十一代目海老蔵の師直・五代目菊之助の判官
平成25年12月・歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵」・昼の部
九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(大星由良助)、 十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(高師直・早野勘平)、五代目尾上菊之助(塩治判官)ほか
歌舞伎座は11月に引き続いて・12月も「忠臣蔵」通し。ただし11月はどちらかと云えばベテラン中心・12月は若手中心の配役で、これは「どうぞ、ふたつを見比べてください」というわけかな。切符の売れ行きは12月の方が良さそうですが。歌舞伎役者は「忠臣蔵」のどんな役が来てもすぐ演じられるように日頃から勉強しておかねばならないと、十七代目羽左衛門が言っていました。こうして、ベテランから若手へ役は受け継がれていくということでしょう。当然ながら若手中心の「忠臣蔵」は役の大きさ・重厚さには欠けると 云うことになるでしょう。これは仕方ないことで、若き日の幸四郎や玉三郎だって、同じ時期の初代白鸚や歌右衛門の舞台と比べてしまえばやはりそうだったのです。しかし、 あれから30年ほど経ってこうして幸四郎や玉三郎が若手の上置きとして舞台に立つまでになった。一方、若手の舞台には重厚さに代わる初々しさとひたむきさがあるもので、これはまた何にも替え難い若さの魅力です。今回の若手中心の「忠臣蔵」通しもそういう新鮮なものを期待したいし、またその期待によく応えた舞台になったと思います。
さて今回の上演で吉之助の興味は、まずは海老蔵の師直でした。これはもともと三津五郎が演じる予定だったもので・それが三津五郎の病気休演で海老蔵に廻ったものです。どうも海老蔵と師直はスンナリ結びつかない感じなので、吉之助も一体どんな師直に仕上がるか・怖いもの見たさというところもあって歌舞伎座に出掛けました。結果は良い方に出て、海老蔵初役の師直をとても面白く見ました。師直というと・これは判官をいじめる役だから意地悪く作ろうという意図が見え見えの役者が多いですが、海老蔵の師直は嫌味がなく・品位さえ感じさせる師直で、無理に力まずに自然に役の大きさが出ています。如何にも高家筆頭の師直という感じがします。
こういうことは演じてみなければ分からないものだなあと改めて感じましたが、海老蔵は仁なのですねえ。確かにまだ足りないところもあるには違いないけれども・これは若いのだから当然のことで、年齢を経れば師直は海老蔵の本役になるに違いありません。それほど海老蔵には師直がぴったり似合います。むしろ海老蔵の仁でありそうに見える勘平の方が、実際にやってみると仁に多少の齟齬があるようです。これは平成18年の金比羅歌舞伎の時にも同じことを感じましたが、今回の「落人」の海老蔵の勘平も憂いが強くて、過度に甘ったるい感じがします。これが勘平にしっくりと来ない。恐らくこれは仁の問題なのです。
海老蔵の師直で感心したのは、台詞で破綻を見せなかったことです。如何にも意地悪そうにここで声を太く低く作ろうとか・声を大きく張り上げようとか・誰でもそういうことを考えそうなところです。しかし、海老蔵には、声を割ったり怒鳴ったりするような無理なところがありませんでした。だから師直の品位が出るのです。実はこの点は吉之助が一番心配していたところでしたが、まったくの杞憂に終わりました。6月歌舞伎座での「助六」での海老蔵 の助六は台詞が破綻していて、吉之助は『このまま自己流で大声出そうとしていると、そのうち喉を壊しますよ。そのために早急に良いボイストレーナーに付くことをお薦めし ます』と書いたのですが、聞くところではその後、海老蔵はボイストレーナーに付いてトレーニングを始めたそうです。師直では、どうやらトレーニングの効果が早々出ているようです。吉之助が思うには、海老蔵の師直はまだ完全には喉が開いてはいない。もう少し声量が欲しいところです。そのためにもう少しトーンを高くしても良い(この仁ならば師直はそれで十分行ける)と思いますが、この調子でトレーニングを続けてもらいたいと思います。
菊之助の判官はこれくらい出来て当然という感じがしますし、実際素直な感触で・やるべきことはしっかり出来ていて、悪くないものです。ただし、まだまだ怒りが生(なま)な感じがします。史劇っぽいところが若干ある判官で、歌舞伎の判官としてはまだ道程があります。これは歳を経て次第に判官は菊之助のものになって行くと期待します。これは経験に拠るところも大きいものです。
判官という役は意外と難しいようです。多くの役者が怒りが次第に増幅して刃傷に至るまでの必然を自分なりに構築しようとします。そのプロセスは決して間違いというわけではないですが、近代的感性がどうしてもそれを生(なま)に見せるということがあります。つまり、判官が師直に「鮒侍だ」と嘲られたことだけで刃傷に至ったということでは何だか怒りの必然性が乏しいように思えるので、「判官が怒るのも尤もだ」という段階を踏もうとうするのです。これは逆の立場において師直役者の側にも言えることで、如何にも意地悪そうな師直に仕立てようとするのです。
今回の海老蔵の師直の大きさと比べて菊之助の判官がちょっと小さい感じがするのは、そのせいです。つまり、海老蔵の師直が良い意味において「大まかに」虐めのプロセスを踏んでいるところを、菊之助の判官は細かに受けています。しかし、結局、判官は師直に「鮒侍だ」と嘲られたことだけを怒っているのです。このことだけで判官が十分怒る理由になるのです。(別稿「イライラした気分」をご参照ください。)判官は論理的に怒るのではなく、爆発的にキレるのです。判官が怒る理由がよく分からないから・その疑問が胸の奥にグッとつまったまま腑に落ちないのです。このことは元禄という時代の「イライラした気分」から来ます。七代目梅幸の判官は、そのような判官でしたね。
「四段目」で幸四郎の由良助が登場すると、舞台の雰囲気が一変します。これはそこまでの若手の芝居が良くなかったとか・芝居が小さかったとか・そういうことではありません。しかし、幸四郎の由良助が登場すると、さあこれからが歌舞伎だという感じになることは事実です。歌舞伎では役者の大きさということが如何に大事かということを、改めて痛感します。由良助と云えば初代白鸚を思い出します。役者の大きさがどこから出るかと云うと、ひと言で云えば「肚の大きさ」ということになりますが、由良助の「肚の大きさ」ということは由良助の意思が御主人大事・仇討ちひと筋で決まっているということではありません。由良助の「肚の大きさ」と云うことは、仲間たちに「何事も由良助どのの御所存に御同心仕る」と言わせるだけの人物の大きさが備わっているということです。初代白鸚の由良助がそうであったし、幸四郎の由良助もまたそうです。あれから30年ほど経って、幸四郎も歳月を経ただけのものを十分に見せてくれました。
*同じ12月歌舞伎座での玉三郎のお軽については、別稿「玉三郎さんのこと」をご覧下さい。
(H25・12・15)