた時代もあったんだなあという真実(絶対的なるもの)は感じ取れなければなりません。そういうことが感じ取れない人物に今という時代の真実が感じ取れるとは、吉之助には思えないのです。「私はそういうことが感じ取れない貧しい感性の人間です」と公言しているようなものです。そういうことは普通恥ずかしくて公の場で言えないものだと思いますが、感覚が麻痺しっちゃってる方はそういうことさえ分かりません。「感動しました」なんて見え透いたお世辞を言う必要はないのです。ツマランものはツマラなかったと言ってもらって結構ですが、絶対的なるものに懸命に迫ろうとしている人たちに対する最低限の敬意は持ってもらいたいものです。
これは音楽や歌舞伎・文楽に限ったことではありません。「絶対的なるもの」という感覚は、いろんなところに、政治の世界においてもあるものだと思います。そういうものの存在に生活レベルにおいて敏感でありたいものだと思います。これは一票を投じる我々有権者にとっても同様です。そうでなければ良い世の中になるはずはありません。
(H24・8・4)