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令和歌舞伎座の「千本桜」通し・第1部

令和7年10月歌舞伎座:「義経千本桜」〜鳥居前・渡海屋・大物浦

五代目市川団子(佐藤忠信実は源九郎狐)、二代目坂東巳之助(源義経)、四代目中村橋之助(弁慶)、二代目市川笑也(静御前) (以上Aプロ・鳥居前)

初代中村隼人(渡海屋銀平実は平知盛)、初代片岡孝太郎(お柳実は典侍の局)、二代目坂東巳之助(源義経)、四代目中村橋之助(弁慶)、四代目尾上松緑(入江丹蔵)、三代目坂東亀蔵(相模五郎) (以上Aプロ・渡海屋〜大物浦)

二代目尾上右近(佐藤忠信実は源九郎狐)、四代目代目中村歌昇(源義経)、四代目中村橋之助(弁慶)、三代目尾上左近(静御前) (以上Bプロ・鳥居前)

二代目坂東巳之助(渡海屋銀平実は平知盛)、初代片岡孝太郎(お柳実は典侍の局)、四代目中村歌昇(源義経)、四代目中村橋之助(弁慶)、三代目坂東亀蔵(入江丹蔵)、四代目尾上松緑(相模五郎) (以上Bプロ・渡海屋〜大物浦)

*この原稿は未完です。最新の章はこちら


1)通し上演の意味

本稿は令和7年10月歌舞伎座での、「義経千本桜」通しの観劇随想です。通し狂言ではありますが、今回の三部制、第1部が鳥居前・渡海屋・大物浦(丸本の二段目)、第2部が木の実・小金吾討死・鮓屋(丸本の三段目)、第3部が吉野山・川連法眼館(丸本の四段目)という場割りは、至極真っ当ではあるが、丸本の各段の独立性が高いせいか、見取り狂言を筋の順番に並べただけの印象が強くなってしまいました。(ちなみに令和4年10月国立劇場で菊之助(現八代目菊五郎)が三役を演じた「千本桜」通しも、これと同じ場割りでありました。)「千本桜」を通し狂言に仕立てるならば、冒頭に大内の場と堀川御所をダイジェストであっても付けた方が良いだろうとか、結末として川連法眼館の奥庭はやっぱり欠かせないねとか色々考えますが、現実を見れば、今回上演でも午前11時に始まって終演は午後9時半近くになってしまう、つまり現在では「千本桜」を一日で通すことは事実上不可能なのです。これからは通し上演を満足な形でやるには2日掛かりでやるしかないと思いますけど、そういうことをやろうという試みが今後出て来ますかねえ。

吉之助は昭和55年・1980・7月歌舞伎座での・三代目猿之助(二代目猿翁)の三役による「義経千本桜」全段通し上演は見ましたけれど、午前11時に堀川御所から始まって・吉野花矢倉の大立ち回りの後に蔵王堂の場で締めて・終演は午後9時半を大きく過ぎたと記憶します。これだけ盛り沢山の分量を1日でやったとなると、多分脚本は細かいところで・あちらをカットこちらをカットであったには違いないけれど、昔のことゆえ細かいことまでは覚えていません。それでも通し狂言を見取り狂言の羅列ではないものにしたいと云う意欲が当時の猿之助には確かにあった。このことは認めて良いと思いますね。

普段見取り狂言としてお馴染みの演目を通し狂言で見る、見取りで見ていたのと違って筋が通るなんて単純なことだけではなくて、その時これまでと違った様相が舞台上に見えて来るかも知れません。それが見えるのならば通し上演は成功だと云うことだと思います。まあそこで、「今回は見取り狂言を筋の順番に並べただけ」と書いたけど・そんな新たな様相が見えるわけがないと書いたつもりは全然ないので、今回の3部制の通しの形式であっても・新たに見えるものはないか、そこのところは演じる者も観る者も考えておかねばならぬことですね。(この稿つづく)

(R7・11・2)


2)「千本桜」の主題

元暦2年/寿永4年(1185)3月24日源義経は平家一門を西海にて討ち滅ぼしました。ところが提出された首を検分したところ、知盛・維盛・教経の三人が偽首であると判明しました。つまり三人はどこかで生きているらしい。このことを隠蔽した義経に、鎌倉の兄頼朝に対し謀反の疑いが掛かります。これが「千本桜」大序で観客に投げ掛けられた三つの謎です。(今回の通しでは大序がカットされましたから、直截的にはこのことは描かれません。)これは当時の庶民が歴史物語として慣れ親しんだ「平家物語」が述べる事実とまったく反するものです。浄瑠璃作者はずいぶん大胆な虚構を設定したものですねえ。「歴史にIF(もし)はない」と云いますが、ここで提出された謎はまさしくそうしたもので、もし知盛・維盛・教経の三人が生きていたとしたら、彼らは一体どうしただろう?というのが、「千本桜」のドラマなのです。このように「千本桜」は、第1部(丸本の二段目)で知盛、第2部(丸本の三段目)で維盛、第3部(丸本の四段目)で教経と、それぞれ三人の消息を一つ一つ順番に追って・彼らが再び「平家物語」の世界へそれぞれ戻っていく過程を描いたものです。(更にこれに縦糸として初音の鼓にまつわる狐忠信の筋が絡んで来ますが、本稿ではこの件はちょっと置くことにします。)

「平家物語」の世界へ戻ると云うことは、「最終的にドラマは歴史の律のなかに取り込まれて、すべては無かったことになる」ことを意味します。従って浄瑠璃作者は「平家物語」が持つ無常の世界観に異議を申し立てたのではなく、それは「平家物語」の主題である「無常感」をさらに論理的に強化するものであったと云えるでしょう。だから大物浦を見る時も、鮓屋を見る時も、川連館を見る時も、大事な主題は「無常感」だと云うことになります。

ところで脱線するようですが・「千本桜」の問題に絡んで行くので・そのつもりでお読みいただきたいですが、柳田国男がこんなことを書いていますね。

『昭和五年(1930)の四月のたしか二十六日、東筑摩(現在の長野県の松本市近辺)の和田村を通ってみると、広い耕地のところどころに、古木の枝垂桜があって美しく咲き乱れている。近年野を開いたろうと思う畠の地堺などで、庭園の跡とも見えず、妙な処に桜があるというと、同行の矢ケ崎君は曰く、以前はもっと古いのがまだ方々にあった。そうして墓地であったかと思う処が多いということである。私にはこれはまったく始めての経験であった。(柳田国男:「信州随筆」〜「しだれ桜の問題」)

当初柳田は「桜は庭園などに植わっているもの」と漠然と思いこんでいたようです。ところが、このことをきっかけに柳田が各地を調べてみると、しだれ桜の大木は信州に限らず、少なくとも京都の東には諸処方々に老木のしだれがあり、その在り処も神社仏閣、その他霊地と言って良いような場所が多いそうです。

『私たちの問題にしなければならぬのは、何故に斯ういふ枝の垂れた糸桜が、もとは限られたる一地域の産であり、後には弘く国中にもてはやされるに至つたか。単なる珍奇をめでる心より以外に、何かその背後に之を重く見なければならぬ、古来の感覚が有つたのではないかといふことである。私の一つの仮定は、神霊が樹に依ること、大空を行くものが地上に降り来らんとするには、特に枝の垂れたる樹を択むであらうと想像するのが、もとは普通であつたかといふことである。即ち幽霊を垂柳の蔭に思ひ合せるのと、同じ心持が桜や栗の木の場合にも働いて居たのではないか。少なくとも今はさう思つてこの問題を注意して居る。』(柳田国男:「信濃桜の話」)

柳田は書いています。ここで柳田が霊場またはお墓に関連するとしているのは「しだれ桜」のことであって、柳田は一般的な桜にまで拡大して論じたわけではありませんけれど、日本人の心のなかに、広義に桜=お墓の連想があるのかも知れぬと思います。

吉之助が連想するのは、「義経千本桜」と云う外題の千本桜のことです。千本桜とは、義経がまさに当事者としてその中心に在った源平合戦に関係して命を落とした数え切れないほど多くの人々(武士だけでなく・その周辺の人々も含む)の墓碑銘のことを指していると思うのです。したがって「千本桜」の各場での主人公は知盛であったり・いがみの権太であったり・狐忠信であったりするわけですが、通し狂言としてみると浮かび上がってくるのは、やはり義経と云うことになるわけです。それは「平家物語」のなかで無常感を体現する人物が義経であるからなのですね。(この稿つづく)

(R7・11・3)


 


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