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芸能の「一回性」を考える

〜吉之助流「武士道」論・その3


1)大隅太夫の「先代萩」

杉山其日庵の名著「浄瑠璃素人講釈」からのお話です。高輪の後藤象二郎伯爵邸において・三代目大隅太夫による「伽羅先代萩・政岡忠義の段」を素浄瑠璃を聴く会が催されたそうです。聴衆は、後藤伯爵・其日庵や五代目菊五郎など大勢の人々でした。大隅太夫はちょっと悪声の人で・鶴喜代や千松などの子供の声には不向きであったので、この演目は注文が悪いなどと言いながら最初はみんなザワザワして聞いていたそうです。ところが「飯炊き」のあたりからあまりの素晴らしさに一同水を打ったように静まり返り、政岡の泣き笑いの場面では一人として泣かない人はいないということになってしまったのです。

大隅太夫が語り終えるまで息を詰めていた後藤伯爵はフッと息をつき「ご苦労であった」と言って一同を顧みて、「どうじゃ判ったか、これを聞くと五人も十人も面を塗って騒ぎまわる芝居は馬鹿なものじゃねえ」と言ったそうです。横に菊五郎がいるのによく言ったと思いますが、本音の感想だったのでしょう。五代目菊五郎はしばらく黙っていましたが 其日庵に「旦那、この大隅さんの息込みで政岡をしましたら、素顔で袴をつけてしても、きっと見物は泣きますぜ。しかし今の芸人にはこれだけの芸人はおりませんぬ。もしいても、あの息込みで広い舞台を懐に入れて出ましたら、役者なら長生きが出来ませぬ。きっと早死にしてしまいます。」と言ったそうです。

この菊五郎の言について、其日庵は「菊五郎の話にひとしお感服した。芸人の見所には責任がある。ただでは決して聞いておらぬことが判った。」と書いています。ところが、この同じ話を引いて鴻池幸武(浄瑠璃研究家・「道八芸談」の著者)は友人の武智鉄二によくこう言ったそうです。「そやから歌舞伎はあきまへんねん。五代目いうたら歌舞伎の代表的な名優でおまっしゃろ。そいつが舞台で死ぬ覚悟ができてまへんねん。そんなことで、ええ芸ができるわけがおまへん。」

これは鴻池幸武の言うことも分からないではありませんが、其日庵の言うことの方が分る気がします。歌舞伎というのはひと月に25日同じ芝居を続ける興行です。いわば長丁場のマラソンのようなものです。これだけの回数を続けざまに神経を集中して演じることは至難の技です。もちろんそのなかでも精進した芸を見せようと役者は誠心誠意努力しているでしょうが、それは「これ一回切り」というような・短距離走とは精神集中の仕方が質的に異なるのです。短距離走の集中をマラソンでしていたら身がもたない。一回切りに全力を集中した大隅太夫の素浄瑠璃に感服しながらも「私には出来ない」と言い切った五代目菊五郎に、其日庵が「 おのれが分っている・感服した」と言うのはそこのところです。

一方で、次のようなことも考えます。舞台の芸は演じられたらその場で消えてしまうもの・つまり一回性のものだと我々は思っていますが、少なくとも歌舞伎の場合はそうではないということです。つまり、それは少なくとも ひと月25回は繰り返される興行であるからです。もちろん我々はひと月25回の上演すべてを見ることなどなくて・たいていはその一日の上演を見る方ばかりでしょうから、観客にとっては歌舞伎に「一回性」がないわけではない。しかし、演じる側・役者にとっては「一回性」はないのです。とにかくひと月の興行を無事にやりおうせること、これもまた非常に大事なことになります。


2)芸能の一回性

ここで「芸能の一回性」ということを考えてみます。「行動学入門」(昭和45年)において、三島由紀夫は次のような文章を書いています。

『オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突寸前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとした時、月の明るい夜のことであったが、ハッチの扉を開けて日本刀を持った将校がそこからあらはれ、日本刀を振りかざしたまま身に銃弾を浴びて戦死したといふ話が語り伝えられているが、このような場合にその行動の形の美しさ、月の光、ロマンティックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度であることはおろか、歴史の上にもそう何度となくあらはれるものではない。』(三島由紀夫:「行動学入門」・昭和45年)

その行動と・状況・舞台装置がまるであつらえられたように一致する「決定的な瞬間」があります。その時に行動は状況によって純化され・状況は行動によって研ぎ澄まされ・そして行動は舞台装置によって純化されるのです。三島由紀夫はそのことを言っています。そのような瞬間は滅多に来ることはありませんが、しかし、ひとたび訪れた瞬間には・その光景は見た者の心に永遠に刻まれるのです。そういう決定的な場面はしばしば「ドラマチック(演劇的)な瞬間」と称されます。

例えば芝居ではありませんが、西行法師の死がまさにそれかも知れません。「願わくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ」、西行の歌のなかでももっとも親しまれたものです。この歌は西行が死ぬ十年ほど前に作ったものですが、西行はこの歌の通りに建久元年(1190)、陰暦の2月16日、まさに花の盛りのきさらぎの満月のころに、河内国南葛城の弘川村で西行は73歳で亡くなりました。それはお釈迦さまの入滅のころにもあたる日でした。西行がその歌 の通りに亡くなったことについては当時の人々も深く感動し、うらやましく思ったようです。歌人藤原俊成は「ついにきさらぎ十六日望月終わりとげける事、いとあはれにありがたくおぼえて」(「長秋詠藻」)と書いています。

最近では平成13年3月31日に亡くなった六代目歌右衛門のことを思い出します。あの日は桜の花が満開に咲きほこるなか・静かに雪が降りそそぐという不思議な光景でありました。「歌右衛門死去」のニュースを聞きながら、誰もがあの「積恋雪関扉」の墨染桜の精の名舞台を想ったでありましょう。晩年の数年は舞台に立たなかったせいもありますが、歌舞伎界の名優が亡くなったということのショックよりは・何か懐かしいものを思い出すような感じで「ああ、歌右衛門が死んだんだなあ・・」と天を見上げた人は 吉之助だけであったでしょうか。このように行動と状況・舞台装置がぴったりと一致するなんてことは誰にでもあるわけではないし、しようとして も出来るものではありません。こういう場面を天がセットしてくれることは「仁徳」なんでありましょうか。

ところで、前述の文章につづけて・三島由紀夫はさらにこう書いています。

『芸能の本質は「決定的なことが繰り返され得る」といふところにある。だからそれはウソなのである。先代(七代目)幸四郎の一世一代の「勧進帳」といへども少なくともその月二十五回は繰り返された。「葉隠」の著者が芸能を蔑んだのは多分このためであり、武士があらゆる芸能を蔑みながら、能楽だけをみとめたのは、能楽が一回の公演を原則としていて、そこへ込められる精力が、それだけ実際の行動に近い一回性に基づいている、というところにあらう。二度と繰り返されぬところにしか行動の美がないならば、それは花火と同じである。しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、誰が持つことができようか。』(三島由紀夫:「行動学入門」・昭和45年)

「葉隠」において「武士道は死ぬことと見つけたり」と書いた山本常朝が芸能を蔑んだのは「芸能では決定的なことが繰り返され得るからだ」と・三島は言っています。武士社会でなぜ歌舞伎役者が河原乞食だと卑しめられたかと言うと、「忠義の武士が切腹をして見せても・あれは竹光を腹に当てて死ぬ真似をしているだけのことで・本当に死んでないではないか」とそれだけだというのです。しかも、興行期間中に同じ役者が同じ嘘っぱちを何度も繰り返すのです。何と言う恥知らず!ということなのでしょうか。

武士が芸能のなかで能楽をかろうじて認めたのは、「能楽は一回の公演を原則としており・その上演に全精力を注ぎ込むことができるから」と三島は言っています。もちろん能楽者もそこで死ぬわけではありませんが、精力を使い果たすほどに演じきれば・しばらくは舞台に立てないということで「一回性」がかろうじて果たされているということなのです。

芸能の「一回性」というのはもともと祭事的なものです。基本的に「決定的なことがなされて・それで終り」、あとには静寂だけが残って・何も残らない、そういうものが「祭り」の本質です。三島はこれを「花火」と言っております。「決定的なこと」とは言え、芸能のやることは 所詮はウソには違いありません。一回性を喪失した芸能は「興行(エンタテイメント)」の要素を持ち始めるのです。つねに「これを繰り返す・再現性をもつ」ということです。

このように祭事と興行との間には質的な・しかも決定的な相違があります。じつは祭事でも興行でもウソを演じていることではまったく同じですから、本当は芸としての高い・低いということはないはずなのです。しかし、どこかに「興行」というものを貶(おとし)める部分があるのかも知れません。それは 興行というものが「ウソを確信犯的に繰り返す」ということにあるのかも知れません。(このほかに世俗的な金銭の要素が絡むということが考えられますが、本稿ではこれについては論じません。)


3)かぶき者の「葉隠」

ただし誤解してはならないことは、山本常朝は「葉隠」のなかで「芸能に上手といわるる人は、馬鹿風の者也。何の益(やく)にも立たぬもの也」とか「芸は身を滅ぼす也、何にても芸ある者は芸者也、侍にあらず」などと、芸能を罵る言葉をあちこちに書いていますが、ここでの「芸能」という言葉は今の我々が使っている意味とかなり違うということです。当時の「芸能」は武芸を含んだ広く才能技芸全般のことを指したもので、文芸遊芸だけを指しているのではありません。寛政期ごろまでは大名の家来には「芸者組」というものがありました。芸者組は弓馬体槍剣(きゅうばたいそうけん)、あるいは砲術の武芸者で編成されていました。武芸者の武を省いて芸者と呼称したのです。しかし、このことを踏まえたうえで・なお三島は「文芸者」としての自らの意味を問うているのです。三島はこの問題に異常なほどこだわっています。

「葉隠が罵っている芸能の道に生きているわたしは、自分の行動論理と芸術の相克にしばしば悩まなければならなくなった。文学のなかには、どうしても卑怯なものがひそんでいる、という、ずっと以前から培われた疑惑がおもてに出てきた。・・葉隠の影響が、芸術家としてのわたしの生き方を異常にむずかしくしてしまった。」(三島由紀夫:「葉隠とわたし」・昭和42年)

山本常朝は主君である鍋島光茂が元禄13年(1700)に亡くなった時に・殉死を思い立ちますが、当時はすでに幕府によって殉死が禁じられていました。それで常朝は仕方なく出家を選択せざるを得ませんでした。これは常朝が42歳の時のことです。常朝は9歳で藩主の御側小僧、20歳で御書物役手伝、24歳で御側御小姓を勤めて、まさに主君光茂に生涯を捧げた人でした。「武士道は死ぬことと見つけたり」と書いた常朝が殉死できずに出家せざるを得なかった心境は察するに余りあります。「死に損なった」常朝は心ならずも「葉隠」を遺し・61歳で畳の上で死にます。自分の信じることが行なえずに・悶々として残りの人生を生きた、どうも常朝の「芸能」に関する罵詈雑言を見ているとそういう感じもします。

もっとも常朝は武骨一辺倒の人物かと思いきや実戦の経験はなく・むしろ文官であって、常朝が自慢する一番の手柄は京都の公家の間を駆け回って主君のために古今伝授(歌道の免許状)を取り付けて・これを臨終間近の主君光茂のもとに届けたということであったそうです。主君光茂もまた歌道を愛する文化人でありました。常朝は一門の切腹の介錯を二度勤めたことがあったそうですから文弱の徒というわけでもありません。が、しかし、「葉隠」の思想はきわめて観念的な武士道ということが言えると思います。

ところで「葉隠」冒頭には奇妙な序文が付いています。

『この始終十一巻は追って火中すべし。世上の批判、諸士の邪正、推量、風俗等々にて、只自分の後学に覚えられ候を、噺の儘に書き付け候へば、他見の末にては意恨悪事にもあるべく候間、堅く火中仕るべき由、返す返すも御申し候なり。』

この文章は常朝の談話を書き取った記者である田代又左衛門陣基(つらもと)が書いたものと推測されています。田代直筆の草稿は見つかっていないそうで・ それは遺言通りに焼却されたのでしょうが、「葉隠」は筆記本の形で世に残りました。「葉隠」は鍋島藩中でもなかば禁書扱いされていたもので、江戸時代には書き写されたものが細々読まれていただけでした。「葉隠」が「古典」扱いされて有名になったのは明治になってからのことだということを知っておかねばなりません。

そういうことを知ったうえで「武士道は死ぬことと見つけたり」という言葉を読むと、まさにこれは「かぶき者 」の科白と同じだということがお分かりになるはずです。別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照いただければ、殉死という行為は主君との精神的な絆の強さを誇示しようという行為であるということがお分かりいただけると思います。自ら尽くす対象には命を捨てても惜しくないという・その行為は、御主人大事の封建社会の論理を体現しているように見えますが、じつはそうではなくて・そこに微妙かつ決定的なズレがあるのです。それは強烈な個人のアイデンティティーの主張であって、実は封建社会を内面から崩壊させかねない危険を孕むものであったのです。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉には危険な響きがあるのです。その危険性を察知したからこそ・ 筆記者田代はその草稿の焼却を命じ・鍋島藩は「葉隠」を禁書にしたのです。

だからある意味で「山本常朝はかぶき者であった」ということが分 れば「葉隠」の本質を読むことはかなり楽になります。武士道も「かぶき的心情」で考えてみることが大事になるのです。別稿「侍の子を持てば俺も侍」にも書きましたが、「武士道」は武士だけのものではないということがここからも言えます。

ここで興味深く思えるのは、同じく「かぶき的心情」に発するものが・一方の「武士道」という思想がストイックに「一回性」を追い求めて「道」に純化していく。他方 の「歌舞伎」は「一回性」から遊離する形で 「興業(エンタテイメント)」化していくということです。常朝が芸能を罵るのは、もともとは趣旨を同じくした者たちが分派した他の流儀を非難するのにも似ているようです。片や理論派・片や実践派みたいなものです。山本常朝が「武士道は死ぬことと見つけたり」と書き・芸能者を罵るのは、「武士は かぶき者の原点に戻るべきだ」というような原理主義的主張であるのかも知れません。「文芸者」である三島はその狭間にあって身動きがとれなくなってしまったということなのかも知れません。

(16・12・19)





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