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返り討ちを考える

〜吉之助流「仇討ち論」:その6

*別稿:吉之助流「仇討ち論」:その5:近世的な・あまりに近世的なの続きです。


1)無念の切腹

京都西加茂にある臨済宗のお寺・正伝寺に「血天井」なるものがあるのをご存知でしょうか。これは伏見城の遺物とされるものです。伏見城は文禄3年(1594)に豊臣秀吉によって創建されたものですが、江戸時代になって元和5年(1619)に幕府の命により解体されました。その際に伏見城の遺物が各地の寺社にばらまかれたのです。豊国神社の唐門はその代表的なものですが、この正伝寺の「血天井」もそうした遺物のひとつです。

慶長5年(1600)、石田三成が伏見城を攻めてこれを落城させました。この戦いが関が原の戦いの端緒となるものでした。伏見城を守っていた徳川方の鳥居元忠ら30名は落城目前に大広間で切腹しました。「血天井」というのは、刀を腹に突きたてた元忠らが苦しみ呻きつつ・その血を手について床板に無数の手形を付けたのを天井板に使っているのです。もちろん長い年月でその血の色は黒ずんでいるものの・はっきりとプリントされた生々しい手形を今も見ることができます。血のあとが生々しい広間の床板を天井板に使うという発想が何とも凄まじく・怖気を感じられずにはいられません。(注:この時の彼らの血潮に染まった床板は正伝寺だけでなく京都市内の養源院・宝泉院・源光庵などの寺にも分けられて、今もなお「血天井」として現存しています。)

吉之助の読んだ本には「切腹した元忠が苦しみにのたうちまわって手形を付けた」と書いてありましたが、これはちょっと違うようです。元忠は腹に刀を刺し苦しみに呻きつつも、はっきりと 敗北すること・死ぬという運命に対して抗議の意思を示しているのです。元忠はこの世におのれの生きていた痕跡を残そう・そして死してなおも敵を討たんという・つまり怨念の情をそこに刻みつけようとして、血のついた両手で床を叩き付けたのでしょう。怒りの情・憤懣の情がそこに満ち溢れています。

切腹には二種類あります。それは「従容腹」と「無念腹」というものです。従容腹というのは、その死(あるいは裁き)を受け入れ・従容として死に赴くものです。当然ながら、その切腹のさまには乱れというものが少なくなります。いわば美しい死に方であります。一方の無念腹はもともと切腹しなければならないことを納得していないわけですから、その抗議の意味もあって凄まじい切腹の仕方をするものです。例えば腹を十文字に掻き切り・臓腑をつかみ出し、周囲に投げ散らかすようにする、そのように激しく乱れた死に方をすることで無念・憤懣の情をぶつけるわけです。

こうした無念腹は江戸時代には見苦しい死に方であるとして非常に嫌われました。江戸時代の切腹は次第に形式化していって、ついには刀を腹に突くか突かぬかくらいのタイミングで介錯人が首を刎ねてしまうようなことが多かったのです。無念腹をするということは、自分が死ななければならない状況が口惜しくてならない・あるいは判決に対する不満・抗議を訴えるという意味があったとも考えられます。つまり、俺は死ぬのなんか怖くはない・お上なんか怖くはない・俺は死んでも服従などしないぞという意志を示しているとも考えられます。これは裁きを下す支配者の側からすれば非常に不愉快なことですから、これを「見苦しい」とするのは当然でありましょう。しかし、じつは 江戸時代には無念腹の切腹は少なくありませんでした。だからこそ幕府はそれを「見苦しい」としてこれを禁止したのですが、それでもこれをやる者が続発したのです。江戸時代における無念腹はかぶき的心情のひとつの表われであったのです。それは社会における個の主張なのです。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご覧下さい。)

さらに無念腹を考えてみますと、これは成仏することを拒否して・死して魔道に堕ちようとする行為のようにも思われます。別稿「吉之助流・仇討ち論・その1・かぶき的心情と仇討ち」において引用しました折口信夫の論文「仇討ちのふおくろあ」を思い出していただきたいと思います。

『横死というのは自分の意思で死んではいないのです。また神がそうさせたのでもないのです。してはならぬ事により、入ってはならぬ所にはいったり、動物に殺されたりした場合なのです。普通の場合、こうした問題が起きるのは、血を出された側の方から起こって参ります。死人が血を出して罪に触れた事を償う為に、その親族が斬り殺した者を殺すわけで、そうする事によって償いが完了することになるのです。いわば仇討ちはお祓いの一種だということになるのです。それをしないと罪障が消滅しないのです。』(折口信夫:「仇討ちのふおくろあ」・折口信夫全集第17巻)

人間は神から与えられた天寿を全うするのが「正しい」ことなのでして、そのような 死ならば、その死は神に祝福を以って受け入れられる・つまり仏教で言えば「成仏」できるわけです。しかし、そうでない場合、例えば事故で死ぬ・殺されるというような自分の意思で死んだのではない場合はその人の霊魂が自分が死んだということを認識できないからなかなか成仏できない・あるいは何かこの世に未練があって成仏することを自ら拒否をするというような状態になります。ですから肉体的には死んでいても・霊魂的には死にきれない中途半端な状態になります。このような状態を神が嫌うのです。そして、殺された者は物忌みになった・呪われた状態になります。

「無念腹」はこの状態を自ら引き起こそうとする行為です。無念腹をする人は、死ぬことを納得していません。たとえ肉体は死んでも俺の魂は死なぬ・魂魄この世に留まってこの怨みを晴らさないではおかないぞという気持ちです。当然ながら「成仏」することを拒否しているわけです。そのためにより苦しみが激しく・より見た目が凄まじい死に方が選ばれるということなのではないでしょうか。そうすることによって、その怨念のエネルギーはより強くなる、そして魂は成仏できずに怨霊としてこの世に留まることになるのです。無念腹とは自ら望んでそのような神に呪われる状態を引き起こそうとする行為なのです。

だから 鳥居元忠の「血天井」の手形も「苦しみにのたうち回って付けた」ものとは考えられません。それは自ら成仏を拒否し・この無念の気持ちを以って敵に怨みを晴らさんとする怨念に満ちています。その怨念の情こそが徳川方を関が原の戦いを最終的な勝利に導いたとも言えます。徳川家もまた「我らを勝利に導いたのは元忠の死だ」とそう理解したのです。だからこそその床板を天井板に使おうというような発想が起こるのです。それは元忠らの怨念のエネルギーを持ってすべての災いを封じ込めようとする「魔除け」となるのです。

鳥居元忠は13歳の時に10歳であった徳川家康(当時は松平竹千代)の近侍として仕え、それ以来辛苦を共にしてきた・家康にとって最も大事な家臣でありました。伏見城に元忠を残して会津征伐へ向かった・その最後の夜に家康は元忠と酒を酌み交わし、昔話に花を咲かせたと言います。元忠は一子忠政に有名な訓戒の書を書き送っています。

「今度上方蜂起して凶徒の一味大名小名の多数、石田の謀略に陥り、まず当城を攻め落さんとす。近日大軍の来る聞こえあり。我らは城を枕に討死する覚悟なり。大阪勢何十万十重二十重に囲むとも、一方をうち破り退くはいと易し。しかし、これは武士の本意にあらず。忠節とは言い難し。我天下の大軍を引きうけ、僅か少人数にて防ぎ戦い、目覚ましく討ち死にして・・天下の士に義を勧むる手本とならん。」

関が原直前の切迫した状況下において伏見城に少人数で留まることがどれほど危険なことであるか、それはもちろん元忠は承知のことで した。そうなれば、元忠が満天下に示さなければならないのは、見事に討ち死にしてみせる、ただそれだけです。だからこそ刀を腹に突き立てた元忠の姿に予祝性があるのです。凄惨に死んでみせるほどに予祝性は高められるのです。その効果は結果的に徳川方が関が原に勝利したことにより「証明された」とも言えます。


2) 「怨念」という情念

ここで思い出すのは「仮名手本忠臣蔵」四段目の塩冶判官切腹の場のことです。歌舞伎のなかでも儀式としての切腹をこのように長々と見せられることは他にはありません。昔は判官切腹の場面では劇場客席への出入りを一切禁止したもので、この場は「通さん場」と呼ばれました。それほどに重い場であるわけです。

舞台で見られる判官の切腹は無念腹という感じではありませんが、そんなもの舞台で見せられたら胸が悪くなってしまいますよね。しかし、判官の切腹は間違いなく無念の切腹であるのです。見た目は綺麗な舞台であってもその無念が感じられなくてはなりません。そして、判官の無念が家来たちの無念と重なり合わなくてはなりません。だから四段目が重い儀式の場になるのです。切腹直前に判官は怒りの面持ちで次のように語っています。

「刃傷に及びしより、かくあらんとはかねての覚悟。恨むらくは舘にて加古川本蔵に抱き留められ、師直を討ちもらし、無念骨髄に通つて忘れがたし、湊川にて楠正成最期の一念によつて生を引くと言ひし如く、生き替り、死に替り、欝憤を晴らさん」

「太平記」の伝えるところでは、湊川の合戦で楠正成は「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや」と誓い、「最後の一念によって善悪の生を引く」と言って、弟の正季(まさすえ)と「手に手をとり組み、刺し違え」て自害をして果てたのでした。「忠臣蔵」の判官が切腹の直前にこの正成の台詞を反復して語っているのです。太平記読みの素養のある江戸の民衆には、芝居を見て「ああ、それか」とすぐ分かることなのです。講釈で知る正成の無念・七生までも生まれ変わっても朝敵(足利尊氏とともにその執事高師直らも含めて)を滅ぼそうという執念を生々しいほどに思い出し、これを劇中の判官の想いに重ね合わせたに違いありません。判官の無念の思いが「忠臣蔵」のこれ以降のドラマを一貫させているのです。

「忠臣蔵」に見えるもうひとつの切腹、六段目の勘平の切腹も無念の切腹です。主君の大事に居合わせず不忠を働いたために仇討ちの仲間にも入れてもらえず、恋女房は自分の知らない間に廓へ売られ、はたまた舅与市兵衛殺しの疑いを掛けられ、やっと疑いを晴らした時にはもう勘平は腹を切ってしまって命はありません。何と言う皮肉な運命なのでしょうか。やりきれない思いのままに勘平は死ななければなりません。その死に際に郷右衛門が「仏果を得よ(成仏せよ)」と声を掛けると、勘平は身を震わせてこう言うのです。

「ヤア仏果とは穢らはし、死なぬ死なぬ。魂魄この土に留まつて、敵討ちの御供する」

この勘平の台詞もまた正成の「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや」という言葉を踏まえているのです。十一段目(高家討ち入りの場)において由良助が勘平の縞の財布を懐中に忍ばせているのも、勘平を不憫に思って敵討ちの御供させてやりたい気持ちももちろんあるわけですが、それだけでは決してないでしょう。勘平の無念の気持ち・怨念のエネルギーが由良助たち塩冶浪士を守ってくれる・勘平の怨念が彼らを大願成就に導いてくれるわけです。

また、別稿「吉之助流・仇討ち論5・近世的なあまりに近世的な」においても触れましたが、歌舞伎では「忠臣蔵」丸本をもっとウェットに熱く読もうとする傾向が強いことも意識しておかねばなりません。演劇というのは観客に感性によって訴える傾向が強いわけで、題材の扱いがそれだけウェットになるということが言えます。江戸歌舞伎で最初に三座競演で「忠臣蔵」を演じたのは寛延2年(1749)のことですが、江戸の森田座で勘平を勤めた嵐小六は、「六段目」幕切れで腹を切ったまま、とんぼ返りを切って落ち入りを見せて大当たりをとったそうです。あるいは文政4年(1821)、江戸中村座では七代目団十郎の勘平は門口にしがみつきながら立ち腹を切ったそうです。こういう演技は、無念腹の発想から来ます。つまり、凄まじい死に方をすればするほど・その怨念のエネルギーは強くなるということなのです。

江戸の仇討ちの本質はフォークロア的な「情念の仇討ち」ですから、「怨念」という情念が常にそこに付いて回ります。だからこそ竹田出雲らは「太平記」の世界を赤穂浪士の行為にその情念を以って結び付けようとしています。「忠臣蔵」では怨念は芝居の仕掛けに使われているのです。

(注: 誤解しないでいただきたいのですが、吉之助自身は「仮名手本忠臣蔵」が怨霊信仰の産物であると考えていません。江戸の民衆は仇討ち(復讐)を即すような内的な情念・すなわち怨念を象徴的にして捉えて、それを「怨霊」という存在によって象徴させて理解しているのだろうと吉之助は思っています。なぜならば怨霊というのは情念の凝り固まった存在と考えられるからです。江戸の人々は怨霊を理性的・合理的に理解しようとしていたと考えています。これについては別の機会に考えてみたいと思います。)


3)返り討ちは「やつし」の究極の形態である

前置きが長くなりましたが、本稿では「返り討ち」のことを考えてみたいと思っているのです。歌舞伎では「斬られ役者」という言葉があるくらいで、「返り討ち物」と呼ぶのがピッタリくるような芝居群があります。仇を追う討っ手の者たちがその本来の身分を捨てて、渡り中間(ちゅうげん)や物売り・日雇人足・ひどい時には乞食の姿という変わり果てた姿となって、艱難辛苦のなかで翻弄される姿だけでも哀れであるというのに、さらにそこに返り討ちという運命が待ち受けているとすれば、その悲惨さは言うまでもありません。

例えば鶴屋南北の「絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」(文化7年・1810・江戸市村座)において見られる追っ手の三組の夫婦が返り討ちにあうのは、もの凄い話です。しかも、その返り討ちの場面がこれでもかというほど陰惨に悲惨に描かれています。しかもこれを皮肉なものにするのは、追われている悪人側(左枝大学之助・立場の太平次ら)が颯爽として魅力的なことです。文化年間というのは合巻と呼ばれる絵草子本が江戸で大量に出版されはじめた頃で、民衆もどぎつい刺激を求めた時期なので、芝居もそうした好みを反映しているわけです。

歌舞伎の雑誌などで仇討ち狂言を取り上げた特集記事を読んでみますと、どれにも「したたかな悪の魅力」・「討たれる者の残酷の美」などという言葉が並んでいます。追う側というよりも追われる側(返り討ちをする側)の悪人の方に興味が行っている記事が圧倒的に多いようです。いずれにせよ仇討ち狂言について真正面に向き合っている論文が非常に少ないように思われました。

確かに仇討ち狂言における魅力の大きな部分は悪役に違いありません。例えば五代目幸四郎の演じる「絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」の左枝大学之助のような立敵、あるいは四代目友右衛門の演じる「敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがちゃやむら)」の安達元右衛門のような敵役です。観客の興味がそっちの方に向くのは仕方のないところです。

それならば、お上の手前があるから勧善懲悪のパターンを仕方なくはめているけれども・仇討ち狂言の本質は「悪の賛美」にある・あるいは仇討ちという行為の否定にあるということになるのでしょうか。既成価値観に縛られた 哀れな「善人」を打ち負かす・新しい価値観を持った「悪人」・・そこに 作者の意図があり・社会変革の萌芽をそこに見ることができるのでありましょうか。こうした見方も確かにひとつの視点として面白いとは思います。しかし、これでは「江戸時代に仇討ちがどうしてはやったか・仇討ち狂言がどうして民衆にもてはやされたか」という仇討ち狂言の本質を論じたことにならないでしょう

悪役の魅力については別の機会に考えることにしたいと思います。ここでは返り討ちされる側の哀れさを強調するためにも悪役は悪の憎々しさを強調せねばならないということだけを指摘しておきます。本稿において思いをはせたいのは、返り討ちされる者たちの無念の思いです。

返り討ちされた者というのは志を半ばにして死す・しかも追い求めた仇その者に殺されるわけですから、その無念の気持ち・死んでも死に切れないという怨念の気持ちというのは察して余りあります。「死なぬ死なぬ、魂魄この土に留まつて、生き替り、死に替り、欝憤を晴らさん」という気持ちで死んでいくに違いありません。返り討ちされた者は、当然、そのまま成仏するはずがありません。その怨念のエネルギーはより強められ、そしてその魂は成仏できずにこの世に留まることになるのです。

それはフォークロア的な仇討ちの観念からすれば、返り討ちとは、残された者は本来の(つまり仇討ち出立のきっかけになった)穢れに加えて・さらに仇討ちの同志の穢れをさらにその身に引き受けることなのです。返り討ちされた者の無念の気持ちがそのまま遺された追っ手の者たちに引き継がれて、仇討ちの志をさらに高めてさらに甘美なものにするのです。

もうひとつ大事な要素があります。返り討ちの予祝性・あるいは官能性のことです。返り討ちを論じている時に三島由紀夫の自伝的小説を持ち出すのは奇異に思われるかも知れませんが、次の部分を見てください。

『人の目に私の演技と映るものが私にとっては本質に還ろうという要求の表れであり、人の目に自然な私と映るものこそ私の演技であるというメカニズムを、このころから私は理解しはじめていた。その本意ない演技が私をして、「戦争ごっこをしようよ」と言わせるのであった。(中略)家のなかへ逃げて入って、タンタンタンと連呼しながら追いかけてくる女兵を見ると、胸のあたりを押さえて座敷のまんなかにぐったりと倒れた。「どうしたの、公ちゃん」女兵たちが真顔で寄って来た。目もひらかず手も動かさずに私は答えた。「僕戦死してるんだってば。」私はねじれた格好をして倒れている自分の姿を想像することに喜びを覚えた。自分が撃たれて死んでいくという状態にえも言われぬ快さがあった。たとえ本当に弾丸があたっても、私なら痛くはあるまいと思われた。』(三島由紀夫:「仮面の告白」)

「僕戦死してるんだってば」という主人公の台詞にもちろん怨念の情は微塵も感じられません。しかし、死と隣り合わせになって存在する甘美な情感がそこに見えます。実際の返り討ちはもちろんこんなものではないでしょう。しかし、芝居のなかの返り討ち ・観念のなかの返り討ちは、怨念の情と同時に甘美な情感を確かに思い起こさせるのです。それが「やつし」(追う者たちに待ち受けるつらい試練) を思い起こさせるからです。そして、さらに「予祝性」を思い起こさせるからです。もしかしたら芝居のなかで返り討ちされた追っ手は刀が当っても痛くは無いないのかも知れない、そんなことさえ想像してしまいます。

三島が指摘しているように「人の目に演技と見えるものは本質に還ろうとする要求の表れである」、演劇とはまさにそういうものです。だからこそ返り討ちはできるだけ哀れに・できるだけ無残に描かれなければならないのです。殺しの場面が残酷であるほど・悲惨であるほど、その怨念のエネルギーは高められる。そこに官能性と予祝性があるということになるのです。

仇討ち物の筋立てのなかでも、返り討ちという趣向がとりわけ大事であるとされるのは、それが「やつし」(追う者たちに待ち受けるつらい試練)であるからです。返り討ちは「やつし」の究極の形態であるのです。残された者が返り討ちされた者の無念をも引き継いで、仇討ちの旅を続けるならば、それはさらに高められた仇討ちになって、本望成就の喜びは一層大きくなるはずです。

「絵本合法衢」大詰・合邦庵室の場において、仇・左枝大学之助を追う高橋弥十郎は修行者合邦を名乗っていますが、実弟と知らないままに道具屋与兵衛を匿っています。彼もまた同じ仇を追っているのです。しかし、合邦の留守中に大学之助がやって来て、与兵衛を無理に切腹させてしまいます。病身の与兵衛には仇に打ち勝つ体力はありません。切腹する時の与兵衛の台詞です。

『志はかたじけれど、しょせん存命かなわぬ命。人に難儀をかけんより、かくなりはてる覚悟の生害(しょうがい)。せめては今際(いまわ)にひと太刀でも、はむかうたがこの世の思い出。とは目の前兄の仇、妻の仇を置きながら、討つことならず腹切って、死ぬるも因果なこの病苦。思へば思えば口惜しい。』

与兵衛が死ぬ直前に合邦が戻ってきて、ふたりは互いを兄弟であると知るのですが、その時にはもうすでに遅い。弟の死の悲しみもそこそこに して合邦はすぐに仇を討ちに発たねばなりません。出立する合邦(弥十郎)の台詞は印象的です。

「いずれ敵に出会う日は、討つても死ぬる、討たいでも死ぬると覚悟もきわめている」

仇討ちに出立する者は死んだも同然です。故郷を捨てて・本来の身分を捨てた時に弥十郎はある意味で死んだも同然で、返り討ちにあった弟の死を前にして悲しんでいる余裕さえも彼にはありません。弥十郎が弟のためにできることがあるとすれば、それは一刻も早く仇を討つこと以外にはありません。弟の無念の思いをさらなる助けにして・弟の穢れを引き受け・弟の怨念の力を以て弥十郎は仇を討つために立つわけです。そこに予祝性があるということです。大願成就はもうすぐなのです。

(H16・2・29)





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