近松門左衛門について
*「吉之助の雑談」での近松門左衛門関連の記事をまとめました。
近松門左衛門の「虚実皮膜論」(きょじつひまくろん・「ひにくろん」とも読む)は、近松の芸能についての考えを知る上での重要な資料ですが、そのなかに次のような文が出てきます。
『芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也。あるほど今の世実事によくうつすを好む故、家老は真(まこと)の家老の身ぶり口上をうつすとはいへども、さらばとて真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂白粉(べにおしろい)をぬる事ありや。また真の家老は顔をかざらぬとて、立役がむしゃむしゃと髭は生(はえ)なり、あたまは剥(はげ)なりに舞台に出て芸をせば、慰(なぐさみ)にあるべきや。皮膜の間といふが此 (ここ)也』
この文を読んで、そういえば歌舞伎の舞台に出てくる侍は、みな月代(さかやき)を剃り際鮮やかに剃りあげていて、ちょっと左右が不対称であるとか・髪が薄くなってもうちょっとで髷が危ないなんて侍は出てこないなあ、と思ったのでした。もちろんこれが芝居というものです。近松の言う通り、「それらしく」するのが芝居の慰みというものでしょう。
実際には、当時も髪の毛にお悩みの方は大勢いたでしょうし、チョンマゲというのは頭皮・頭髪には結構負担のかかる髪型なのではないでしょうか。当時は、侍にとって月代を剃るのは最低限の礼儀でしたし、町人も月代を剃りました。武士で月代を剃らないのは浪人か病人に限られていました。月代を剃ると頭が冷えて体に良くないので、病人は月代を剃らなくても良かったのです。
しかし髪の毛が薄くなってチョンマゲが結えなくなってしまうと、武士は隠居するしかなかったのだそうです。カツラという便利なものは当時はありませんでした。今でもお相撲さんは髷が結えなくなると引退だそうですが、頭髪の管理は武士にとって出世にもかかわる深刻な問題であったのですね。
(H14・10・5)
近松座公演:5月2〜4日(国立劇場)・6〜8日(南座)
近松門左衛門作「関八州繋馬」
中村鴈冶郎(小蝶亡霊後に土蜘蛛の精)「関八州繋馬」(享保9年・1724・1月竹本座・人形浄瑠璃初演)は近松門左衛門の最後の作品で、「将門の世界」が舞台になっています。偶然でしょうが、鶴屋南北の最後の作品「金幣猿島都」(文政11年中村座初演)も「将門の世界」が舞台です。 平将門といえば天下を揺るがした謀反人であり、有名な御霊でもあります。その将門を「世界」にとるのは、スケールが大きい芝居が出来る可能性がありますが、同時に「反体制」のシンボルを 題材に取るのは、作者にそれなりの作意があるとも考えられます。また、それを題材にするリスクも覚悟しなければなりません。
木谷蓬吟は、その著書「近松の天皇劇」(昭和22年・淡清堂)において、『後水尾上皇の幕府に対するご憤懣が、自然と近松に波及浸潤していったと推察するのも、決して架空の盲断ではあるまい』と書いており、近松は晩年に至って幕府批判の筆致を次第に強めているとも分析しています。(別稿「時代物としての俊寛」を参照ください。)
近松の生涯を見てみますと、その前後から近松の体力は急激に落ちて作品の数が減ってきますが、享保8年に幕府により心中物の出版や上演が禁止されたことが近松の創作欲を削いだとも考えられます。あるいは幕政への憤懣があったのかも知れません。
謀反人の娘として抹殺された小蝶の霊が、大文字焼の火のなかから現れるという幻想的な場面は評判を呼びましたが、大坂の「大」という字が燃えるのは不吉だという風評が流されました。その直後に、大坂が火事に見舞われて本作は葬り去られることになってしまいます。それがある筋の意図的なものであったどうかかはともかくとして、晩年の近松は失意のうちに死んだわけです。近松が亡くなったのは、本作初演の同じ年(享保9年)11月22日のことでした。享年72歳。
近松座での久しぶりの「関八州繋馬」上演は期待したいと思います。
(H15・4・17)
メルマガ第126号では近松門左衛門の「心中天網島」を取り上げております。ところで、作詞家として稀代のヒットメーカー・今は小説家のなかにし礼氏が、七五調の日本語について次のように語っておられるのを目にしました。
『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。けれど僕は、七五調で表現し切れずにこぼれている様々なものを、そのリズムを使わないことによって救い上げたかった。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らないと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日号・編集長インタビュー)
「たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフ」というのは興味深い表現です。 歌舞伎の世話物でも、そういう場面では客席から思わず掛け声が掛かります。心地良いかも知れませんが、その演技からリアリティは失われてしまっているということも少なくありません。「表現」というのは表面を綺麗に整えようとするベクトルを常に持つものでして、その方向自体は表現の完成を目指すもので・必ずしも悪いものではないのですが、うっかりすると・そうした落とし穴にはまり込んでしまう場合があるわけです。
近松の文章は、今の文楽の太夫さんには「字余り・字足らずで語りにくい」ということで評判がよろしくないそうです。近松の文章には「・・・じゃわいな」とか調子を整える詞があまりないのです。読むといいのだけれど・節を付けて語ると、ちょっと・・・ということになるのです。これにはいろいろ理由が考えられると思いますが、ひとつには・近松の文章は表現を必要最小限に削ぎ落とし・写実を追求しようとするために、意識的に語調を整えることを拒否しているようなところがあるようです。
この問題はいずれ機会があれば考えてみたいと思っています。
(H16・5・28)
メルマガでは近松門左衛門の「心中天網島」をシリーズで取り上げております。これまでメルマガで取り上げなかったのが不思議なくらいの名作です。そう言えば「吃又」 ・「梅忠」・「油地獄」なども「歌舞伎素人講釈」ではまだ取り上げて おりません。その理由は近松物は歌舞伎・文楽ではもっぱら改作物で上演されてきた経過があるので、歌舞伎の近松を論じるのに原作で論じていいものかどうか・ちょっと迷っていたせいでした。住大夫がこのよう なことを言っています。
『語る大夫かて迷うてます。迷うてますけど、そう理屈どおりにいきまへん。「女殺油地獄・河内屋内」なんかは原作とはずいぶんかけ離れていて、「駄作や」と指摘されます。「原作でやれ、原作でやれ」と言われても、近松ものは原作どおりでは芝居にならないのです。だれぞが脚色しているわけです。それを学者さんや評論家の方は「原作どおりにやれ」と言われるのです。』(竹本住大夫:文楽のこころを語る・文芸春秋刊)
文楽の大夫や歌舞伎役者から見ると、「近松の原作通り」というのはホントに演りにくくて仕方ないようです。近松の文体が「字余り・字足らず」であるということではなくて、芝居を演るうえでの根本的なドラマ性において・近松の段取りが演りにくいと感じられるようです。例えば登場人物の心理の推移がサッササッサと進むので・演じる側からすると描写が十分でないように感じて・突っ込んで演じさせてくれないという不満を感じさせるとか、筋の運びに無駄がなさ過ぎて・筋の遊びが欲しくなるとかいうことだろうと思います。こういうことは文章を読んでいるだけでは分らない・芝居を実際に演じてみて初めて分ることなのでしょう。
他にも理由がありそうです。近松の生きていた時代の観客にとっては同時代人として共有されていた(それゆえに回りくどい説明など不要であった)「時代的心情」が後世の人々になかなか共感しにくいものであったということなどです。名作であればこそ・近松作品は改作によって時代の好みに添ったアレンジをされつつ・後世の人々に親しまれてきたということなのです。改作されるにはされるだけの・それなりの理由があったということも理解せねばなりません。一概に 改作を「駄作」だと決め付けるわけにもいかない気がします。
そういうわけで、原作で近松を論じると「歌舞伎の近松」を論じていることにならないのではないかという不安があったわけです。しかし、いろいろ考えた末に、原作一辺倒ということではなく・とにかく原作を読み込んだ上で・そこから歌舞伎の舞台を考えるのが正しい筋道であろうという心境にようやく至りました。幸い近松の世話物浄瑠璃に関しては注釈付きの本が数多く出版されています。これを機会に近松の浄瑠璃にも接していただければと思います。
(H16・6・10)
渡辺保先生の最新刊「近松物語〜埋もれた時代物を読む」(新潮社)が出ました。子供のためのシェークスピア入門として有名なラム姉妹の「シェークスピア物語」に倣って 、(これは子供のための本ではないですが)近松門左衛門の忘れられた時代物作品を読み下してみようとの試みです。近松は世話物作家のように思われていますが、その百二十編とも言われる作品のなかで世話物は二十四編にすぎません。当時の劇作家にとって本領は時代物ですから、時代物で声名をとってこそ本物なのです。
時代物というのは・すなわち歴史物語ですが、そこに江戸の世に人々の世界観や人生観、歴史観が色濃く反映されています。さらに江戸時代は同時代の出来事を自由に劇化することが出来ませんでしたから、作品のなかに時代の思いも託されているわけです。そのために時代物は非常に技巧的かつ構造的なフィクション(虚構)になっています。つまり、現代人のリアリズム・実証主義の視点から見れば非常に「嘘っぽい」わけです。しかし、逆に言えばそこが時代物の面白さです。これを解析していけば、当時の江戸時代の人々の精神状況をパズルを解きほぐすように探っていく面白さがあ るのです。
正徳4年4月(1714)竹本座初演の近松62歳の作品「相模入道千疋犬(さがみにゅうどうせんびきのいぬ)」は、鎌倉幕府の最後の執権北条高時が主人公です。史実の高時はことのほか闘犬を好みました。この作品は高時の最後を描いたものですが、高時の用人で御犬預かりの惣奉行五大院宗重の喉首を名犬「白石(しろいし)」が食いちぎるという場面が出てきます。もちろん高時は「犬公方」と言われた五代将軍徳川綱吉、宗重は 綱吉をそそのかして「生類憐れみの令」を出させた護持院隆光、そして白石は六代将軍徳川家宣を補佐し・「生類憐れみの令」を廃止した新井白石を擬しているわけです。既に綱吉が宝永4年(1709)に亡くなって5年ほど経っているとは言え・これほど露骨な政治批判は当時の役人でも気が付かぬはずがなかろうに一体近松は大丈夫だったんだろうかと読んでいる方が心配になりますねえ。
なかなか馴染みの薄い近松の時代物ですが、この「近松物語」をきっかけにして岩波書店の「近松門左衛門全集」のオリジナルの方にチャレンジしてみようかという方が出てくれば、渡辺先生の労も報われるというものでしょう。
(H17・2・12)