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「批評」について考える・その2

*別稿「批評について考える」の続編です。


1)創造行為の不思議さ

「あなたのデッサンというものに対する考えはどういうものなのですか」というヴァレリーの質問に対して、ドガが「デッサンは形式(フォルム)ではない。デッサンとは物の形式の見方である」と答えたことについてさらに考えてみたいと思います。ここではヴァレリーの存在は抜きにして、ドガの言葉を吉之助がどう考えているかを書きます。

「デッサンとは物の形式(フォルム)の見方である」、ドガは描くべき対象には形式(フォルム)が・つまりその対象の有り様というものがある・それを自分は見極めてデッサンをしているのだと言いたいのだろうと 吉之助は思います。もう少し言い方を変えますと、「その対象が自分はこう描かれたいと望んでいる(と私が感じる)から私はそれを描いているだけだ」ということです。だから「パステルの魔術師」と言われたドガがその対象をその深い色調で描き出す時、その画は思いもかけないような深い情感を鮮やかに漂わせているかも知れませんが、ドガにはその対象がそのように見えているとしか言いようがないのです。

「それは結局、対象がドガの感性で捉えられ・ドガの内面で解釈され・変形されたものではないのか」と仰るかも知れませんが、それならばドガが恣意的に・意図的に(つまり色メガネで)対象を見ていることになります。 そうではなくて、対象が ドガに「私をこう描いて」と語りかけているものこそが「対象の形式(フォルム)」です。それを感じ取ったドガが、それを虚心に・忠実に写し取ったものがドガの画なのだと 吉之助は思います。

しかし、出来上がった画を見れば、そこに現れているのはまさにドガの個性そのものであるということも間違いがないのです。これはどういうことなのでしょうか。そこに芸術の創造行為の不思議さがあるのです。


2)主観と物質

ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」に「主観と物質との対話」という有名な文章があります。

(主観)「わしだけが存在しているのだ。わし以外には何も存在しない。世界はわが表象じゃ。」
(物質)「ばかなことを抜かすな。実在しているのはおれだ、わがはいじゃ。世界とはわがはいの仮そめの姿のことじゃ。おまえなどは、わがはいのこの世界の一部分のなかから、あとになって生み出されてきただけのもの。いやはや、はかない存在じゃ。」
(主観)「何と言う愚かなうぬぼれか。もしわしというものがなかっから、おまえもおまえの形も存在し得なかったろうに。」

このような主観と物質の罵り合いから対話は始まりますが、やがて両者はお互いを認めて、次のように言います。

(両者)「してみると、われわれはひとつの全体のそれぞれに必然的な部分として、お互いに引き離されないように結び付けられていることになるのだな。この全体がわれわれ双方を総括してるのだし、またわれわれ双方のゆえにその存在を保ってもいるわけなのだ。ただなんらかの誤解だけが、われわれを引き離して、相互に敵対させることになるのであろう。その結果、一方が他方の存在を否定しようとすることにもなってくるのだ。他ならぬおのれ自身の存在が他方の存在に依存しているというのに。他方が倒れれば、おのれ自身もまた倒れるというのに。」

*ショーペンハウエル:意志と表象としての世界〈1〉 (1970年)


3)表現という行為

本サイト「歌舞伎素人講釈」は再現芸術(原典となるテキストというものが存在し・これを解釈してパフォーマンスする芸術)を扱うサイトですから、そのことを考えます。実は演劇の場合は副次的な要素(演出・装置・共演者など)が多く絡むので、まず楽譜という原典を持つ音楽家の場合を考えて見ます。

音楽家は楽譜を前にして・これを解釈するわけですが、楽譜には出すべき音やリズムを記号で記してありますが・その音から次の音へそのまた次の音へどのようなテンポでどのような流れで辿っていけば良いのか・ 各楽器の音をどのような配合で重ね合わせていけばよいのか・そこから主旋律をどうやって浮き上がらせることができるかなどを厳密に指示しているわけでは ありません。 「フォルテ(強く)」と書いてあっても・それがどれくらいのレベルの強さかは書いていない。「クレッシェンド(だんだん大きく)」と書いてあっても、それがどこから強くなって・どのような過程で強くな っていって・どこまで大きくなるのかが分かりません。そのようなことを楽譜に記すことは不可能なのです。だから、音楽家は楽譜を読みながら、楽譜の向こう側にある音楽・作曲者の意図を見つけようとします。音楽家は自分の感性あるいは理性を駆使してその音楽を読み取ろうとするのです。

しかし、実際のところ、この音楽の意味することはこういうことだと自分が思える確信をつかんだ時には・それは楽譜と一致していることが非常に多いものです。その時にはその解釈は正しいとはっきりと言えます。また、これはうまくいっていない・まだ十分に音楽がつかみ切れていないというもどかしさを感じる時は、楽譜と突き合わせるとどこかフィットしない・何かが違っていると感じられるのです。その時はさらに熟考を重ねなければなりません。

それではそれは音楽家は自分の主観で楽譜を恣意的に解釈しているということになるのでしょうか。楽譜は音楽家の自己表現のための踏み台に過ぎず、彼は楽譜を自分の意志で自由に作り変えていいのでしょうか。決してそうではありません。音楽家は作曲者の意図を読み取ろうとして・楽譜に対して虚心に接します。解釈という行為は自己のなかで他者を追及する探検であって、そこでは自己の存在は遠のきます。逆に言えば、そこで自己がしゃしゃり出てくる限り・その解釈は決して正しいものにはならないのです。だから、優れた音楽家はつねに楽譜に対して謙虚であると言えます。 次の文章は名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮の極意を語る時によく引き合いに出していた文章です。

『私が的を射るのか、それとも的が私を射るのか。このことは肉体の眼で見れば不思議だが、精神の眼で見れば不思議でも何でもない。では、どちらでもあり・どちらでもないとすれば、どうなるのか。弓と矢と的とおのれのずべてが融けあうと、もはやこれらを分離することは出来ない。そして、分離しようとする欲求すらなくなる。だから、私が弓を構えると、すべての事柄がクリアで、面白いほどシンプルになる。』(オイゲン・へリゲル:「「弓道における禅の精神」)

オイゲン・ヘリゲル:日本の弓術 (岩波文庫)

冒頭のドガの言葉もそのように読むことができるでしょう。「デッサンは形式(フォルム)ではない。デッサンとは物の形式の見方である」、すなわち音楽においても・楽譜が主張している形式(フォルム)を読み取ろうとする態度が重要になります。これは演奏者は楽譜を解釈しているように見えながら、じつは楽譜に解釈されているということでもあります。演奏者はテキストに解釈に投影された自己を見る ことになるのです。この場合、解釈はもはや個人レベルの解釈ではなく・「コンセプト(概念)」とでも称すべきものになっています。コンセプトは楽譜と演奏者が一体化したものです。その具体的な結実が、彼の「表現=演奏」なのです。そして、その表現が形式(=フォルム)を主張するのです。

まったく同じ楽譜からどれほどに多様な表現が可能であるかを吉之助は知っています。どの演奏もテンポもフレージングも音色もどれひとつとして同じものはありません。そして、優れた演奏はどれもテキストに忠実であると同時に、それも非常に個性的であると言えます。


4)「型」とはテキストである

以上の考察を踏まえて演劇の場合を考えれます。「役と一体化せねばならない・役のなかに自己を投影しなければならない」ということでは音楽と同じなのですが、たとえ主役俳優であっても舞台の一部であることには違いなく・主役だけで は芝居は成り立ちません。ここがパフォーマンス全体を自分でコントロールできる可能性のある音楽家(オペラなどは別です)とは異なるところです。

この場合、「テキスト」が何を意味するかということが問題になります。ひとつが脚本であることは間違いありませんが、もうひとつ 重要なものがあります。それは演出意図(作品全体を見通した コンセプト)というものでしょう。 (もちろんこれは脚本と不即不離のテキストであります。)このことは西洋演劇の場合なら当然と言えます。演出家のコンセプトに対して主役が「そのコンセプトは納得できない」と抗議するならば、その俳優は役を降りるべきなのです。作品全体を統一するコンセプトというものがテキストになるのです。文章として記されていなくても・それは間違いなくテキストなのです。歌舞伎では演出意図というものの存在が漠然としているように思われますが、しかし、歌舞伎であってもそれが全然ないはずがありません。歌舞伎の場合ならば、それは「型」ということになります。「型」という場合は全体に関係しない細部の段取りを型を言うこともあり・全体に関わる演出的なものを型と呼ぶこともありますが、それらをすべてひっくるめて ・これが広義に歌舞伎のテキストになります。「型」は獏としているけれども歌舞伎の形式(フォルム)を主張するテキストなのです。そのなかで自分に与えられた役をどう演じるかというのが、役者の課題になります。

歌舞伎の形式(フォルム)は脚本と型の兼ね合いのなかで決まります。義太夫狂言の場合は「丸本」という原典があるから若干テキストの意味合いがもっと厳密になってきますが、一般的には歌舞伎のテキストは漠然としていて ・「そのあるべき姿」はおぼろげに見えていますが、それは能のようには固定していません。しかし、それは「歌舞伎に定型の形式(フォルム)がない」ということではなく 、我々がその答えをまだ見出していないからなのです。もちろんこの場合に「熊谷陣屋」に形式(フォルム)はひとつだけだということはありません。複数あっていいのですが、その形式(フォルム)のテキストたる「型」の権威が認知される必要があります。

「型」がテキストの一部だという意識は、歌舞伎ではまだ確固とした認識になってないようです。 普通は「型」は役者の創意工夫、言い換えれば役者個々の恣意的な解釈と見なされているのかも知れません。しかし、九代目団十郎や六代目菊五郎には(彼らがそれを演劇理念として持っていたかどうかは別として)「型」はテキストであるという明確な意識があったと 吉之助は考えています。その意識が時代から遊離した歌舞伎に「伝承芸能」という位置づけを与えた、その意識がなければ・歌舞伎はここまで生き延びることはできなかったと思っています。「型」をテキストであると 強く意識することが、これからの歌舞伎のために非常に重要なことになります。

ひとつの楽譜からあれほどに多様な音楽表現が可能であるように、歌舞伎は脚本と型というテキストによって、そのあるべき形式(フォルム)を見出さねばなりません。このことが現代においてどれほど意識されているでしょうか。


4)批評という行為

「批評」という行為もまた創造行為であると吉之助は思っています。批評家は、表現者(それは作家・画家・音楽家であったり・役者であったりもしますが)を介して・その表現行為を読み取り、時に作品を語り・時に表現者を語るのです。批評家が追うものもまたその作品・その舞台のあるべき形式(フォルム)、その作品が・その舞台がそのように描いて欲しいと望んでいるところの形式(フォルム)なのです。

しかし、 そうして対象(作品・舞台)を批評しながらも、その実、批評者は作品からも・役者からも批評されているのです。だから批評家はそうしながら自己を語っているとも言えるのです。そのことを批評家がわきまえていないのならば、その文章は個人的感想の域を出ることは 決してないでしょう。しかし、優れた批評は個人的感想を超えて、自己を描き出すと同時に・作品を・そして役者をも鮮やかに描き出すことができるでありましょう。そして、優れた批評は詩になるのです。批評もまた芸術作品になり得るのです。 吉之助はそのように信じています。


 

 

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