五代目勘九郎のお光・十七代目勘三郎の久作
昭和54年1月国立劇場:「新版歌祭文」(座摩社前〜野崎村)
五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(久作娘お光)、十七代目中村勘三郎(百姓久作)、二代目沢村藤十郎(油屋の丁稚久松)、五代目坂東玉三郎(油屋の娘お染)、五代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門)(油屋の後家お勝)、五代目沢村源之助(久作女房)、五代目中村富十郎(油屋の手代小助)他
(山口廣一監修)
1)座摩社前の場の意味
本稿で紹介するのは、昭和54年(1979)1月国立劇場で上演された「新版歌祭文」の舞台映像です。この公演の眼目は十七代目勘三郎の久作であるに違いありませんが、もうひとつ五代目勘九郎(後の十八代目勘三郎)が初役でお光を勤めたことも注目でした。「新版歌祭文」のお光は、「摂州合邦辻」の玉手御前と並んで・六代目菊五郎の丸本再検討の大事な役のひとつでしたから、お光を孫の勘九郎が演じることは興味のあることでした。また、この時代の勘九郎(この時には23歳でした)が主役級を勤めることはまだ珍しいことであったので、勘九郎のキャリアを振り返った時にもこの舞台は意義深いものであったと思います。ただし勘九郎がお光を勤めたのは、この舞台とあともう1回のみであったようです。と云うことで勘九郎がお光にご縁が深かったと云えませんが、勘九郎のそう多いと云えない女形のなかで・お光はニンとしてしっくり来る役であったと思うので、演じた回数が2回だけであったとはちょっと意外な感がしますね。その後三十代過ぎてからは他に演じたい役がたくさんあったので、お光まで手が回らなかったのかも知れません。
本公演のもうひとつの注目は、義太夫狂言ではうるさ型の評論家・山口廣一の監修により「野崎村」の最後でお光が尼になったことが皆に明らかになる場面に(いつもの上演ではカットされますが)病身の母親を登場させるなど、出来るだけ丸本に近づける配慮がなされたことです。(ただし完全な丸本準拠ではなく、前半に一部カットがあります。これについては後述。)またこの時には、いつもの「野崎村」の前に珍しい「大阪船場・座摩社前の場」が付きました。この場は東京では、大正元年(1912)12月帝国劇場で出て以来・67年ぶりのことだそうです。
油屋の丁稚久松は、手代小助の計略で蔵屋敷から受領した商い銀一貫五百匁を騙り取られて、大坂に居られなくなったのでした。座摩社前の場ではその経緯が描かれます。この場があると久松がどうして野崎村の養父久作の元に返されたか・その事情がよく分かるという利点はあるけれども、この場がなければ「野崎村」の筋が分からぬというほどでもなさそうです。座摩社前は人の出入りが多いガチャガチャした喜劇味の濃い場なので、まあ吉之助としては有っても・無くてもどちらでも良いという感じがしますが、これは後場の「野崎村」がいつもの上演形態であるならば、そう云うことになると思いますね。現行歌舞伎の「野崎村」では、〽あとに娘は気もいそいそ・・の詞章の、お光の出から芝居が始まって、それ以前の部分がカットされることが多い。座摩社前をいつもの「野崎村」に続けるならば、わざわざ座摩社前を出す意味はさほどないと思います。
ところが今回の丸本準拠の「野崎村」であると、前場に座摩社前が付くことの意味がつくづく分かるのです。いつもはカットされますが、「野崎村」前半に手代の小助が久松を連れて野崎の久作の家にやって来て騒ぐ場面が出てきます。(この時には久作は留守である。)小助は店から久松を追い出すことにまんまと成功したので増長して、罵詈雑言を言いたい放題です。戻ってきた久作に小助は叩き出されることになりますが、このいつもカットされる「野崎村」前半部分がまったく座摩社前のムードの延長線上にあって、ガチャガチャした喜劇味の濃い場なのです。だから逆に言えば、座摩社前を上演しないで・丸本準拠の「野崎村」を単独で出したとすると、小助が出る前半部分がとても煩いものになります。嫌な気分にさせられると言っても良いかも知れません。この感覚は、野崎村ののどかな農村風景にまったく相応しくないものです。しかし、そこから浄瑠璃作者・近松半二がイメージした・丸本本来の「野崎村」の姿が見えて来るのです。すると座摩社前が前場に付くことの意味が分かります。
別稿「野崎村のお光の位置付け」のなかで、「野崎村」の幕切れを見れば、観客は「作者はもうちょっとお光の気持ちに寄り添っても良いのではないか」とチラッと感じるだろうと書きました。ただしチラッとですけどね。その疑問はすぐに、三味線のリズミカルな調子と、両花道で・仮花道は駕籠で久松が・本花道は舟でお染が行く・その視覚な華やかさにかき消されてしまいます。「野崎村」の幕切れには、観客がお光の悲しみに浸ろうとするのを意図的に邪魔するかのようなガチャガチャした感覚があります。そして、いつもはカットされてしまう「野崎村」前半にも、幕切れと同じようなガチャガチャした感覚が用意されていたわけです。つまりシリアスなお光の失恋物語は、前と後ろからこのガチャガチャした場面に挟まれることになる。これがオリジナルの・丸本本来の「野崎村」の構成であったわけです。今回の「新版歌祭文」上演映像を見て、このことがつくづく分りました。(この稿つづく)
(R6・8・6)
「野崎村(新版歌祭文)」は安永9年(1780)9月大坂竹本座での初演ですが、吉之助の見るところではお光は、同じ近松半二による9年前の作品・「金殿(妹背山婦女庭訓)」(明和8年・1771・1月大阪竹本座初演)のお三輪と、ちょうど裏返しの関係のように思われますね。「金殿」では、田舎娘のお三輪はまったく親しみのない奇怪なワンダーワールドに紛れ込んでしまって、そこで犠牲となるのです。それはお三輪があずかり知らない、支配階級の政治闘争の、ガチャガチャした奇怪な論理に支配された世界です。お三輪が恋した男(求女)は実はやんごとない御方(藤原淡海公)でした。お三輪は自分の死が愛する人のお役に立つと聞いて、ただそれだけを信じて感謝して死んでいきます。
一方、こちらは世話狂言ですから様相が異なって見えますが、「野崎村」ではワンダーワールドは勝手に向こうの方から田舎の野崎村へと、ズカズカ土足で踏み込むようにやって来るのです。それはお光にまったく理解できない、大坂の商人世界の、私利私欲にまみれたドロドロした論理に支配された世界です。(このことを体現するのが手代の小助ですが、或いは油屋後家・つまりお染の母もそうであるかも知れません。)そんななかで大店のお嬢様であるお染と丁稚久松は身分を越えて穢れのない清い恋をしたのかも知れませんけれど、彼らの意志と関係なく、それはドロドロした欲得づくの人間関係に巻き込まれて、二人はどうにも身動きが取れなくなってしまいました。こうしてお染と久松は大阪から野崎村へ逃れるわけですが、これはつまり、のんびり平穏な田舎の世界に都会のドロドロした人間関係を持ち込んだことになるのです。このために犠牲になったのがお光なのです。お光は死にはしませんが、出家して尼になるのです。袈裟姿になったお光がこのように言います。
『コレもうし父様もお二人様も、なんにもいうて下さんすな。最前からなに事も残らず聞いてをりました。思ひ切つたといはしやんすは、義理に迫つた表向。底の心はお二人ながら死ぬる覚悟、ム、サ死ぬる覚悟でゐやしやんす、母様のアノ大病。どうぞ命が取りとめたさ。私やもうとんと思ひ切つた。ナ、サ切つて祝うた髪かたち、見て下さんせ』
お染久松が「別れる・思い切った」と云うのは私(お光)への義理に迫った表向きのことでしょ。本心は二人とも死ぬ覚悟、サ死になさる覚悟でいらっしゃるのでしょ。それにお母様のあの大病も何とか命を取り留めてもらいたいから、私はここはと思い切りましたと云うのです。お染久松の件に突然大病の母親のことが出てきて文章の脈路が乱れるみたいですが、ここでお光が言いたいことは、私はお母様の看病を続けて命を長らえてもらいたい、(私が思い切ることで)お染さま久松さまにも生き長らえてもらいたいと云うことなのです。しかし、言外にあるお光の気持ちは、お母様ももうそう長くはあるまい、お染さま久松さまもほどなく二人して死ぬことになろうと云うことです。そこに深い諦観がある。だからお光は出家して尼になると云うのです。
つまり「新版歌祭文」はお染久松の心中物語(もちろん観客は筋の行方を承知して芝居を見るのです)ですから、「野崎村」は上の巻の一場面に過ぎず・心中の結末はここではまだ見えてはおらぬのですが、ドラマは心中の結末をどこかで見据えながらそちらの方向へ少しづつ動いているのです。ここでガチャガチャした感覚(大坂商人の世界)がまるで通奏低音のように絶えず響いています。
だから、この場の登場人物のなかで、お光が一番先行きが見えていることになるでしょうね。そう遠くない将来にお光尼が、心中したお染久松の菩提を弔うことになる、お光はそういう未来を、しかと意識はしていないかも知れませんが、漠然としてであっても感じているのです。だからそれがまるで「必然」であるが如く、お光は尼になるのです。妹背山のお三輪が疑着の相があるということで選ばれて殺されることになるのと同じような「必然」がお光尼にもあったと言うことです。
これは歌舞伎でしばしばある誤解ですが、お嬢様であるお染との対比を付けるためにお光を蓮っ葉に描こうとする傾向があるようです。それはお光は田舎育ちですから・いわゆる都会的なセンスや振る舞いがないので・それが野暮ったく見えてしまうに過ぎないのです。お光は決して蓮っ葉な娘ではありません。お光の性根は清廉無垢、まさに聖女の如く清らかです。都会のドロドロした人間関係に触れて、その純粋さゆえに田舎育ちのお光は過剰反応してしまったとも考えられるでしょうかね。(この稿つづく)
(R6・8・7)
今回(昭和54年・1979・1月国立劇場)の「野崎村」では、お光が尼になったことが明らかとなる最後の場面(いつもの上演ではカットされます)で原作通りに病身の母親を登場させました。これは良いことです。何も知らぬ母親は娘の想いが叶ったと喜びますが、様子がおかしいことに気付き・見えぬ眼でお光の身体に触れてみて、「こりゃどうじゃ」と声を震わせます。
観客の涙を誘う場面であるのに・現行歌舞伎でこの場面をカットすることが通例なのはちょっと解せませんが、多分、歌舞伎ではお光が出家する原因が失恋にあるとする解釈ですから、ここで瀕死の母親を登場させるとお光の悲しみが焦点ボケしそうなので・これを嫌ったからかも知れませんね。しかし、前述した通り、お光が出家する原因は、失恋のことももちろんありますが、そう遠くない時期にお染久松の二人は死ぬことになるとお光が予感したことが大きいのです。お光がそう感じる端緒として、長く臥せって・死がそう遠くないであろう母親の存在が深く影響しています。日頃からお光は母親の死のことを思い悩むことが多かったはずです。浄瑠璃作者がここで母親を登場させた意図も、そのように考えれば理解出来るでしょう。
遡って、どの時点でお光が尼になると決意したかを考えます。久作はお染久松の二人を説教するのにお夏清十郎の道行本のことを持ち出します。
『アコヽこれ見や。先に買うたお夏清十郎の道行本。嫁入りの極つてある、主の娘をそそなかすとは、道知らずめ、人でなしめ、トサこりやコレ清十郎が話ぢや/\、話ぢやわいの。コレお染様ではない、この本のお夏とやら。清十郎を可愛がつて下さるは、嬉しいやうでエ、恨めしいわいの』
「お夏清十郎」とは、寛文元年(1661)頃に実際にあった話です。姫路の旅宿田島屋の手代清十郎が主家の娘お夏と密通して、大坂へ駆け落ちするが捕らえられ、清十郎は刑死・お夏は狂い死にしたと云う悲しい恋物語です。「お夏清十郎」は多くの文芸作品の題材となって世間に広まりました。当然お光もこの話を知っていたはずです。
久作がこの話を持ち出したのは、「お夏清十郎」にかこつけて、お染久松の二人を婉曲に説教しようとしたからでした。他意はなかったと思います。しかし、奥で久作の話を聞いていたお光には、このことがとても強く響いたのです。もしかしたら当のお染久松に対してよりも、ずっと強く響いたのです。お光には、「お夏清十郎」の結末と重なって・お染久松の二人が死ぬ未来がはっきりと見えたのです。直截的には、これがお光が出家を決意した引き金であったと考えられます。これは久作には予想外のことでした。
こうなる伏線を浄瑠璃作者はさりげなく用意しています。「野崎村」冒頭で久作家の傍を祭文語りが通り掛かって、「お夏清十郎」の節を語ります。吉之助にはここでのお光の反応がちょっと引っ掛かります。お光はこう言っています。
「通らしやれ、母様の煩ひで三味線も耳へは入らぬ。手の暇がない、通つて下され」
「オヽ聞きとむない。通りや/\」病床の母親に祭文語りが煩いからあっちへ行ってくれと云うことですが、どうやらそれだけではなさそうです。お光の口調に強い拒否反応を感じますね。多分お光は「お夏清十郎」の二人とも死んでしまう結末が気に入らないのです。お光は「死ぬ」なんてことを金輪際考えたくない。そんな話は聞きたくないのです。日頃の母親の看病でお光は「死」と云うことに過敏になっていたのでしょうね。(この稿つづく)
(R6・8・12)
4)「引き金は引かれなければならない」
今回(昭和54年・1979・1月国立劇場)の「野崎村」は端場を出して・大筋で丸本準拠ですが、実は大事なところが改変されています。今回上演では「野崎村」冒頭で久作家の傍を祭文語りが通り掛かる場面で・久作は既に外出して留守であり、祭文語りから「お夏清十郎」の浄瑠璃本を買うのがお光(勘九郎)の仕事になっています。お光は祭文語りを早く遠くへ行かせたいので本を買うのです。久作(勘三郎)の登場は小作が久松を連れて家にやってきて大騒ぎしている最中のことです。久作は大坂へ向かう途中で・知り合いから野崎へ向かう久松一行のことを聞いて・慌てて引き返してきたのです。
今回の筋立てであると、「お夏清十郎」の浄瑠璃本を買ったのがお光の仕事ですから、久作が家に浄瑠璃本があるのをどうして知ったのか?となってしまいますね。知らなければ、後半で久作が本を持ち出して「お夏清十郎」の説教をお染久松に出来るはずがない。だから浄瑠璃本を買ったのは久作本人でなければならないはずです。監修の山口廣一氏はもし他人が演出でこれをやったのならば、口を酸っぱくして劇評を書きそうなところだと思いますけどね。
丸本では久作は、祭文語りから浄瑠璃本を買い取った後、「ドレ歳暮の礼で久松が奉公する大坂の油屋へ挨拶へ行ってこようか」と出立するのです。小助が騒いでいる間は久作は留守で家にいません。わざわざカットするほどのことはない(大した時間セーヴにもならない)ことなのに・今回上演でこの改変をしたのは、久作の舞台での出入りを少なくして、最初の出(久松が帰ったと聞いて慌てて戻ってくる)を効果的に見せようと云う・ただそれだけの意図だったでしょう。しかし、「野崎村」のなかで「お夏清十郎」の浄瑠璃本が小道具としてどういう役割を持つかが分かっているならば、こういう無神経な改変はちょっと出来ませんね。チェーホフは「芝居のなかで小道具でピストルを出したら、引き金は引かれなければならない」と言いました。「野崎村」のなかでの浄瑠璃本が、まさにそのピストルに当たるものです。「新版歌祭文」というタイトルのことをよく考えて欲しいものです。「新版」とは寛文の昔の「お夏清十郎」の歌祭文に代わる・今様の歌祭文・・と云うことです。それがお染久松の心中物語です。上の巻での「野崎村」ではまだ先行きは明らかになっていませんけれど、その先行きは祭文語りの登場が示唆しているのです。
「通らしやれ、母様の煩ひで三味線も耳へは入らぬ。手の暇がない、通つて下され」
「オヽ聞きとむない。通りや/\」お光はここで「病床の母親に祭文語りが煩いからあっちへ行ってくれ」と言っているに過ぎませんが、実は大事なことが示唆されています。お光が尼になる先行きもここで見えているのです。「小道具でピストルを出したら、引き金は引かれなければならない」のです。(この稿つづく)
(R6・8・13)
今回(昭和54年・1979・1月国立劇場)のように端場を出して丸本準拠した「野崎村」であると、お染久松の心中物語とは大坂の商人社会の機構・道徳のなかで引き起こされた悲劇であるという印象が、いつもより強く出るようです。したがって「野崎村」の主人公をお光だと考えてしまうと、「浄瑠璃作者はもうちょっとお光の気持ちに寄り添っても良いのではないか」と観客が不満を感じることが避けられません。実際、世話物浄瑠璃「新版歌祭文」上下二巻の流れの上に「野崎村」を乗せてみると、作者にとっての本作は、やはりお染久松の心中物語なのでしょうねえ。お光の件はそこから偶発的に起きた悲劇に過ぎないのです。お光はお染久松の心中物語の語り部として生かされることになるのです。「野崎村」の華やかな幕切れは、お光の気持ちを考えれば・まったく場違いのガチャガチャの印象です。このような幕切れにせざるを得なかったところに、作者・近松半二の・お光に対する無限の慟哭が聞こえるようです。
しかしまあ、現代人のドラマの読み方からすると、作者に対する不満は尽きないと云うことではあります。だからこそ六代目菊五郎のように、「野崎村」の幕切れをちょっと変えてみようという試みも生まれるのです。
『お光は怜悧で思いやりも分別もあり、勝気な女でもあるから、お染と久松両人の心を察して恋を譲ったものの、口ではあきらめたといっているが、胸の中はどの位辛いか悲しいか想像するに余りありてえところでしょう。そこを考えたから幕切れにも、籠と船の行方をいつ迄もじっと見送り、その後影もめなくなると、今まで堪え堪えた恋しさが止めきれず、張りつめた気もゆるんで崩れるように、父親久作へ取り縋って泣き落としという型をやったのです。』(六代目尾上菊五郎:「演芸画報」・昭和5年3月)
六代目菊五郎の・そうしたい気持ちはよく分かります。分かるけれども、今回のように・端場を出してガチャガチャ感が強い「野崎村」であると、菊五郎型の幕切れが少々そぐわない感じがしますね。センチメンタルな印象が若干生(なま)に感じられる。見ている観客の気持ちが、お光の方へ素直に沈滞して行かない気がします。〽あとに娘は気もいそいそ・・・で始まる慣行上演であれば・お光の比重が高くなるのでまだしもですが。菊五郎型の幕切れに若干の据わりの悪さを感じてしまうのは、やはり「野崎村」のなかでのお光の位置付けが、近代戯曲的な意味での「主人公」ではないせいだろうと思えてならないのです。しかし、お光の清らかさは観客の気持ちのなかにずっと残りますね。
今回(昭和54年・1979・1月国立劇場)上演でのお光は、勘九郎が勤めます。この時の勘九郎は23歳。吉之助の記憶ではこの時期の勘九郎は何の役をやっても神妙な印象が強かった。教えられたことをきっちりその通りに勤めますという感じで神妙な印象がありましたが、若干色合いが暗めに映りました。そんなことなどを思いますが、このお光ではそのような勘九郎の色合いが暗めなところも含めて役がニンに似合っているようで、この時期の勘九郎のなかでも特筆すべき出来ではなかったでしょうかね。田舎娘の素朴なところはあっても、それが決して蓮っ葉な印象にならないところも良い点です。
対する玉三郎のお染は、お光とはまったく別世界の娘だと云うことを一目で感得させると云う意味に於いて、これも良い出来です。歌舞伎の口伝ではお染のような大店の娘は、時代物の大名の娘(例えば八重垣姫)と同じ裾捌きをして良いことになっています。大坂の商家にとって娘に期待する役割は商才のある良い婿を取ることで、なぜならばその方が店を存続発展させる確率が高くなるからでした。大坂の商家の娘に自由意志はありませんでした。そんなところも、玉三郎のお染は雰囲気だけで納得させました。
久松を陥れる油屋の手代小助を富十郎が勤めます。富十郎はとても上手い。上手いのだけれども何だか小助をやらせておくにはモッタイナイ気がしますね。いわゆる手代敵(てだいがたき)には軽さ・安っぽさみたいなものが欲しいところなのだけど、富十郎だとそれがちょっと重い印象になってしまうようです。悪いというのではないが、ある種の安っぽさのおかげで観客が気楽に笑えて救われるところがあるのだなと云うことに改めて気が付きます。
勘三郎の久作は、情があってとても良い出来です。久作は貧しい百姓だけれども、一生懸命に生きて、世間の分別もわきまえた老人です。久作はもちろん「野崎村」の主人公ではないのだけれど、これを久作の悲劇だと見なすならば・そうとも言えそうな台詞があります。それは、
久作も(お光に)手を合せ、「なんにもいはぬこの通りぢや、この通りぢや。女夫にしたいばつかりに、そこら辺りに心もつかず、蕾の花を散らして退けたは、みなおれが鈍なから、赦してくれ」
という台詞です。善かれと思ってしたことが・結果としては娘お光の気持ちを追い込むことになってしまった、その悲しみを勘三郎の久作はしっかり見せてくれたと思いますね。
(R6・8・16)