台詞はアクションである
〜歌舞伎と連歌
1)連歌の魅力
『いや、まことに世に連歌ほど面白いものはござらぬ。発句をいたせば面白し、脇をいたせば面白し、頭を営めば、またひとしおの楽しみでござる』
狂言「箕被(みかづき)」にこう言って登場する男は、金もないのに連歌の魅力にとりつかれて、自宅で連歌会を開こうとして、妻と口論して離婚を迫られます。離縁のしるしにもらった箕被をかぶって去ろうとする妻の後ろ姿に男はふっと発句を思いつき、「三日月(=みかづき・箕被)の出づるも惜しき名残かな」と呼びかけます。これに対して妻は「秋(飽き)の形見に暮れ(呉れ)ていく空」と返します。「面白い、面白い、そなたがこれほどまでに連歌を召さるようとは、ゆめゆめ知らなんだ。」と言って、男は大喜び。夫婦はよりを戻してめでたしめでたし、という一幕でした。なんとも大らかで心暖まる狂言であります。(連歌は和泉流のテキストに拠る・流派によって句が多少違うようです。)
この狂言で面白いのは、この時代(室町期)においては離縁のしるしに妻に箕しか渡せないような貧乏人(庶民)にまでも連歌が流行っていたらしいという事実です。そのせいなのか狂言には連歌を扱ったものが少なくないようです。狂言「八句連歌」は、金の貸し手と借り手との間に、表八句の連歌が行なわれるというものです。それぞれの句に借金の催促と言い訳が裏に盛り込まれていて、このやり取りは本を読んだだけでも爆笑ものです。
(借り手)「花盛り御免あれかし松の風」
(貸し手)「桜になせや雨の浮雲」
(借り手)「幾たびも霞に侘びん月の暮」
(貸し手)「恋責めかくる入相の鐘」
(借り手)「鶏もせめて別れは延べて鳴け」
(貸し手)「人目もらすな恋の関守」
(借り手)「名の立つに使な付けそ忍び妻」
(貸し手)「あまり慕えば文をこそやれ」』じつは吉之助は和歌・連歌の世界にはさっぱり疎いのですが、「日本の芸のこころ」を追求する「歌舞伎素人講釈」は何にでも首を突っ込まねばなりません。そこでこれを機会に連歌の関係本を少々かじってみました。その乏しい知識をもとに話を進めます。
初期の連歌は上の句・あるいは下の句を発句として、これに別の人が即興的に句を付けて一首の和歌の体裁とするもので「短連歌」と呼ばれました。短連歌は万葉の時代からありましたが、これがやがて平安時代後期頃から三句以上を連ねていく「鎖連歌(長連歌)」に発展していきます。
鎌倉時代に連歌は、百句続ける百韻の形式に定着します。連歌とは「座の文藝」であると言えます。一座にはそれを統括する人物(宗匠)がいます。宗匠は連歌のベテランであり、提出された句の出来を判定します。また 、宗匠を補佐して連歌の進行に気を配り、それを記録する人物(執筆・しゅひつ)がいます。一座の人々は「連衆」と呼ばれます。
連歌会にはルールがあるそうです。まず一座の主賓が連歌の始めの一句をつけ、これを「発句」と言います。発句は五七五で季語を入れたもの、百韻の冒頭ですからそれなりの風格が求められます。さらに「脇句」、これは発句を次いで七七で付けたもので、会を催した亭主が付ける場合が多い。「第三」は発句と脇句の描いた世界を転じていくもので、宗匠が付けます。このあと連衆が順に付けていきます。
もっとも最初は順番で詠むようですが、そのうちに次第に途中で思いついた人が句を出して、これを宗匠が良しとすれば・執筆が懐紙に書き付けることもあるようです。そして今度はそれを前句にして皆で次の句を考えるという感じで進めます。提出した句が宗匠に認められずに没にされることも頻繁にあるそうです。二条良基の日記にも、提出した自分の句を没にされて・採用された句より自分のものの方がいいと不満を書いた記述があるそうです。
このように連歌は即興性・言葉遊びの要素だけでなくて、参加者は古典の言葉や世界を知識としてしっかりと持ち、それなりの鑑賞力が備えていなければ出来るものではありません。こうして連歌会のなかで、歌の世界は自分たちも予想しなかった形で、太く細く・右に左に、時に乱れ・変転しながら大きな流れを作っていきます。この場合に重要なのはこうした言葉の旅・冒険が平凡なものにならないようにするためには、常に前句・前々句の作り出す世界から離れて、発展させた新しい世界を作り出し、さらに次の句に引き継がせる余地を残して納めなければなりません。その一方で全体の流れを見極めて自分の句を突出したものにしないように、あるべき位置に納めなければならないのです。
こうした作業は実は演劇における役者の仕事に似ています。役者は自分を押し出すと同時に、相手役を立てていかねばなりません。また自分だけが舞台で目立ってしまっては全体のアンサンブルが乱れてしまってお芝居になりません。連歌でも、会に集う人々はある時には句を付けて主役となり、受けてもらって相手役になり、他人の句を聴いて観客となり、共同でひとつの言語空間を創造する喜びを分かち合うのです。それが連歌の魅力なのです。
2)歌舞伎と連歌
幕末の狂言作者西沢一鳳は、歌舞伎作者の方法について述べたなかで次のように書いています。
『梨園を好み作者道を学び、伝奇(きょうげん)の一番も著さんと思う者は、院本(じょうるり)正本を熟覧して、閑暇には俳諧をすべし。俳諧はあまねく世情にわたり、俗に近くて、作者早学問とはこの事なり。昔より戯作を好む人、ほとんど俳諧をせぬ人なし。(中略)一巻の俳諧の変化は、公家かと思えば乞食となり、恋かと思えば無常となり、貴人の館も埴生の小屋と変ずるところ、実に歌舞伎狂言は俳諧の変化の如し。』(「伝奇作書」初篇上の巻)
ここで一鳳が言っている「俳諧」というのは「俳諧之連歌」の略称である「俳諧」のことでして、滑稽な連歌のことを指しています。連歌が高級化していくなかで、一方で庶民の世界に普及していった連歌は形式を緩めて、語句に俗語などを取り入れることにより「俳諧之連歌」というジャンルに定着していきます。それは室町時代頃のことですが、俳諧が盛んになったのはもちろん江戸時代に入ってからのことです。
ご存知の通り、歌舞伎役者や作者のほとんどは俳名を持ち、俳諧を教養としていました。例えば「三升」は団十郎の俳名・「梅幸」は菊五郎の俳名です。また、歌舞伎役者が自作の句を披露する機会も何かと多かったようです。しかし、それは単なる「たしなみ」ではなくて、じつは俳諧は歌舞伎と本質的なところで密接な関係があるのです。八代目三津五郎が俳諧と歌舞伎の関係について、次のように語っているのは非常に参考になります。
『(踊りの振りは)例えば月なら月と、いきなり月をやる奴はベタ付けと言って(注:踊りで月の形をこしらえて見せるというのは「ベタ付け」と言って嫌われるとの意味)、それを匂い付け(注:ほのめかす、との意味であろう)、それから心付けというとご祝儀みたいになっちゃうけど、月の心を持ってくるとかいう、俳諧精神でやっていくことが正しいんです。しかし、ベタ付けを軽蔑したということだけ知っていて、俳諧の付け合せということを知らないんですよ。昔の振付師だとか役者がやった俳句というのは、今の人のいう俳句・正岡子規以来の俳句じゃないんで、昔の俳句というのは俳諧なんだ、連歌なんだ。だから、連歌のつながり、鎖でつないでいくあの連鎖反応の発想法、前の文句から次の文句へいくテクニック。だから自然主義じゃ何言ってんだか分からねえんだ。それが分かってないから今の踊りがつまらない。』(八代目三津五郎・安藤鶴雄との対談:「芸のこころー心の対話」・1969年)
俳諧は日常卑近な用語・話題を自由に用いて、大らかな笑いの精神にあふれています。一般に俳諧といいますとすぐに松尾芭蕉を思い浮かべてしまいますが、どちらかと言えば「言葉遊び・遊戯性」の強い「俳諧」を象徴的な完成度の高い韻文に高めたのが芭蕉なのです。むしろ芭蕉は「俳諧の異端・あるいは革新・高級志向」という感じが強いようです。芭蕉は三津五郎の言っている「俳諧」とは若干趣が違うのかも知れません。もちろん正岡子規の提唱する「俳句」の概念ともずいぶん違います。低級というのではなくて、もうちょっと庶民的な遊戯性の強いのが「俳諧之連歌」なのです。
「連歌の発想でないと踊りがわからない」と三津五郎が言っているのは、「積恋雪関扉」の関兵衛の踊りの「生野暮薄鈍(きやぼうすどん)」がその典型的な例だと言えるかも知れません。「生野暮薄鈍、情なしこなしをみるように、悪洒落云うたり、大通仕打ちもあるまいが」という歌詞の「生野暮薄鈍」のところで、関兵衛は「き」で立ち木の形をして・「や」で弓を引く形・「ぼ」で棒をしごく形・「うす」で臼を挽く形・「どん」で戸を叩く仕草をします。これは初演者である初代仲蔵の「仲蔵振り」として有名なものです。この振り付けは有名になればなるほど「なんだ、こんなもの下らない」という軽蔑めいた声も出てくるようですが、これも江戸の庶民の洒落っ気・遊び心から出た振りで、「俳諧之連歌」あるいは「狂歌」の発想とも言うべきものなのです。
3)「ずらし」の発想法
連歌においては、新たに付け加えわれる句はつねに、前句が作り出した世界から逸脱することが求められます。つまり前句が作り出した意味を「ずらす」ことを求められます。二条良基が発句を詠んだ「至徳二年石山百韻」から、その「ずらし」の手法を見たいと思います。
○「(良基)しばし都のちかき近江路」・「(石山座主坊)とはれては身にあまるまでうれしきに」・「(忠頼)千代万代とちぎる行くすえ」
石山座主坊の脇句は、(旅の帰り道、都に近い近江路において)思いがけなく知人に出会って近況を問われた喜びを歌ったものです。これを忠頼の三句では、前句の「とわれては(問われては=尋ねられて)」を「訪われては(=訪ねられて)」に読み替えててしまいます。そして、「地位の高い人の訪問という思いがけない名誉をうけて・友人の約束をしあう喜び」を歌います。これは同音異義語を使って、違う意味に前句を読み替えてしまう手法で、平たく言えば「駄じゃれ」なのでありましょう。良く言えば「掛け言葉」というものです。これは「ずらし」の分かりやすい形です。
○「(長遠)枕のかねのちかきあけぼの」・「(周阿)わかれかねたがいにいとふ鳥鳴きて」・「(隆景)又と契るもいさやかねごと」
周阿の脇句では、恋人が逢瀬の終わり(暁)を告げる鐘の音・鳥の声を厭い・別れを惜しむ情景を歌います。これに対して、隆景の三句は、また来ると約束(かねごと)して去ろうとする恋人の心にかすかに不安を感じる女心を歌います。鳥の声は不吉なものとして嫌われているのは同じなのですが、ここで隆景は「たがいに厭う」を異なる意味合いに読んでいます。脇句においては「この二人の恋人たちが共に鳥の声を嫌だなと思っている」のですが、三句においては「女は鳥の声を嫌だなと思っていて、男もそう言ってはいるのだけれど、本心からそう言ってるのかは分からない」という意味で「たがいに厭う」を使っています。このように前句の意味を微妙に読み変えることで「ずらす」やり方は、もうちょっと高等手法というべきでしょう。
*以上の考察は竹i内晶子:「能と連歌のテキスト空間」(「国文学」・1998年12月号所収)を参考にしています。
こうした「ずらし」の手法は、浄瑠璃・歌舞伎での、故事来歴や先行芸能の主題・筋の大胆な読み替え・書き替えにも通じるものではないでしょうか。
例えば、有名な「平家物語」の熊谷直実と平敦盛の物語を直実の実子の身替わり物語に書き替えてしまう(「一谷嫩軍記」・熊谷陣屋)のは、史実はそのままにして、敦盛を直実の一子・小次郎に「同音異義語」的に読み替えた発想だといえましょうか。能「舟弁慶」の平知盛の幽霊の物語を実は知盛は生きていたと書き替えてしまう(「義経千本桜」・「碇知盛」)のは、知盛の出現を亡霊から生身の人間に意味を読み替えることによる「ずらし」の発想に拠っています。どちらも連歌の「ずらし」の発想が下地にあり、それによって先行作の作り出す世界から大胆に逸脱しています。それでいて先行作の世界をよく生かし、その味わいを引き継いでいるのです。
こうした「本歌取り」の作劇手法は著作権の意識の浸透した現代では「パクリ(題材盗用)」・著作権侵害に見えるかも知れません。「創作能力がないからパクリに走る」なんて言われかねません。しかし、昔の狂言作者はさらに後の作者に本歌取りされればされるほど誇らしかったに違いありませんし、後の作者が自分の作品を本歌取りするのを意識してさらに「ずらし」の手法を磨いたに違いありません。自分の作品が盗用されたなどと怒る人はいなかったのです。
このように西沢一鳳が「伝奇(きょうげん)の一番も著さんと思う者は、院本(じょうるり)正本を熟覧して、閑暇には俳諧をすべし」と書いているのは、「俳諧之連歌」の発想が戯作者には必要だと認識してのことなのです。
連歌では発句においてのみ、その場所や時間などの条件が示されます。脇句以下の展開ではそれにとらわれず全く虚構の世界に遊び、つねに流動・変化していくわけです。二条良貴は連歌の概念について次のように書いています。
『つらつらこれを案ずるに、連歌は前念後念をつがず。また盛衰憂喜、境をならべて移りもて行くさま、浮世の有様にことならず。昨日と思えば、今日に過ぎ、春と思えば、秋になり、花と思えば、紅葉に移ろうさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや。』(「筑波問答」)
二条良貴がここで言っていることは、歌舞伎によく出てくる『ナンノダレソレ、実はナンノダレガシ』という設定によく似ています。つまり登場人物たちはそれぞれ、一身のうちに嘘(仮の姿)と実(本来の姿)の二つをあわせ持っており、お互いに嘘を実と信じこみ・また実が嘘でもあり得るという交錯した世界に生きているということです。
また歌舞伎の登場する「世界」の設定というものも、もともとは江戸時代に起こった事件を恐れ多いので・鎌倉時代の虚構の設定に託して幕府への言い逃れをするというものであったのでしょうが、恐らくはその「方便」がそれほど抵抗もなく浄瑠璃・歌舞伎の作劇手法としてすんなり確立されたのも、『昨日と思えば・今日に過ぎ・春と思えば・秋になり』という「俳諧之連歌」の発想の下地があってこそのものでしょう。
ここで八代目三津五郎の言葉をもう一度思い出したいと思います。「昔の振付師だとか役者がやった俳句というのは、今の人のいう俳句・正岡子規以来の俳句じゃないんで、昔の俳句というのは俳諧なんだ、連歌なんだ。だから、連歌のつながり、鎖でつないでいくあの連鎖反応の発想法、前の文句から次の文句へいくテクニック。だから自然主義じゃ何言ってんだか分からねえんだ。それが分かってないから今の踊り・芝居がつまらない。」
4)「台詞はアクションである」
『僕は台詞がアクションだという考えは、お能から勉強したのだ。お能は、つまり謡曲という文章は、イメージ・・・言葉から言葉へ変わる、イメージが変化する時に、人間が全体的に移っちまうのだよ。言葉がね、その人間をジャンプさせていく。連想作用でジャンプさせていく。例えば「松風」で「月はひとつ、影はふたつ、満つ潮の、夜の車に月を乗せて・・・」、そういう台詞があるわな。「月はひとつ」といういうイメージはひとつあるだろう。「影がふたつ」というのは、それは潮の車がふたつあるから影がふたつ。「満つ潮の」というのは、まったくただ三つという観念と、潮は満ちるというのと一緒になっている。アソシエーション・オブ・アイデアだろう。そうしてそれに潮汲み車を引っ張っているだけの話だよな。だけれども、ふつうの言語だったら、お月様が出て、その月の影が潮汲み車に映っていて、それを私が引いているんだというだけでは、なんら台詞は行動にならないのだ。能の台詞自体が行動になっているのは、そういうイメージの力だよ。そういうイメージの力を発見したというのは、すごいと思うのだね。』(三島由紀夫の安部公房との対談:昭和41年2月・「二十世紀の文学」)
ここで三島由紀夫は「台詞がアクションだという考えは能から勉強した」と言っていますが、実は能楽そのものが連歌との精神的関連を密接に持つ芸能なのです。世阿弥と二条良貴は親交があったことはよく知られておりますし、能のテキストでの語彙・修辞・詩章の展開などはまさに連歌との関連において説明されるものなのです。
言うまでもないことですが、これらの詩章・科白の面白さというのは発声されて、音になって初めて分かるものであって、文字で読んだだけでは「何だ、こんなもの」という印象にしかなりません。まして外国語に翻訳してその面白さを伝えようなどとは不可能な話です。この「発声されて・初めてその意味が分かる」ということが三島の言っている「台詞がアクション」であるということです。音が直接的に脳に働きかけてイメージをジャンプさせる作用を引き起こすということです。
つまり、連歌の作り出した「ずらし・飛躍」の発想法・表現の技巧・言葉の使い方・演劇的展開というものは、能・狂言を通して、浄瑠璃・歌舞伎にまで至る・日本芸能を貫く大きな流れになっているわけです。ここで浄瑠璃・歌舞伎からいくつか例を引いて、連歌の発想が作品にどう生かされているかを見ていきたいと思います。
○『そなたも殺し我も死ぬ。もとはと問えば分別の、あのいたいけな貝殻に。一杯もなき蜆橋。短き物は我々がこの世の住ゐ、秋の日よ。十九と二十八年の。今日の今宵をかぎりにて。二人の命の捨て所。爺と婆との末までも、まめで添はんと契りしに。丸三年も馴染みまで。この災難に大江橋。』(「心中天網島」・下の巻)
近松の有名な「道行名残の橋尽くし」の詩章です。水の都・大坂にかかる橋を次々と読み込み、小春・治兵衛に歩みをさせながら、その心象風景を描いていきます。「この災難に会う(=あう=おう・大江橋」・「聞くもおそろし天満(=ま・魔)橋」・「普門品妙蓮華(きょう・経=)京橋」など、音を掛け合わせていく近松のテクニックはさすがです。大坂庶民には親しい橋の名前が読み込まれることで、見慣れた大坂の風景は観客の意識のなかで、そのまま舞台の悲劇にジャンプして行き、その心情がより身近な・鮮明なものになっていきます。
○『村々へ配る人相書。コレ御覧なされ」と懐中より、出して見せたる姿絵を「どれ」と見る母二階より、覗く長五郎、手洗鉢、水に姿が映ると知らず目ばやき与兵衛が、水鏡きっと見付けて見上ぐるを敏きお早が引窓ぴっしゃり、うちは真夜となりにける』(「双蝶々曲輪日記」・「引窓」)
「引窓」において、二階から下をうかがう長五郎の姿が手洗鉢の水鏡に映ってしまい、これを与兵衛が目ざとく見つける有名な場面です。ここで「水鏡」の「みず」が、「水(みず)」と「見る」に掛けられています。その瞬間、観客の意識は「水面に移る長五郎の姿」にワープするのです。一気に舞台の空気が緊迫していくのが感じられるでしょう。
○『冥土の旅へ寺入りの、師匠は弥陀仏釈迦牟尼仏、六道能化の弟子になり、賽の川原で砂手本。いろは書く子をあへなくも、散りぬる命、是非もなや。明日の夜誰か添乳せん。らむ憂ゐ目見る親心、剣と死出のやまけ越え、あさき夢見し心地して、あとは門火に酔いもせず、京は故郷と立分かれ、鳥辺野差して、連れ帰る』(「菅原伝授手習鑑」・四段目「寺子屋」)
有名な「寺子屋」の「いろは送り」の詞章です。「いろは歌」を散りばめたこの詩章が文学的に高いか・低いか、いろいろ言う人もおりましょうが、しかし、言葉遊び的な面白さを感じさせることは明らかでしょう。「散りぬる命」・「あさき夢見し心地して」とはうまく付けたもの。この「いろは送り」は、言うまでもなく小太郎は書道の師匠である源蔵の元に弟子入りしたのですから、小太郎にあの世で書道の稽古をさせてやりたいという親の気持ちを暗示するものでありましょう。
○『(桜姫)いずくの誰が手塩にて、育つ我が子を一目なと、(清玄)逢うて重なるこの恨み、(桜)恋しゆかしの、みどり子の、(清)顔が目先へ桜姫。(桜)逢いたい、(清)見たい、(桜)仏神様、(清)姫に、(桜)我が子に、(清)何とぞ、(両人)逢わせて下さりませ。』(「桜姫東文章」・「三囲の場」)
「三囲の場」で桜姫と清玄が交わす割科白です。二人の科白はすれ違いで、清玄は桜姫に逢いたがっていますが、桜姫が逢いたいと言っているのは我が子(清玄の抱いている赤子)です。お互い勝手に言われている・すれ違いの科白なのですが、一方で、それが微妙に呼応し合っているようにも聞こえてきます。そこに清玄と桜姫(=前世で清玄の寵愛を受けた白菊丸)の人知れぬ因縁を感じさせます。「恨みー恋し」・「逢いたいー見たい」・「姫にー我が子に」・「何卒ー逢わせてくださりませ」。オペラの二重唱のように、二人の心情が溶け合ってひとつの科白を作り出しています。
○「月の朧に白魚の、篝(かがり)もかすむ春の空。冷たい風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれ鳥(からす)のただ一羽。ねぐらへ帰る川端で、棹の滴(しづく)か濡れ手で粟。思い掛けなく手に入る百両。・・(厄払いの声あって)・・ほんに今夜は節分(としこし)か。西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落し。豆沢山に一文の、銭と違った金包み。こいつぁ春から縁起がいいわぇ」(「三人吉三廓初買」・大川端)
「大川端」での有名なお嬢吉三のツラネです。どうという意味があるわけでもないのでしょうが、「月」・「朧」・「白魚」・「篝」と次々に情緒ある単語を並べてイメージをジャンプさせていきます。それだけでお嬢吉三の得意気な・イナセな気分を沸き立たせるではありませんか。別稿「四代目源之助の弁天小僧を想像する」でも書きましたが、こうしたツラネは本来は女形がするべき行為ではなく・立役のものなのです。「女形がすべきでない行為を敢えてする」ということで鬱屈した気分を発散させる場なのでして、それにふさわしいイメージの単語を黙阿弥は飛び交わせています。
「濡れ手で粟」は、「滴(しづく)」が先に出てきますから「泡(あわ)」に通じ、思いがけなく手に入った「泡銭(あぶくぜに)」の百両に掛かります。「厄払い」の文句というのは「アーラめでたいな〜」で始まり、「西の海には思えども、この厄払いがひっ捕らえ、東の海へさらり」で終ります。お嬢吉三のツラネの「西の海より〜」はこれを踏まえて、「夜鷹が川の中で落ちた」ともじって厄払いに掛けています。
5)「俳諧之連歌」の流れを汲む最後の狂言作者:黙阿弥
『世話物っていうものは人間描写なんでしょう。その面白さでしょう。だから僕は黙阿弥は世話物じゃないと思う。「三人吉三」なんか、時代物だな。「月も朧に白魚の・・」、人間がそこに出てませんよ。昔の人は、よく空っ世話っていったんですよ。空っ世話でいいねとか。いま言いませんけどね。それは要するに七五調にならないんですね。今で言う現代劇ですね。』(宇野信夫の対談:「世話物談義」・「演劇界」昭和57年7月号)
これは「昭和の黙阿弥」とも呼ばれた作家宇野信夫氏のご発言です。七五調も科白それ自体が要求するリズムと抑揚でしゃべれば「写実」にもなり「歌」にもなる、ということは何度か書きましたからここでは割愛します。「月も朧に白魚の・・」には人間が表現されていないという宇野氏の見方について考えてみたいと思います。
まず宇野氏の立場から申し上げると、自然主義演劇の立場で黙阿弥を見れば、まずお嬢吉三のツラネ自体が許されないかも知れません。突然、写実のお芝居にオペラのアリアが出現するようなものだからです。おまけに「月も朧に白魚の・・」とは何言ってんだいと宇野氏が感じるのも頷ける気がします。
しかし「月も朧に白魚の・・」というお嬢吉三のツラネは、観客の意識を別の次元へワープさせる手法であって、連歌会での「大ずらし」の手法とも言うべきものでしょう。美しい女形が男の声で刀の片手に見得をする・その衝撃で観客を驚かせます。そして「月」・「朧」・「白魚」・「篝」と、次々と情緒ある単語を放って、観客を異次元へ誘います。これは前述の三津五郎の言葉通り、「連歌のつながり、鎖でつないでいくあの連鎖反応の発想法、前の文句から次の文句へいくテクニック。だから「自然主義じゃ何言ってんだか分からねえんだ」ということになるでしょう。
「人間を描いていない」というのは、もしかしたら・宇野氏の言う通りかも知れません。しかし、これは芝居における「言葉遊び」・「イメージの遊戯」なのです。このツラネに関する限りは、生な人間を描くことは確かに黙阿弥の目指す所ではないでしょう。しかし、二条良貴の「連歌は前念後念をつがず。また盛衰憂喜、境をならべて移りもて行くさま、浮世の有様にことならず」(「筑波問答」)を想起すれば、黙阿弥はこのツラネで間違いなく「浮世の人生」をみごとに描いたのです。
黙阿弥を最後として「俳諧之連歌」の流れを汲む狂言作者は、明治以降は絶えたと言えます。現代の我々にとっても「連歌」というものがもはや親しいものではなくなっています。自然主義の発想に慣らされてしまって、我々は「言葉遊び」・「イメージの遊戯」の面白さが分からなくなってしまっています。現代に黙阿弥を再生しようとすれば、我々は忘れていた「俳諧之連歌」の発想を想い起こしてみる必要があるでしょう。
(平成14年6月16日)
(参考文献)
服部幸雄:歌舞伎と「俳諧之連歌」
竹内晶子:能と連歌のテキスト空間(以上の論文は「国文学」・1998年12月号所収)