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溶解する二つの「愛の物語」

令和6年5月歌舞伎座:「鴛鴦襖恋睦

二代目尾上松也(河津三郎・雄鴛鴦の精)、二代目尾上右近(遊女喜瀬川・雌鴛鴦の精)、初代中村萬太郎(股野五郎)


1)古風な味わいが欲しい

本稿は、令和6年5月歌舞伎座での「鴛鴦襖恋睦」(おしのふすまこいのむつごと)の観劇随想です。本作はあまり上演頻度が高くなくて、今回は10年ぶりの上演になります。河津三郎と股野五郎の遊女喜瀬川を巡る恋争いに引き裂かれた鴛鴦の夫婦の狂おしい情念が絡む幻想劇(ファンタジー)です。「ファンタジー」にもいろいろな意味合いがあって、現実にはあり得ない絵空事というようにチープに受け取る見方も出来ますが、また一方で現実をデフォルメした形で・イメージを自由に飛翔させた表現形式であると見ることも出来ると思います。

今回は松也の河津・右近の喜瀬川・萬太郎の股野という若手花形の配役で、もちろん一生懸命やってはいます。若手ならではの華やかさもあります。けれど元気が良過ぎて、全体的に何だかセカセカした感触なのだよなあ。或いは三人共に初役ゆえ振りに余裕がないのかも知れませんが、この舞台からは華やかではあっても・絵空事のチープなイメージしか浮かんで来ない気がするのです。それが前半の長唄・後半の常磐津の音楽が醸し出す暗い情念とまるで無関係にドラマが推移していく印象です。シュワーッと炭酸の泡が立って消えていく感覚ですかねえ。彼ら若手には「鴛鴦」という舞踊がこんな感じに見えているのであろうか。今回どなたがご指導をされたのか知りませんけれど、ちょっと一言申し上げたい気分になりました。

吉之助は歌舞伎役者のことを江戸の古(いにしえ)の感触を現代に蘇らせてくれる人たちであると思うております。または舞台にそのような瞬間を期待しております。「鴛鴦」は、確かに前半後半の人物関係が錯綜しており、訳が分からないところがあります。それゆえ難しい理屈は抜きにパーッと幻想美に浸ってもらいましょと云う気持ちは分からぬでもありません。しかし、そう云う場合であっても、「鴛鴦の夫婦は仲睦まじく、それが無理やり引き裂かれてしまったら、互いを求め合って・狂おしく身を焼かずにはいられない」と云うところはしっかりと描いてもらわねばなりません。そこのところは最低限描いて欲しいと思います。「鴛鴦」は情念のドラマなのです。今回の舞台からはそのような暗い狂おしい情念がすっ飛んでしまっています。六代目歌右衛門のように情念をねっとりと描けと言っているわけではありません。情念の描き方にもいろいろあると思います。指導なさる方はそこのところまできっちり指導していただきたいと思いますね。

舞踊「鴛鴦」は、安永4年(1775)11月江戸中村座での顔見世狂言「花相撲源氏張膽(はなずもうげんじびいき)」という芝居の大詰所作事「四十八手恋所訳(しじゅうはってこいのしょわけ)」が最初のことでした。その後上演が絶えていましたが、昭和29年(1954)3月歌舞伎座での六代目歌右衛門の自主公演「莟会」で復活上演されたものです。したがって「鴛鴦」は同じ安永天明期の舞踊にその感触の手掛かりを求めるべきで、そうなれば参考とすべきはまずは「積恋雪関扉」(天明4年・1784・江戸桐座)であろうと思います。洒脱ななかにも・古風な味わいがもっとあって良いと思います。(この稿つづく)

(R6・5・31)


2)「鴛鴦」の音楽的設計

「鴛鴦」には長唄の拍子に乗って役者が歌うように台詞を言う場面があって、これを「拍子舞(ひょうしまい)」と呼びます。拍子舞は、安永天明期の舞踊に流行った技法です。代表的なものを挙げれば、「蜘蛛の拍子舞」(天明元年・1781・江戸中村座)あるいは「鬼次拍子舞」(寛政5年・1793・江戸河原崎座)などがあります。

「下座の拍子に乗って役者が台詞をしゃべる」と云うと、そのような場面は義太夫狂言の「物語」とか・ノリ地で竹本との掛け合いにもあると思うかも知れませんが、義太夫節のような語り物系音楽の場合は、原則的に地の部分を役者が担うものであって、役者と竹本との一定の関係性が守られています。「役者は人形の真似はせぬものだ」という強い意識があるなか、ノリ地のように三味線のリズムが前面に出る場面であっても、役者は糸に丸乗りするようなことはせぬものです。完全にリズムを外すことはあり得ませんけど、音楽に付かず離れず台詞をしゃべろうとするものです。

拍子舞も上記の技法を擬したものに違いありません(元々の発想はそんなところにあったのでしょう)が、長唄など歌いもの系音楽は、旋律や歌いまわしにそれぞれ強い特長を持っています。したがって、長唄での拍子舞では、役者の方にもう少し音楽に寄り添う(音楽に乗って行こうとする)意識が必要になって来ます。そうでなければ下座音楽と役者との関係性が分解してしまいます。そこが義太夫狂言のノリ地とは質的に全然違うところだと思います。指導なさる方はそこら辺もきっちり指導していただきたいと思います。

そこで今回(令和6年5月歌舞伎座)の「鴛鴦」での松也の河津・右近の喜瀬川・萬太郎の股野という若手花形の拍子舞を見ると、三人共に義太夫狂言のノリ地との区別が全然付いておらぬようでありますね。長唄の歌いまわしを無視したまま、役者が二拍子気味のリズムで台詞を連ねている印象です。しかも台詞のリズムが二字目起こしでなくて・頭打ち(一拍目にアクセントが付く)になっていて、台詞がまったく長唄と水と油の状態になっています。前章で「前半の長唄・後半の常磐津の音楽が醸し出す暗い情念とまるで無関係にドラマが推移していく印象」と書きましたが、そうなってしまう原因がここにあります。

特に吉之助がガッカリさせられたのは、右近の喜瀬川です。確か右近は清元の太夫(栄寿太夫)でもあるわけですよね。二刀流を標榜するのであれば、「この役者さんは清元の太夫だけあって、まるで謡うが如くの台詞まわしだねえ」と観客を感嘆させて欲しいと思うのですがねえ。(この稿つづく)

(R6・6・1)


3)相撲のこと

ところで「鴛鴦」に登場する河津三郎祐安は曽我兄弟(十郎・五郎)の父ですが(つまり「鴛鴦」は曽我物ということになるわけです)が、どうして苗字が違うのかと云うと、河津三郎が殺された後、母が曽我祐信に再嫁したので兄弟は曽我姓を称したのです。「鴛鴦」に出てくる相撲のエピソードがどうして河津三郎なのかと言うことも、いささかややこしい。これは確かに「曽我物語」巻2-1・相撲の事に出てきます。

安元2年(1176)10月伊豆に流されていた源頼朝の退屈を慰めるために地元の武士たちが天城山中で巻狩り(軍事演習のようなもの)を行ったそうです。その時の余興で相撲が行われました。連勝して圧倒的な強さを誇った俣野五郎でしたが、これに河津三郎が挑んで熱戦の末に河津が勝負を制したのです。この時の河津の技が今日の大相撲の決まり手に「河津掛け」として残っています。俗説では相撲に負けたことを深く恨んだ俣野が、工藤祐経にそそのかされたかして、巻狩りの帰路に遠矢を射かけて河津を殺したと云う、これが17年後の建久4年(1193)5月富士の裾野で曽我兄弟が工藤祐経を討った仇討ち事件の遠因になったとするのです。この俗説は民間に結構広く流布したものであるようです。(注:「曽我物語」での表記は「俣野」ですが、「鴛鴦」では「股野」になっておりますね。なお「石切梶原」では「俣野」表記です。)

今日では河津三郎祐安の死は、河津の父・伊東入道祐親と工藤祐継・祐経父子との、二代に渡る所領争いの結果であるとされています。相撲のことは関係がないそうです。世間で俣野と河津の相撲試合(俗に「遺恨相撲」とされている)が曽我の仇討ちと結び付けられてしまったのは、河津の死が巻狩りの帰路のことで、これがたまたま相撲試合の直後であったせいでしょうかね。ましてや舞踊「鴛鴦」にあるように、相撲のエピソードに遊女喜瀬川を巡る恋争いが絡み、さらにこれが鴛鴦殺しに繋がっていくのは、これはまったく狂言作者の想像力の飛躍が成せる技ですね。

ところで「鴛鴦」での「股野」も・「石切梶原」の「俣野」も赤っ面の単純な悪役みたいに見られ勝ちですけれど、歌舞伎の荒事のキャラクターはそのなかに観客の好意的な感情を含むものと吉之助は考えております。「股野」が良くないと「鴛鴦」は面白くなりません。「石切梶原」も同じです。江戸の観客は、竹を割ったように真っ直ぐな・サッパリした気性の人物を好んだのです。これは「平家物語」にあるエピソードですが、斎藤実盛が仲間の意志を探ろうと、自分はそのつもりはないのに「ここは勢いが盛んな源氏方に付こうではないか」と鎌を掛けた時に、俣野五郎は、

『さすがわれわれは、東国では人に知られて、名ある者でこそあれ、吉について、彼方(あたな)へ参り此方(こなた)へ参らんことは見苦しかるべき。(中略)景久に於いては、今度平家の御方で、討ち死せんと思ひ切って候ぞ』(「平家物語」)

と答えたそうです。俣野五郎は「名を惜しむ」ことを知る立派な武士なのです。ちなみに史実の俣野を「鴛鴦」で「股野」と表記するのには、そこに俣野に対する狂言作者の何らかの「申し訳」(スミマセンここんとこちょっと変えてみましたみたいな)が潜んでいるのかも知れないと吉之助は思っているのですがね。(この稿つづく)

(R6・6・2)


4)溶解する「愛の物語」

「鴛鴦」は上の巻(相撲)と下の巻(鴛鴦)の関連が分かりにくいですね。そこは幻想劇(ファンタジー)ですから、細かいところに拘らず、すべてを想念のなかに自由に遊ばせれば宜しいことです。例えば下の巻に出てくる雄鳥の精とは一体どのような存在でしょうか。股野に殺された雄鳥の精は、

「ありし契りの変らずば、今血汐の加被(かび)なせし祐安どのの五体をかりまみえてたべよ我が夫鳥、会いたい見たい懐かしい」

と言っていますから、河津の身体を借りて現れたのです。つまりこの時点で河津は生きていることになるでしょう。しかし、肉体的に河津は生きていても、ドラマ的には河津は「既に死んでいる」のです。この後恋に狂い死にするか・遠矢で射殺されることになるか・それは分かりませんが、もう河津は死んだも同然です。これはもう決まっていることです。「相撲試合の直後に河津は死ぬことになる」、これが江戸の観客の誰もが知る「曽我物語」の常識であるからです。雄鳥が殺されたこと自体がこのことを示唆しています。

とすれば、下の巻の様相をどのように見れば良いでしょうか。下の巻では河津と喜瀬川のペアは人間であって人間ではない、鴛鴦であって鴛鴦でない、そのどちらでもあって・どちらでもないと云うことになります。股野だけが変わらず現実の人間です。「パラレルワールド」という概念がありますねえ。或る世界(時空)から分岐して、これと並列した形で存在する別の世界(時空)ということです。村上春樹の小説にもよく出てくる「アレ」です。「この現実とは別に、もしかしたら別の現実が存在するかもしれない」という考えは、「もしこうだったら」、別のこんな可能性があり得たかも知れないという想像を展開させます。もうひとつ逆の発想としては、「こんなことさえ起らなかったら」、世界はそのまま変わらず平和であったであろうにと、そう云う展開もあるでしょうね。「鴛鴦」の場合は明らかに後者です。

「鴛鴦」はこのように見れば宜しいかと思います。或る意味で鴛鴦とは、別世界の河津と喜瀬川のペアのパラレルな様相を見せるものです。この世界に仲睦まじく愛し合う男女のペア(河津と喜瀬川)がおり、並列した別世界にも仲睦まじく愛し合う鴛鴦のペアがいます。何事も起こらないうちは、二つの世界は互いに干渉もせず、均衡した状態で並列しています。ところがそこに股野が飛び込んで来て、雄鳥を殺し・その生血を河津に呑ませた。このことによってパラレルワールドの均衡が破れて、二つの世界は混ざり合い、そこから世界の混乱が始まるのです。鴛鴦の夫婦は仲睦まじく、それが無理やり引き裂かれてしまったら、互いを求め合って・狂おしく身を焼かずにはいられない、怨念の炎の激しさは、周囲の物さえ焼き尽くさずにおかぬほどである。「こんなことさえ起らなかったら」、二人の愛は永遠に続いたであろうに。

つまり舞踊「鴛鴦」は、悲しい・悲しい「愛の物語」なのです。「曽我物語」の相撲のエピソードから、こんな「愛の物語」を捻り出しちゃう狂言作者の発想ってホント凄いですねえ。

(R6・6・4)


 

 


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