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雑談:オペラと歌舞伎の理念的な近似について


1)芸に対する心構え

例によってオペラの話しから始まりますが、そのうち歌舞伎の話に絡んでいくと思います。2021年4月に東京春音楽祭の「イタリア・オペラ・アカデミー」を開講し、若い音楽家たちと共にヴェルディの歌劇「マクベス」を作り上げていくと云うことで、イタリアの名指揮者リッカルド・ムーティが来日しました。2019年の歌劇「リゴレット」の件については別稿「雑談:オペラと歌舞伎の心情的類似について」で取り上げました。今回の歌劇「マクベス」はそれに続くプロジェクトで、本来は2020年に行なわれる予定でしたが、世界的な新型コロナ・パンデミックにより延期になってしまって、今回行なわれたものです。ムーティの母国イタリアでも、コロナ感染の被害は深刻です。今回の来日ではムーティも所定の隔離期間を経て我々の目の前に現れたということで、「イタリア・オペラ・アカデミー」のプロジェクトに賭けるムーティの意気込みは並々ならぬものがあったと思います。今回はコロナ感染防止のため現場でのリハーサル聴講が実施できなくなってしまい、その代わり・オンラインで全日リハーサルが公開されました。せっかくの機会なので、7日で通算28時間くらいのリハーサルをすべて聴講しました。おかげでその間の吉之助は完全に歌舞伎そっちのけになりましたが、吉之助のクラシック音楽歴50年のなかでも、これは特別な体験となりました。

吉之助は、音楽を聞きながら「ここは歌舞伎で例えれば・・」などとよく考えます。前回の「リゴレット」の時は、ジルダとお三輪の近似とか、作品解釈・心情面から歌舞伎との近似を考えることがありましたが、恐らく「マクベス」はマクベス夫人などキャラクター的に近似の役柄を歌舞伎に見出しにくいからでしょうかねえ、今回はそう云うことを考えることがあまりなくて、その代わり、ムーティの音楽指導をみっちり聞けたおかげで、オペラと歌舞伎上演の理念的な面でいろいろ感じるところが多かったので、本稿では、そんなことなど雑談として披露したいと思います。

ところで、今回の歌劇「マクベス」の、ムーティ指揮による本番演奏(4月19日東京文化会館)は、とても好評でしたが、ネットなどでざっと目に触れたところでは、感想としては、「怒号のように強烈なフォルティッシモ」、「荒々しいほど激しいリズム」と云うような表現がよく見られたようです。まあ言葉にするとそんな風な言い方になってしまうことはよく分かったうえで臍曲がりなことを言うのだけれど、多分、ムーティはそれとは真逆のことを志向していたと思うのですねえ。ムーティ指揮による本番演奏は、響きが割れることなく、すべての音は常に気品を保ち、荒々しさとは無縁のヴェルディであったと思います。卑俗ではない、ホントに格調高いヴェルディでした。つまり、どんな場合においても音が割れることなく・常に美しく鳴り響くフォルティッシモ(ムーティ自身は「オルガンのように」と表現していました)、どんな場合においても気品を失なうことなく・深く刻まれるリズムということなのです。例えば、ムーティはこんなようなことを言ってました。(注:吉之助がムーティのいくつかの発言をその意味に沿って再構成しました。)

「可哀そうなヴェルディ、ホントに可哀そうなヴェルディ。オーケストラをびっくりさせないでください。みんなメゾフォルテやフォルテばかりでやりたがる。みんなピアニッシモを忘れてしまった。私たちがそのようにしてしまったんです。それをやるには、正しい準備が必要です。1−2−3があって、4があるのです。突然タクトを振り下ろしてオーケストラをびっくりさせるものではない。」

「フレーズは常に流れるのです。ただリズムを刻むのではなく。すべての音、それが一番短い音であっても、それは常に意味を持っているのです。常に音楽に満ちたものにしてください。指揮者がフレーズを疎かにしてしまうと、オーケストラはそのようにしか出来なくなってしまう。悪いのは、すべて指揮者のせいなのです。」

そうだと思いますねえ。歌舞伎には指揮者はいませんけど、このことは舞台で役者が台詞をしゃべる場合でも言えますね。台詞はいきなり抑揚を付けて歌舞伎らしく読もうとするのではなく、まずは台本を何度もゆっくり朗読してみることです。台詞に七五のリズムを当てはめようとするのではなく、台詞を語るとそれが自然に七五に落ちて行くというような感じ、そうなるためには言葉の息を大事にせねばなりません。

「ヴェルディは言葉が歌になるまで、何度も何度も繰り返し台本を口にして読んで、そうやって旋律を書いたのです。ヴェルディは、すべての音は歌われるべきであると言いました。メロディを歌うのが、私たちの仕事です。そのためには、歌詞の息と意味、次のフレーズ、そのまたフレーズの先のことまで考えてやってください。」

ホントそうだと思います。「勧進帳」の山伏問答をやる時に、そのまた先の台詞のテンポを考えないで出来ると思えないんだけどねえ。

ムーティは、指揮を他人に教えることは出来ないとも言っていました。だからムーティが説くことは、指揮の技術論と云うよりも、指揮に対する心構え論みたいになって来ます。そう云えば、レッスンで指揮研修生が、第4幕フィナーレを興奮を煽るようにテンポを上げて振って、アンサンブルを乱したのですが、ムーティが顔をしかめて、こんなようなことを言ってましたね。

「まあそう云う風に振れば、指揮者は気持ちがいいだろうね。・・これは大事なことなんだが、テンポはリズムの技術的な見地から決まるんですよ。それはどこかのパートが受け持っているんです。例えば今回の場合ならば、トランペットだ。その早いテンポで振ってしまったら、弦は兎も角、トランペットは付いて行けませんよ。だからテンポは、技術的な可能性で決まるんです。いつもです。」

これもまったくムーティの云う通りだと思います。しかし、実際にはこれは言うは易しで(もちろんムーティはその難しさを知り尽くしたうえで言ってるわけですが)、吉之助が聞いた19日のムーティが振った本番演奏では、この最終場面でオケの弦パートが興奮して突っ走ってしまって、アンサンブルがちょっと乱れてしまいました。ここは本番よりリハーサルでムーティが振った時の方が良い出来でした。それにしても、19日のオケは素晴らしかったです。最後のところだけは惜しかったけど、ムーティであっても、いつも同じように上手く行くとは限らないわけです。だから指揮は難しい。(この稿つづく)

(R3・4・29)


2)ヴェルディの卑俗・歌舞伎の卑俗

別稿「雑談:オペラと歌舞伎の心情的類似について」に於いて、作家アルベルト・モラヴィアの、「(イタリア人にとっての)ヴェルディは、庶民的・農民的な、したがって「卑俗な」、我々の民俗的な(フォークロア的な)シェークスピアである」という文章を引用しました。ここで、ヴェルディの「卑俗」という言葉が、大事なポイントになって来ます。

実際、「ヴェルディ」という事象は、19世紀のイタリア統一運動に賭けた民衆の心情と切り離して考えることは出来ないものです。歌劇「マクベス」(1847年フィレンツェ初演)の第4幕冒頭に置かれた、国王マクベスの圧制に苦しみスコットランド民衆の合唱「虐げられた祖国」には、当時オーストリア帝国の支配下にあったイタリア民衆の思いが重ねられています。ヴェルディの音楽には、イタリア民衆の心情の奥底に直截的に作用する何ものかを持っているのです。

それでは、ヴェルディの卑俗が、音楽のなかにどのような表現となって現れているでしょうか?現代においては、それは例えば、テノール(或いはソプラノ)の、極限まで引き伸ばされた最高音であるとされています。管弦楽で云えば、まさに前項で言及したような、「怒号のように強烈なフォルティッモ」、「荒々しいほど激しいリズム」であるとされています。そのような要素がイタリア民衆の心情を刺激し、いつしかこれが庶民の「卑俗な」イメージと結び付いて、正当化されてしまいました。それは「俺たちはいつだって・こんな風にしてやって来た」と云うような慣習・伝統となり、オリジナルの楽譜は無視されて、作曲家本来の意図が歪められることになってしまいました。このような現状に対して、ムーティは猛然と反発するのです。

ところでムーティは音楽家として、「作曲家の理念を尊重し、楽譜に忠実な演奏を目指す」という立場で、20世紀初頭の名指揮者アルトゥーロ・トスカニー二の理念の継承を自任しています。これを歌舞伎に無理やりこじつけると、ヴェルディ演奏におけるトスカニー二というのは、歌舞伎における九代目団十郎みたいな存在であるとお考えいただけばよいです。ヴェルディを演奏する時には、誰だってトスカニー二を理想としています。

トスカニー二が指揮したヴェルディの録音は、オペラ全曲としては「椿姫」・「仮面舞踏会」・「アイーダ」・「オテロ」・「ファルスタッフ」、あと「リゴレット」第3幕と、序曲集くらいしか残されていません(その他にはレクイエムの録音が何と言っても素晴らしい)が、それらの録音を聞くと、「ヴェルディの音楽がイタリアの民衆を鼓舞したものはこれか!」と痛感させるものが、管弦楽にはっきりと聴こえます。それは言葉にしてしまうと、結局、「怒号のように強烈なフォルティッシモ」、「荒々しいほど激しいリズム」と云うようなことになってしまうわけですが、そこにムーティが繰り返し主張していることを重ね合わせると、そこで或る事にハタッと気が付くのです。

それは、その後のイタリア・オペラの指揮者たちの多くが、トスカニー二のスタイルを表層的な次元で、安直に「卑俗」と結び付けて真似てしまっていると云うことです。音が割れて響きが濁ってしまっても、リズムが前のめりになってアンサンブルが乱れても、そこにやむにやまれぬ熱い思いがあれば・それで良いのさという安直な姿勢です。まあそこに「イタリア民衆の熱い心」を見ているということなんですけどね。(但し書きを付けると、モラヴィアが「ヴェルディの卑俗」と書いたこと自体は間違いではないのですが、これを「民衆に立脚しているならば、何でもあり」と解してしまうから、間違ってしまうのです。)

そのような姿勢をムーティは決して許さないのです。ムーティが主張していることは、シンプルです。響きはどこまでも美しく、リズムは深く正しく刻まれて、フレーズは流れるように、常にそこに音楽が満ちているようでなければならないということです。ムーティは「マクベス」の魔女の合唱の管弦楽のリズムが前のめりになった時にオケを止めて、「それではまるでナイトクラブで魔女が踊ってるみたいですよ」と注意していました。音楽の品格が大事なのです。その結果、ムーティが指揮するヴェルディは、「卑俗」な印象が遠退いて「格調高い」印象になって行きます。つまり、どちらも同じくトスカニー二を理想としていても、両者の印象が、卑俗と格調とに決定的に分かれると云うことなのです。このようなことは、吉之助も長年オペラを聴いて来ましたから印象的には承知していますが、今回のイタリア・オペラ・アカデミーでムーティが若い指揮者たちを指導するのをつぶさに見て、ムーティの言いたいことが、改めて深く理解出来ました。ムーティはこんなことも言っていました。

「ヴェルディは、ロマンティシズムに裏切られ続けた作曲家であった。民衆的なオペラだという理由で、歌い手の可能性を試すためのショーにされてしまった。みんなエフェクト(効果)ばかり求めたがる。私たちがそのようにしてしまったんです。ヴェルディは、或る意味、表現的見解において、未来の作曲家であると言える。様々のショーの果てに、ヴェルディが本当に理解される日がいつか来るだろう。」

これを歌舞伎で言い換えれば(何でも歌舞伎にこじつけて考えるねとお笑いください)、その後の歌舞伎の規範とされた明治の団菊(九代目団十郎・五代目菊五郎)を、「俺たちはいつだって・こんな風にしてやってきた」と云う・いわゆる「歌舞伎らしさ」で理解しようとするならば、結局、歌舞伎は「卑俗」なものになってしまうだろうと云うことですかね。ヴェルディの卑俗も、歌舞伎の卑俗も、それはそこに結果として見えた表面的な事象に過ぎないのであって、決してその本質ではないと云うことなのですねえ。

(R3・4・30)


追記)オーケストラに尊厳を与えてください

「イタリア・オペラ・アカデミー」講座は、ムーティのイタリア人らしいジョークを交えながら着々と進みましたが、一度だけムーティが語気を強める場面がありました。オンライン映像で見ていたところでは、どういう経緯でそういうことになったか分からなかったのでちょっと驚きましたが、もしかしたらオーケストラのなかに気のない雰囲気が見えたんですかね。ムーティの下に志願して集まった面々だから、そういうことはなかっただろうと思うのですが。ムーティはこんなことを言い始めたのです。

『(オペラにおける)オーケストラは、歌い手のための伴奏楽器ではないんです。歌い手とオーケストラが一体となって、みんなで音楽を作るのです。オーケストラに尊厳を与えてください。そこが合意されていないと困るんですが、理解されてないだけですかね。・・・みなさんのなかに、ソリストになりたかったのに、結局オーケストラに入ってピットに入って、これから四十年・五十年と、指揮者に云われるがまま・ただ伴奏しなければならないのかと・・そんな風に思っている人がいるのなら、それは間違っているんです。私は容認できないんです。オーケストラに尊厳を与えてください。オーケストラは伴奏楽器ではないんです。好きですドン、嫌いですドン、信頼していますドン・・・そう云うのではなくて、ちゃんと意味を考えてやらないと。そこが大事なんです。』

ムーティのオーケストラに対する大きな愛を感じた場面でありましたねえ。そこで本サイトは「歌舞伎素人講釈」ですから・何でも歌舞伎にこじつけて考えるのですが、義太夫狂言に関しては、ムーティの言葉を借りるならば、

「竹本は役者のための伴奏楽器ではないんです。役者と竹本が一体となって、みんなで義太夫狂言を作るのです。竹本に尊厳を与えてください。」

と時々言ってみたくなるのですが。

(R3・5・6)




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