十五代目仁左衛門の大石内蔵助
令和6年12月京都南座:「元禄忠臣蔵」〜「仙石屋敷」
十五代目片岡仁左衛門(大石内蔵助)、四代目中村梅玉(仙石伯耆守)、四代目中村鴈治郎(吉田忠左衛門)、九代目市川中車(堀部安兵衛)、初代中村隼人(磯貝十郎左衛門)、初代中村鷹之資(大石主税)他
1)内蔵助の真意
本稿は令和6年12月京都南座・顔見世興行での仁左衛門の大石内蔵助・梅玉の仙石伯耆守の共演による「元禄忠臣蔵・仙石屋敷」の舞台映像による観劇随想です。
「仙石屋敷」は上演が少ない部類に入ると思いますが、恐らくそれは「元禄忠臣蔵」の流れ(江戸城松の廊下の刃傷から、内蔵助の討ち入りの決行、そして切腹に至る)のなかで、「仙石屋敷」が明確な位置付けを未だ得られておらぬせいではなかろうかと思われます。「大石最後の一日」を除けば、観客の関心はどうしても「内蔵助は如何にして討ち入りに漕ぎ着けるか」・その苦心惨憺のなかにドラマを見ようと云うことになり勝ちです。そこへ行くと「仙石屋敷」は肝心のドラマ(討ち入り)がもう終わっちゃった後の話になるので、見る前からマアたかが知れてるわと云う感じになりやすいのです。
しかし、「仙石屋敷」はもしかしたら「元禄忠臣蔵」のドラマのなかでとても大事な位置を占める作品かも知れないと云うこともちょっと考えてみる必要があると思いますね。吉良邸討ち入りを決行するまで、内蔵助は本心を腹のなかに抑え込み・これをほとんど吐露しません。しかし、この「仙石屋敷」では幕府に対し内蔵助が初めて自らの行動を理論化して語ると云うことであるからです。確かに討ち入りは終りましたが、内蔵助にとっては、これは「新たな戦いの始まり」ではなかったでしょうか。それは吉良邸討ち入りを「忠義ある武士の行為」であったと公に認めさせるか、江戸城下を騒がせた不逞の輩(やから)であると打ち捨てられるかと云うことです。このことはもはや幕府の判断に委ねられ・内蔵助に出来ることは限られていますが、世評が我らの行動をどのように受け取るかは幕府の判断を大いに左右するところである、そのために内蔵助は慎重にも慎重を重ねて討ち入りへのプランを練ってきたはずです。今そのことが問われる時が来たと云うことです。
伯耆守に「徒党を組み、市中を騒がし・・」と言われると、内蔵助は「われわれ四十七人は、みな銘々の存じよりに依って集まりましただけのこと。誰一人誘いたるものもなく、自然に寄り集まりて同勢をなしたるのみ」と返します。「お上の御大法を重んじ、内匠頭切腹の御裁きもありがたくお受けいたし、五万三千石の所領も差し上げ、その日のうちに事おとなしう引き払いましたのは、みな御大法にしたごうたのでございます」と内蔵助が語る時、「最後の大評定」で描かれた通り・城明け渡しに際しては家中の人々に様々な思いが交錯し・現場は混乱の極みであったわけですが、これを「みな御大法に従って」何事も起きなかったかの如くに語ったところに、内蔵助の密かな作戦があったのかもしれません。そのような素振りをおくびにも出しはしませんが、これは内蔵助が練りに練った理屈であったと思います。
内蔵助の言を聞いた伯耆守が「それなれば(幕府の御裁きに何も不満がないのであれば)吉良家に討ち入る道理がないではないか」と思わず口走ったところで、内蔵助はズバリ核心へ踏み込みます。
内蔵助:『その御不審が、主(しゅう)を持つ身の我々には、少しくお恨みに存じまする。(中略)我々四十七人が、こたび御城下を騒がしましたは、ただ内匠頭最後の一念、最後の鬱憤を晴らさんがためにござりまする。(中略)あともござりませぬ。先もござりませぬ。われらはただ、故主人最後の一念を、継ぎたるのみにござりまする。その他の御批判、一同迷惑に存じます。」
これに対し伯耆守は「条々、明白なる申し開き、われらも一同感に堪えた。その通りを書きしたため、御前体にも計らうことにいたすぞ」と言いますが、この対話はこれから幕府内で行われる議論の最も微妙なところに触れているのです。それは1)内匠頭切腹・城明け渡しの御裁きに一切の不平不満は無く、すべては御大法に従って行われたこと、2)四十七人は故主人最後の無念を思い、その鬱憤を晴らさんがため、純粋な気持ちで集まった者である。つまり今回の討ち入りに一切の私意はなく、これは純粋に忠義の行為なのだと主張するのです。これらのことを認めるならば、「忠孝忠義を道徳の根幹に置くこの国が、われら四十七人を不逞の輩であると断罪することは決して出来ぬはずだ」と云うことになるのです。もちろん内蔵助は劇中でそんなことを一言たりとも言ってはいませんが、言外に言うことは、幕府に対し「我々の忠義の行為を否定出来るか・否定出来まい・やれるものならやってみろ」と云うことではないでしょうかね。事実幕府内での内蔵助以下四十七人の処遇の議論は紛糾することになります。
思えば「最後の大評定」最後の場面で旧友・井関徳兵衛の命を賭しての問いに内蔵助は、
「(決然として)内蔵助は、天下の御政道に反抗する気だ。」(「最後の大評定」)
と答えました。この「仙石屋敷」での伯耆守との対話がそのことだと吉之助には思えるのですがね。戦時中の真山青果が娘の美保さんに、
「いまは(時局への憚りがあって)書けないが、戦争が終わったら書いてやる。内蔵助の真意を書いてやる。楽しみにしてろ。」
とよく言っていたそうです。「仙石屋敷」には(当時の青果が書きたくて書けなかった)内蔵助の真意を考えるヒントがありそうです。(この稿つづく)
(R6・12・30)
内蔵助が「われらはただ故主人最後の一念を継ぎたるのみ。その他の御批判、一同迷惑」と言い切ったところに、内蔵助の「反骨心」がチラリと見えるようです。ただし内蔵助はこれを前面に押し出して幕府を窮地に追い込むことまではしません。また尋問する伯耆守は、内蔵助たちの義心に感じ入って始終同情しながら話を聞きますから、そこまで見えたかどうか分かりません。ただし伯耆守が「明白なる申し開き、われらも一同感に堪えた」と言って早々に尋問を打ち切るところを見ると、伯耆守は内蔵助にちょっと気を呑まれた気配がしますね。このため「仙石屋敷」に於いては内蔵助の「反骨心」のことはウヤムヤに終わってしまい、芝居のなかの重要な主題に成り得ないのです。しかし、このことはしっかり心に留め置かねばならぬことです。
内蔵助のレトリックは、実に巧妙です。まず最初に「喧嘩両成敗は、鎌倉執権職時代よりも武士の大法」と言い始めて、ここで聞く者をオオッと驚かせます。さらに「主人内匠頭に切腹を申し渡さるるほどならば、吉良上野介どのにも相当の御罰あるべきはず」と続けて、ソラ来たゾと思わせます。いよいよ内蔵助の幕府批判が始まるのか?・・・ところが、ここから内蔵助は論点を大きく反らして、
『・・吉良上野介どのにも相当の御罰あるべきはずと、家中相集まり将軍家へ強訴いたしましたるなれば・・・これは、御大法を憚らず、御裁断にもどく無法者と、お叱りがございましょうが、内匠頭家来のうち一人たりとも、その日内匠頭切腹について、不平不満を訴え出た者はござりませぬ。』
と言うのです。「最後の大評定」を見れば「その日内匠頭切腹について不平不満を訴え出た者はいなかった」など事実とは異なるのですが、表向きそう云うことにして置くのです。そして内蔵助は、
『我々四十七人が、こたび御城下を騒がしましたは、ただ内匠頭最後の一念、最後の鬱憤を晴らさんがためにござりまする。(中略)あともござりませぬ。先もござりませぬ。われらはただ、故主人最後の一念を、継ぎたるのみにござりまする。その他の御批判、一同迷惑に存じます。』
と言い切ります。主人切腹・お家御取り潰しに何の不平もなけれど、上野介を討ち漏らした主人の無念を思えば、我々家来は悔しくてなりません、この度討ち入りするに至った我々の・主人を思う気持ちを推量して下され・・・と云うのです。
裏返して読むならば、「主人切腹・お家御取り潰し」という幕府の裁断に対し内蔵助が内心どれほど悔しくてならなかったか、ここで明らかではないでしょうか。前述の通り、「仙石屋敷」に於いては内蔵助の「反骨心」はウヤムヤに終わり、芝居のなかの主題に成り得ません。内蔵助はわれらはあくまで御大法に従ったとして、これ以上言及することをしません。しかし、ここで内蔵助は黙って静かに、幕府の喉元に短刀を突き付けて見せたのです。「サアどうする?我々の忠義の行為を否定出来るか・否定出来まい・やれるものならやってみろ」と云うことです。このことこそ内蔵助と云う人物の真に凄いところです。
青果が「この戦争が終わったら、内蔵助の真意を書いてやる」と言ったのは、このことであったかもしれぬと吉之助は思います。しかし、とりあえず「仙石屋敷」の主題にはあまり関係がないことなのですがね。(この稿つづく)
(R6・12・31)
これは「元禄忠臣蔵」各篇それぞれに付きまとう課題ですが、「仙石屋敷」にも二通りの行き方が考えられます。まず一つ目は、「元禄忠臣蔵」10篇をひとつの流れで捉え直し・その上に「仙石屋敷」の内蔵助をどのように位置付けるかと云うことです。二つ目は、「仙石屋敷」を単独読み切りの芝居と割り切って、そこで或る意味完結した内蔵助像を造れればまずはそれで良いと云う行き方です。どちらの行き方もあり得ることですが、現状しっかりした「元禄忠臣蔵」の読み方が未だ確立されていませんから、後者の行き方にならざるを得ないことは、吉之助も理解はしています。
「仙石屋敷」での仁左衛門の内蔵助は、同じ梅玉の伯耆守との組み合わせで9年前(平成27年・2015・12月)歌舞伎座での舞台を見ました。この時の舞台は内蔵助と伯耆守との対話が、「勧進帳」での弁慶と富樫の山伏問答のように・ひとつの設計された流れのうえに乗って来ない・もどかしさが若干ありました。対話の流れがところどころ停滞する、そこは仁左衛門・梅玉のような芝居巧者であっても未だ手探りだなという印象がしたものでした。言うまでもなく仁左衛門は徳川綱豊(御浜御殿)については当たり役としていますが、内蔵助に関しては「最後の大評定」も「大石最後の一日」も勤めておらず、目下のところ「仙石屋敷」のみですね。その辺も背景として絡んで来ることかと思われます。
しかし、今回(令和6年12月京都南座)の「仙石屋敷」再演に吉之助が受けた印象は、これは梅玉の伯耆守についても同様ですが、仁左衛門の内蔵助は単独読み切りの芝居として「仙石屋敷」をしっかり仕立てて来たなアと云うことでありました。スタイルとしては前回と同じく、情に傾斜した・泣きの強い内蔵助ではあったと思います。しかし、感情の揺れを一つのスタイルとして、説得力あるものにまで高めていたと思います。そこが9年前と大きな違いであったと思います。例えば内蔵助が「主持つ者のこころは左様に理屈攻めのものではござりませぬ」と言い切った後に、主人内匠頭の刃傷について触れ、
『一時の怒りに家をも身をも忘れ果てはてたる未熟者と、あるいは世間の御批判もござりましょうが、我々の身より見ましたる内匠頭は、それほどの、うつけ者ではござりまする。家を捨て、身を捨て、総家中の難儀にも代えがたき無念あればこそ、遂に場所がらをも憚らず、吉良どのに斬りつけましたることと存じます。重ねて申します。家を忘れ身を忘れ、短慮のための刃傷ではござりませぬ。家を捨て身を捨て、家中を捨てても斬り伏せたい一念であったと心得ます。然るに・・・途中さえぎる人あり、遂にその存念を達しかねたる段な、内匠頭本人はもとよりの事、われら家来たる者の、耐え得ぬところにござりまする。』
と語ります。ここでの内蔵助は主人の刃傷の是非論を吹っ飛ばして感情論へと転化してしまい、さらにこれに家来の気持ちまでも同化させてしまいます。そこに聴く者の感情に訴えかけて、聞く者の感情をウルウルさせて自らの土俵に引き込んでしまう内蔵助の巧妙なレトリックがあるわけですが、これを成功させる為には、まず内蔵助自身がそのように「思い込んで」いなければなりません。そこにウソがあってはなりません。コイツは演技していると相手に感じさせてしまったら失敗です。
そこのところ仁左衛門の内蔵助の語りは実に説得力があります。これを聞く者に「最後の大評定」の場面での一家中の気持ちはナルホド「故主人最後の一念を晴らしたい」感情に極まったであろう、一同サゾ悔しかったであろうナと聞き手の胸を熱くする台詞回しなのです。この辺りに同じく仁左衛門が演じる「勧進帳」の弁慶や「陣屋」の熊谷直実などに共通した・情に於いてドラマを読もうと心掛ける姿勢がよく表れていたと思います。単独読み切りの「仙石屋敷」として不足のない内蔵助であったと思いますね。
これを受ける梅玉の伯耆守も素晴らしいですね。伯耆守は内蔵助ら四十七士の行為に武士として深い感銘を受けているわけですが、これを前面に出してしまえば・大目付としての職務にもとるわけです。したがって尋問に際し意識して客観性を保つ(それでも内心は隠せないわけだが)ところが大事なのであり、結果として大石らの答弁が散漫にならないように・しっかり箍(たが)をはめているのが伯耆守なのです。
尚これは余談ではありますが、(単独読み切りの形ではなく)「元禄忠臣蔵」の流れの上に「仙石屋敷」をどう位置付けるかと考えるならば、例えば「(われわれを)徒党とお認めなさる段は、手前ども少しく不足に存じまする」とか、「その批判は、天下御役人さまの思し召し違いかと存じます」や、「主持つ者のこころは、左様に理屈攻めのものではござりませぬ」、「その他の御批判、一同迷惑に存じます」などの内蔵助の台詞の数々は、今回の仁左衛門はこれらを波風が立たぬようにサラリと流していたようだけれども(それはそれとしてひとつの見識ではあるが)、本来これらの台詞は、熱く鋭く発せられねばならぬものではないでしょうかね。伯耆守ら幕府の面々が思わずいきり立つか、或いはどのように対したものかオロオロしてしまいかねないほど、内蔵助が大胆不敵な態度を見せるところかと思います。そんな風に幕府への反骨心をギラりと見せる・別のタイプの内蔵助も見てみたいものだと思いますが、如何ですかね。
(R7・1・3)