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初代虎之介・初役の福岡貢

令和7年3月京都南座:「伊勢音頭恋寝刃〜油屋」

初代中村虎之介(福岡貢)、初代中村壱太郎(仲居万野)、五代目中村米吉(油屋お紺)、二代目市川猿弥(油屋お鹿)、三代目中村福之助(料理人喜助)、初代上村吉太朗(今田万次郎)他

(監修:十五代目片岡仁左衛門)


1)虎之介の福岡貢

本稿は令和7年3月京都南座・花形歌舞伎の、虎之介・初役の福岡貢による「伊勢音頭・油屋」の観劇随想です。虎之介の貢がなかなか新鮮です。若手が役に懸命に取り組む姿はいつだって清々しいものです。虎之介の貢の良い点は、周囲にいびられても耐えに耐えるが、次第に感情が激して・遂に爆発してしまうプロセスをリアルかつ明快に描いたところかと思います。

次々に起こる思いがけない事態を貢は「耐えに耐える」わけですが、これはまだ怒っていないと云うことではなくて、内心の苛立ちを表面に出さないようにしているのです。逆に云えば、貢は結構短気な男だと云うことです。或ることで貢は急にムカッとしますが、「イヤイヤこんなことで怒るわけにはいかぬ」と苛立ちを収めて・その場を笑ってやり過ごそうとします。ところがまたムカッとすることが起こる。それでも貢はこれをやり過ごします。ところがまたまたムカッとすることが起こる・・・と云うことで、貢の苛立ちは波の如く高まったり・収まったりを繰り返すのです。こうしている内に苛立ちの度合いが次第に高まってきて、こうなると貢はもう感情を抑えられません。

ですからお鹿への偽文の件で「万呼べ、万呼べ、万野呼べ」と貢が熱くなって叫ぶ場面も、役者によってはここでもうプッツン切れたように見えかねませんが、まだ貢はここで切れたわけではないのです。プロセスは直線的に進むのではなく、ユラユラと進む。ここは最初の大波に過ぎず、もっとドデカい大波がまだ後にいくつも来るのです。最後に妖刀・青江下坂を振り回すに至るまでのプロセスを虎之介は明快に描きました。「万呼べ・・」と云う叫びに、ハッとする生(なま)な熱さがありましたね。プロセスの線が明快に見えることは決して悪いことではないのですが、これから役を演じ込んでいくなかで線をボカす技術も身に付いて来ると思います。まずは初役として十分な成果を挙げたと思います。仁左衛門さんがしっかり基本の指導をしてくれたなと感じました。

「波の如く高まったり・収まったりを繰り返す感情の揺れ」とは、吉之助が上方和事の本質を論じる時によく言う、「私が今していることは、本当に私がしたいことではない。本当の私は別のところにあって、今の私は本当の私ではない」と云う感覚に通じます。同時にどこか上方らしさの感覚にも通じます。五代目菊五郎にしても・十五代目羽左衛門にしても、歴代の貢役者と云われた名優たちは、みな辛抱立役としての貢の実(じつ)をしっかり押さえていたのです。(詳しくは別稿「ピントコナ再考」を参照のこと。)これをきっかけに虎之介も紙屋治兵衛など上方和事の役どころに挑戦して欲しいものです。

虎之介の貢に一つだけ注文を付けるならば、台詞をもう少し低調子に置いてみてはどうでしょうかね。仁左衛門の声質が高調子であるし、虎之介も高調子であるから・そこはよく分かるのだけれど、仁左衛門の高調子は仁左衛門だけのもの。若手がそこを表層的になぞると、印象はどうしても優美な方へ流れてしまいます。やはり世話の台詞の基本は低調子であると心得て欲しいと思います。台詞の調子を低めに抑えることで、貢の実をもっと前面に押し出すことが出来ます。その方が虎之介のニンに合うと思います。(この稿つづく)

(R7・3・8)


2)アンサンブルの成果

今回(令和7年3月京都南座)の「伊勢音頭」は配役バランスがなかなか良くて、みんなが同じ方向性を以てしっかり芝居をしている印象で・ダレたところがありません。これは監修の仁左衛門さんの指導の賜物だと思いますね。「伊勢音頭」は戯曲としては上質に出来ているわけではなく・役者の味で見せるところが多い芝居だけに、歌舞伎座辺りでベテラン勢がやる時でも、演技の方向性が異なれば・ギクシャクする場面が少なくありません。ましてや上方芝居の経験が乏しい若手がいきなり「伊勢音頭」に取り組むのは難儀でないかとちょっと危惧していましたが、実際舞台を見てみると、纏まりが良い舞台であったので大いに安堵しました。虎之介の貢も良かったけれども、周囲の役者も負けず劣らず良かったと思います。

まず壱太郎は初役だそうですが、さすが芝居が巧い人だけに面白い万野に仕上がりました。近頃は貢への悪意を露わに見せる万野役者が多いなか、壱太郎の万野はそこのところを控え目にして、貢に対し真綿で包んだ針を刺すように・ねっとりチクチク意地悪を仕掛けにいくところに上方らしい感覚を見せました。そもそも万野はなぜそれほどまでに貢を苛めるのか・脚本を読んでもそこの動機がはっきりせぬところがありますけれど、もしかしたら万野は貢に気があるのかも知れぬ、それだから裏返しの心理で貢を苛めたくなるのかなどと、そんなことを考えてしまうのが、真女形の万野らしいところです。チラッと歌右衛門の万野のことなども思い出しました。

米吉・これも初役のお紺は、縁切り物の女形の性根をきっちり見せました。我慢に我慢を重ねるので・なかなか気骨が折れる役ですが、万野やらお鹿やらいろんな方向から苛められて参っている貢に最後の大打撃を与えるのがお紺の縁切りです。お紺も北六から折紙を手に入れるために死を覚悟して貢に対して嘘の縁切りをするのです。そのためには縁切りされる貢の方にも実(じつ)がなければならぬわけですが、虎之介の貢とも息が合って、縁切り物の骨格がしっかり見えました。

猿弥のお鹿は二回目であるそうですが、これもなかなか興味深いお鹿でした。おかしな化粧で観客を笑わせようとするお鹿役者は多いですが、猿弥のお鹿にはそう云うところがありません。内面の可愛さ・人の好さがごく自然に表われて、しかしやることのピントがちょっと外れていて・そこにおかしみがあるというところを巧みに見せて、吉之助もいろいろなお鹿を見ましたが、これは出色のお鹿だなと思いました。折口信夫が「作者はお鹿にどうしてあんな良い性格を見出したのだろう。貢が万野となれ合うて・お鹿をだましたのが本当だろうと云う気さえしてくる」(「辻の立ち咄」・大正13年7月)と書いていますが、猿弥のお鹿がまさにそれですね。

 福之助・これも初役の喜助もキリッとして良い出来でした。と云うわけで今回の「伊勢音頭」」は、周囲の役者が一致協力して主役の虎之介を盛り立てたアンサンブルの成果が出ました。初役揃いでこれだけ出来たのは褒められて良いと思いますね。

(R7・3・10)


 


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