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「歌舞伎素人講釈」観劇断想  (昭和51年〜昭和64年)

*単発の記事にならない分量の断片をまとめたものです。
記事は上演年代順に並んでいます。


〇昭和54年12月国立劇場:「ひらかな盛衰記」〜源太勘当

七代目菊五郎の源太・初代辰之助の平次

七代目尾上菊五郎(梶原源太景季)、初代尾上辰之助(梶原平次景高)、五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(腰元千鳥)、二代目中村又五郎(後室延寿)他


「ひらかな盛衰記」は元文4年(1739)4月竹本座での初演。源平合戦のなかの、義経による木曽義仲討伐から一の谷の戦いまでを背景としており、樋口次郎兼光の忠死と、梶原源太景季と腰元千鳥との恋愛と云う、ふたつの筋を描いています。「源太勘当」は二段目に当たり、宇治川の先陣争いに敗れた源太景季がその責めを受けて勘当になると云うものです。(だから「先陣問答」と呼ばれることもあります。)三段目の「逆櫓」は人気演目ですが、ここに登場する腰元お筆が実は千鳥の姉に当たると云うことで、それ以上の接点がこの「源太勘当」にはないので、それで上演の機会が少ないのかも知れませんねえ。しかし、源太景季は「封印切」の忠兵衛が「ちっとはとっとお粗末ながら梶原源太はわてか知らん」と言うくらい当時の庶民に知られた風流男・色男でした。

「源太勘当」は、宇治川の先陣争いに敗れた源太景季が憂いを帯びた色男、弟の平次景高は兄の恋人千鳥に懸想して・兄を陥れようとする悪人ながら抜けたところがあって憎めない、この兄弟の陰と陽の対照がひとつの面白さです。菊五郎の源太は優美でいて・それでいてキッパリしたところもあって、先陣争いに敗れても決して恥じるところのない源太の性根をよく表現しています。辰之助もベリベリと活気のある台詞が好ましく、先陣問答で兄に絡んでいく気合いも良く・ふたりの息が合って、問答が義太夫狂言らしい面白さとなりました。芝居がテンポ良く進んだのは、菊五郎と辰之助のおかげです。

一方、女形陣の方では勘九郎の千鳥がとても神妙な出来。なかなか可憐だけど・もう少し明るくやっても良いかなと云う気がしますが、神妙さが先に立つのは、同座の親父さん(十七代目勘三郎)の厳しい眼が光っているからかも知れませんねえ。当時の勘九郎はどんな役でもこういう神妙な印象がしましたが、この時代があったからこそ後の活躍があったわけです。

しかし、今回の「源太勘当」がしっとりした幕切れになったのは、又五郎の延寿が良いおかげです。この性格が合わない兄弟のうえに立って、源太ばかりを贔屓にするではなく・平次もそれなりに立てながら・通すべき筋は通す毅然とした母親の情愛を、又五郎はしっかりした肚芸で見せてくれました。「源太勘当」は個々の役の性格がはっきりして・その対照が面白いし、もっと舞台に掛かって良い演目だと思いますけどねえ。

(R2・3・6)


〇昭和58年5月国立小劇場:「恋飛脚大和往来」封印切と新口村

孝夫の忠兵衛・四代目雀右衛門の梅川

片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)(亀屋忠兵衛)、四代目中村雀右衛門(遊女梅川)、十三代目片岡仁左衛門(孫右衛門)、五代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門(井筒屋おえん)、五代目片岡我当(丹波屋八右衛門)他


「恋飛脚大和往来」には「封印切」と「新口村」という有名な場面があって、どちらもよく上演がされますが、上演記録を見ると、明治期まではこのふたつの場を通しての上演も結構あったのです。しかし、大正・昭和期になると、「封印切」と「新口村」を別々にやる方がずっと多くなって来ました。普通こういう世話狂言は通し上演の方が分かりやすくなるものだと思うのですが、これはどういうことでしょうかねえ。多分これは「新口村」が道行浄瑠璃として清元の舞踊仕立てで上演されて来た長い歴史から来るのです。そのせいか現行の歌舞伎の舞台では、「封印切」と「新口村」の忠兵衛のイメージの落差がとても大きいのです。「新口村」の忠兵衛は、精神的にすっかり参っている感じで、存在感が薄い。実際、「新口村」を見るとこれは孫右衛門と梅川の芝居であって、忠兵衛は哀れと弱々しさの風情だけで持つ感じがします。だから「封印切」と「新口村」は芝居として繋がっている感じがあまりありません。それでますます通し上演が減って行くという感じでしょうかね。

本稿で紹介するのは、昭和58年5月国立小劇場で、十三代目仁左衛門監修により孝夫が忠兵衛を勤めた「恋飛脚大和往来」で、ここでは「封印切」と「新口村」を通しています。(なお孝夫が忠兵衛を演じるのは、この時が4回目であったようです。)これ以後に「封印切」と「新口村」を通した上演が全然なかったわけではありませんが、「恋飛脚」に関しては吉之助はこの時の舞台が一番記憶に残っています。

とは云え、仁左衛門監修の舞台は、松島屋の型をベースにいつもの舞台をふたつ並べた形で、さほど変わったところがあるわけではありません。ただ「新口村」に関しては、古い松島屋の型が使われており、これが興味深い。現行のやり方では納屋の前(戸外)ですべての芝居を済ませてしまいます(初代吉右衛門が孫右衛門を勤めた時に始めた型だそうです)が、雪が積もった寒い戸外での親子の対面というのも視覚的に寒々しく、何だか不自然ではあります。これは舞踊「梅川」の影響を強く受けているからです。一方、今回のやり方では、転んだ孫右衛門を梅川が介抱して納屋に連れて入り、道具を廻して室内で孫右衛門と忠兵衛の涙の対面の芝居をするのです。この後芝居がまた戸外に戻されて、さらに幕切れの竹藪で大道具が上手へ引かれるので、大道具方の仕事が大変ですが、理屈から云ってもこれが本当でしょう。加えて仁左衛門(孫右衛門)と雀右衛門(梅川)の芝居がしっとりと写実で味わい深く、 これでだいぶ「新口村」の感触が芝居の方へ寄って、「封印切」から「新口村」への流れが良くなったのではないでしょうか。

「封印切」に関しては、今回(昭和58年5月国立小劇場)の舞台から34年後になる令和元年6月歌舞伎での当代仁左衛門の忠兵衛との比較を別稿で書きましたが、この若々しい印象を34年後にも仁左衛門が変わらず維持していることに感心しますが、前半・井筒屋裏口での、おえんや梅川とのじゃらじゃらした和事のやり取りと、後半・井筒屋座敷で八右衛門との喧嘩で熱くなるシリアスな(つまり実事めいた)要素との間の折り合いが完全には付いていない点も、やはり34年後にもそのまま持ち越ししたと云う感じがあるようです。恐らく孝夫とすれば後半のシリアスな場面の方が現代人としてのセンスからしても処理しやすいでしょう。前半の和事の要素は孝夫の持ち前の愛嬌で処理しており・そこは人気役者のことだからもちろん受けていますが、彼自身としては多少無理をしてるところがあるのだろうと思います。つまり忠兵衛の和事を様式的なレベルではまだ捉えられていないということになるかも知れません。その辺に忠兵衛に対する孝夫の微妙な相性の問題があるかも知れませんねえ。

ただし現代での上方和事は、弱々しく・ナヨナヨした・同じ仕草を行ったり来たり繰り返ししつこくやるのが上方芸みたいに世間では思われているわけで。そう考えると、上方の成駒屋の忠兵衛が、八右衛門に突き飛ばされて封印が切れたからああ云う事件になってしまったわけで、忠兵衛の行為は故意じゃなかったんだ・忠兵衛は可哀そうだ・さぞ悔しかろと云う風に描くようになったことも、やはり自然の成り行きであったかと思うわけです。学者・劇評家は「近松の原作(冥途の飛脚)の方がいい・原作に戻せ」と盛んに言いますがね。松島屋の忠兵衛は、喧嘩で火鉢のふちで叩いたりしているうちに封印が切れ掛かっているのを見て驚いて・覚悟を決めて封印を切るという解釈で、多少の違いはあるのですが、忠兵衛の解釈の変更というところにまで至っているわけではありません。

しかし、これは今回(昭和58年5月国立小劇場)の舞台が良くないということではなく、孝夫の忠兵衛はよく頑張っています。特に八右衛門とのやり取りは面白く見ました。我当の八右衛門・我童のおえん他上方役者で固めたアンサンブルで見る「封印切」は、息が合って・テンポが良くて、このような上方芝居の雰囲気は、現在ではもう見ることは出来ないと思います。雀右衛門の梅川はこのメンバーのなかでは外部参加ということになります(ただし雀右衛門はもともと上方の名跡でした)が、出過ぎたところのない・しっとりとした辛抱役の梅川になっていて、とても良い出来です。

(R2・3・9)


〇昭和62年10月国立劇場:「摂州合邦辻〜合邦庵室」

七代目芝翫初役の玉手御前

七代目中村芝翫(玉手御前)、十三代目片岡仁左衛門(合邦道心)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(俊徳丸)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(浅香姫)、五代目上村吉弥(合邦女房おとく)、三代目実川延若(奴入平)他


別稿「合邦と玉手」に事情を記しましたが、昭和62年10月国立劇場での「合邦庵室」公演は元々六代目歌右衛門の玉手御前で企画されたものでしたが、歌右衛門が4日(初日)から15日まで休演したために、芝翫が初役で代演に立ったものです。本稿で紹介するのは、この時の映像になります。

芝翫の玉手の手順(型)は、もちろん成駒屋の型に拠っています。突然の代役でしたが、手順にあやふやなところはまったくなく、しっかりした出来であるのはさすがです。それにしても演じ手が異なるとやはり受ける印象は、歌右衛門が演じる玉手とは大分異なるものだなあと思います。これは良い悪いと云うことではなく、芝翫のニンであると、やはり古典的なかっきりした印象に仕上がるようです。味わいが清らかなのです。意図あって折り目正しく乱れるとでも云うか、邪恋の様相であっても・そこは貞女の性根が裏打ちされた意図した行為であるということがはっきり分かる、そう云う意味において、手順はまったく異なるのに・受ける印象は、むしろ七代目梅幸の玉手の方に近いような印象を受けるのが、興味深いなあと思います。しかし、恐らくそれは成駒屋型でも音羽屋型でも玉手の貞女の性根というところではそう大した違いがあるわけではないと云うことだろうと思いますねえ。むしろニンによって役の色合いが大きく変わってくるということです。

主役が替われば、当然周囲の様相も微妙に変化するものです。別稿「合邦と玉手」では仁左衛門の合邦を本息で台詞を言って気合い十分だと絶賛しましたが、これはやはり相手が歌右衛門というところでの芸のぶつかり合いから生まれたものだと云うことがよく分りました。芝翫の玉手との共演では、そのような丁々発止火花が散るというところは見えません。しかし、それはテンションが低くなったと云うことでは全然なくて、古典的なかっきりした芝翫の玉手に対し、仁左衛門がこれを懐深く受けると云うか・攻めよりも受けに回った結果なのでしょう。その意味において仁左衛門の合邦は初役の芝翫を手堅くサポートしていると云うことです。

なお芝翫は、その後平成8年(1996)9月歌舞伎座で本役で玉手を勤めましたが、玉手を演じたのはこの2回だけであったようで、これはちょっと残念でした。もう少し回数を重ねていれば、芝翫の芸を語る上で玉手は大事な役になったのではないでしょうか。

(R4・3・6)




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