中心としての曽我狂言
1)江戸庶民による江戸庶民のための・・
江戸時代の奥州の芝居小屋では義経にまったく関係ない芝居でも必ず義経が登場する場面があったそうです。幕が開くと上手の障子屋台から判官義経がゆっくりと現れ、「一間のうちより義経公悠々として出で給ひしが、さして用事もなかりければ、再び一間に入り給う」というような竹本で姿を消すのです。それが済んでからやっと本狂言が始まるのです。観客は大喜び、こうでないと観客も納得しなかったようです。これは芝居の開幕に先立ち三番叟を舞うのと同じような意味があったということです。民俗学者折口信夫はこの奥州での「判官びいき」の例を引いて次のようなことを書いています。
「固定した習慣を理解なく積み重ねてきた歌舞伎の芸団では、その一座一座に特有の狂言があって、それを演じることが言い知らぬ古い約束に対して、その一座を成立させる必須の条件だという風に考え、またその信仰によって、興行の日々にその狂言・場面を演じることを忘れなかったのである。例えば、江戸歌舞伎の三座が、各々へんてつのなさ過ぎる脇狂言を持っていて、興行の間、毎日これを演じたのもやはりその一種であった。そうしてその上さらに三番叟は行なっていたのである。義経出場にあたるものが江戸における曽我狂言であったと考えることはできるはずである。」(折口信夫:「芸能民習」)
初春芝居は必ず「曽我もの」で始まる、というのは江戸歌舞伎の約束事でした。また、それ以外でも曽我物語に関連した芝居は江戸では数多く作られました。何でもかんでも曽我にこじつけないと収まらない、ような感じさえします。こういうことは京大坂その他の地域の芝居では見られないことで、江戸の歌舞伎特有の現象だと言えます。
これはもちろん江戸の民衆に曽我兄弟が人気のキャラクターであったということを示しているのですが、それだけではなく、曽我の世界というものが、江戸の歌舞伎が「江戸庶民による江戸庶民のための芝居」であることの「証」であるという意味を持つと思いました。
たとえば歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」も曽我狂言なのですが、「助六は実は曽我五郎時致で、名前を変えて吉原に潜入しているのである」という設定は現代の観客にとってはもはや何の意味もなくなっており、その必然性が感じられなくなっています。
「助六」というキャラクター自体は延宝元年に大坂で実際に起きた万屋(よろずや)助六と京都の島原扇屋の遊女揚巻との情死事件から発したもので、もともとは上方から来たキャラクターでした。菅専助の書いた「紙子仕立両面鑑(かみこじたてりょうめんかがみ)」は今でもたまに上演されますが、この万屋助六の事件を題材に仕組んだもので、代表的な上方の助六狂言です。
正徳3年(1713)に二代目団十郎が「助六」を初演した時はまだその芝居は曽我の世界に設定されておらず、「助六は曽我五郎」という設定になったのは3年後(享保元年)の再演の時のことでした。この上方生まれのキャラクター「助六」を二代目団十郎が江戸で演じる時に「助六を江戸歌舞伎のキャラクターとして自分が完全に取り込んだ」と宣言するには、もしかしたらこうした「助六は曽我五郎である」という設定が必要であったのかも知れません。大坂では和事のキャラクターである助六を江戸和事のキャラクターである曽我十郎に重ねるのではなく、荒事のキャラクターである曽我五郎の方に助六を設定したことにも団十郎なりの意図があったのだろうと思います。そして、助六が曽我五郎だと知ることで江戸の観客は「助六は我々江戸庶民の代表なのだ」と初めて実感できたのかも知れません。こういうことを想像してみる必要がありそうです。
「三番叟や奥州の義経が添え物で、曽我は眼目の江戸狂言で本芸だからそれとは別と考えようとするなら、それは大きな間違いと言ってよい。今日優れた芸能と見ているものが、最初の目的から分化した目的によって活きており、本来の目的は失われてしまったものを思わないようでは、こんな世界のことは分からない。」(前掲書)
2)江戸歌舞伎の中心としての曽我狂言
江戸歌舞伎での曽我狂言の隆盛は、江戸庶民のなかで御霊信仰を背景にした「曽我信仰」が浸透していたことがもちろん大きな要因になっています。曽我信仰が盛んであったのは駿河・甲斐・相模・武蔵といった土地ですが、そこで「ご当地狂言」である曽我狂言を演じれば人気の出るのは当たり前のことです。曽我狂言を得意とする劇集団が江戸で人気を得てきて、他の狂言を次第に圧倒していくなかで、「最初からあった狂言を守るような形で曽我狂言を中心にして演じていく風が起こってくるのも当然なことだろう」と折口信夫は推測しています。
芝居というのは最初から年中開場していたわけではありませんでした。初めは年に一度か二度しか行なわれなかったものが、次第に臨時興行という形で少しづつ興行回数が増えていったものと思われます。その頃の芝居興行というのは見物はだいたい固定していたのです。間隔がかなり空いているので前回の演目と同じものを出していても不思議がないほどであり、事実、曽我物の繰り返しでその都度趣向を変えてみたり狂言の一部差し替えを入れてみたりして、企画が組まれたということなのでしょう。
芸能は最初からある目的を以って成立してその本質を磨き上げていくような形で発展していくわけではなく、いろいろな試行錯誤のなかで、あるものを取り込み、あるものは捨て去りながら紆余曲折し変化していく。ホントは目的もなく流れのままに変化しているだけなのかも知れませんが、後世から見ればひとつの方向へ集約されていく形で変化してきたように見えているものだろうと思います。
江戸歌舞伎もまるで一時は何でもかんでも曽我狂言であったようなイメージがありますが、江戸時代の上演記録を調べると最初から曽我物が全盛であったわけでもありません。それが慣わし・慣例として江戸歌舞伎のなかに定着していく(ように見える)のには、やはりそれなりの時間がかかっているのです。そして、その慣例もやがて形骸化して、その本来の意味が次第に風化し、忘れられていくことになります。
こうして大枠としては曽我狂言の形をとりながら、そのなかでさまざまな題材が取り入れられ試される。そしてそこから当たり狂言が分化する形で独自性のあるジャンルに成長していく、こうした経路を辿っているように思われます。ある題材が江戸歌舞伎の演目として江戸の民衆に認知されるために、一旦はそういう過程が必要であったと考えられるのです。
「助六」がそうであったし、宝暦3年(1753)に初代中村富十郎が初演した「娘道成寺」もまた最初は曽我狂言「男伊達初買曽我」の三段目として仕組まれた芝居のなかの一幕でした。役名は「白拍子花子・実は清姫の霊」ではなく、横笛という娘の役でした。これが現行の形に落ち着くまでにはかなりの時間がかかっているのですが、これも「助六」と同様に、紀州の「道成寺」伝説を取り入れた演目が江戸民衆に認知されるのには、曽我の世界に関連つけてみる過程(あるいは儀式とでも言いましょうか)が一度は必要であったということなのかも知れません。
参考文献:
折口信夫:「芸能民習」・折口信夫全集 第17巻 芸能史篇 1 (中公文庫 )に所収・中公文庫版
(H13・8・12)