折口信夫の科学的思考
別稿にて「折口信夫への旅」という論考の連載を始めました。連載はいつもよりゆっくりしたテンポでたらりたらりと進みます。「歌舞伎素人講釈」を読めばお分かりの通り、折口信夫は武智鉄二と並んで吉之助に強い影響を与えているもうひとりの師匠です。最近の吉之助は文章を書いている時に「折口さんならここはこう書くかな」と思って書くことが特に多くなりました。そう言えば最近の文章の調子が何やら折口に似てきたように思いますが、そういうことも嬉しく感じます。そういうわけでそろそろ二人目の師匠についても少しまとまったことを書いておきたいと思いました。というのは、いわゆる折口学と呼ばれるものはよく引き合いに出される割に理解されていないと感じるからです。
折口信夫の文体がどうも・・という方は少なくないと思います。例えば「仇討ちのふおくろあ」を例に取りましょうか。(吉之助の論考では「かぶき的心情と仇討ち」のなかで引用しています。)
『横死というのは自分の意思で死んではいないのです。また神がそうさせたのでもないのです。してはならぬ事により、入ってはならぬ所にはいったり、動物に殺されたりした場合なのです。普通の場合、こうした問題が起きるのは、血を出された側の方から起こって参ります。死人が血を出して罪に触れた事を償う為に、その親族が斬り殺した者を殺すわけで、そうする事によって償いが完了することになるのです。いわば仇討ちはお祓いの一種だということになるのです。それをしないと、罪障が消滅しないのです。』(折口信夫:「仇討ちのふおくろあ」・折口信夫全集第17巻)
こういう調子で決め付けたように書かれると、人によっては「どうして論証を経ないでいきなりそんなことがまるで結論みたいに言えるんだ」と反発を感じることがあるようです。まあ相性ということもあるでしょうねえ。折口の思想と文体は一体でありますから、つまり折口の思考の紡ぎ方というのがああいう感じで出てくるのですから、文体が合わないのならば・残念ながら折口の思想とはご縁がないというべきです。どこやらに「折口の学問は尊重するけれども、文体がわたしの口に合わない」とお書きになった先生(名前はあえて伏す)がいらっしゃいました。分かったような振りをしないで・正直に「折口の言ってることが分からない」と書けばよろしいのです。別に恥ずかしいことではないと思いますけどねえ。折口の思考法というのは論証を段階的に積み上げていって結論を導き出すというような経路を取らないのです。まず結果に向かって一本の線を引いてみます。このような結果に至るために、プロセスはこのような過程を経るのが自然であろうと考えます。そのような考えに沿って周囲を見回してみると、その考えを裏付けるような事象がいくつか見付かる。ということはその考え方が正しい可能性が高いということです。もちろん否定する事象が見付かる場合もしばしばありますが、その場合は考え方に修正を加えれば良いことです。そうやって右から左から叩きながら修正して、正しくあるべき理論を構築していきます。折口の場合はそのような思考経路を辿るのです。だから初っ端が入れないと折口の思考に付いていけなくなります。
折口の思考は感覚的であるとよく言われます。言い換えれば折口の思考はしばしば飛躍して非科学的であると思われているのです。しかし、それは大きなお間違えです。論証を段階的に積み上げていって結論を導き出すような思考法だけが科学的思考法であると信じているとそういうことになります。それは吉之助に言わせればアインシュタイン以前の科学なのです。(いちおう吉之助は理系の人間ですので。)1905年に発表されたアインシュタインの相対性理論は1919年に皆既日食があって・太陽の傍にある星の光がアインシュタインの予言通りに曲がることが確認されるまで実験的には証明されませんでした。しかし、結果的に言えることですが、1919年以前の相対性理論は仮説としてあったのではなく・正しくあるべき科学的推論が導いた真理としてあったということです。科学史の教えるところはそういうことです。まあそういうわけで、科学を学んでいたおかげで・吉之助には折口信夫の思考法がとても科学的なことがよく分かるのです。
『今年の盂蘭盆には思ひがけなく、ぎりぎりと言うところで・菊五郎が新仏となった。こんなことを考えたところで、意味のないことだけれど、舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すといった、鮮やかな彼の芸格に似たものが、こんなところにも現われているやうで、寂しいが、ふつ と笑ひにも似たものが催して来た。このかつきりとした芸格は、同時代の役者の誰々の上にも見ることの出来なかったものと言へる。此を、彼の芸が持つ科学性と言つても、ちつともをかしくない。』(折口信夫:「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)
六代目菊五郎に対して「科学性」という言葉を使うのが奇妙に感じるかも知れませんが、ここで折口にふっと「科学性」という言葉が口をついて出てくる所が、吉之助には何とも嬉しく感じられるのです。しかし、吉之助の論考「折口信夫への旅」も科学的には見えないかも知れぬなあ。科学的なのですけどね。
(H22・4・27)