意義ある「布引滝」通し〜六代目愛之助の義賢・実盛
令和6年2月大阪松竹座:通し狂言「源平布引滝」〜義賢最期・御座船・実盛物語
六代目片岡愛之助(源義賢・斎藤実盛二役)、四代目中村鴈治郎(瀬尾十郎)、初代中村壱太郎(小万)、四代目片岡松之助(九郎助)、六代目上村吉弥(九郎助女房およし)、初代片岡千寿(葵御前)、二代目尾上右近(下部折平実は多田蔵人)、片岡りき弥(待宵姫)、二代目中村亀鶴(矢走兵内・平宗盛ニ役)他
1)意義ある「布引滝」通し上演
本稿は令和6年2月大阪松竹座での、愛之助の源義賢・斎藤実盛・二役による通し狂言「源平布引滝」の観劇随想です。この公演のポイントは、普段はそれぞれ単独に出される二段目「義賢最期」と三段目「実盛物語」を、間に「竹生島遊覧・御座船」を入れて三場を通したことにあります。これで「実盛物語」で描かれる歴史の「反復構造」が明らかになりました。
歌舞伎上演を調べると、戦後では「竹生島遊覧」の上演は、昭和55年・1980・10月池袋サンシャイン劇場と、昭和57年・1982・2月大阪・新歌舞伎座での、共に三代目猿之助(二代目猿翁)による「源平布引滝」通し上演での2例と、それと平成20年・2009・9月新橋演舞場での通し上演で海老蔵(現・団十郎)が上演した例しかないようです。
昭和55年サンシャイン劇場の三代目猿之助公演を吉之助は生(なま)で見ましたが、この時の上演は映画と交錯して芝居を上演する・いわゆる「連鎖劇」の形を取ったもので、「竹生島遊覧」は映画の場でした。恐らく劇場機構の制限から大船の大道具が持ち込めない・迅速な舞台転換が出来ないことなどの・やむを得ない処置であったかと思われます。しかし、芝居の出来自体は面白いもので、バラバラに見ると・いまひとつ関連性が見えて来ない「義賢最期」と「実盛物語」を、このように通し上演で見ると、腑に落ちるところがいくつも見えました。それに「実盛物語」だけだと・チョイ役に見えかねない小万が、通しであると、とても重要な意味を持つ役になります。九郎助もいい役になりますね。そう云うわけで今回(令和6年2月大阪松竹座)の通し狂言「源平布引滝」は、とても意義ある公演でした。
「源平布引滝」の反復構造については、別稿「義賢から実盛へのメッセージ」とその続編「実盛物語から義賢最期を読む」の2本の論考をお読みになれば、お分かりいただけます。明治29年出版の「浄曲百番 語り物の訳」には、「綿繰馬の段(実盛物語)」について、「名前は有名、事実は無根。例に依って例の如き歴史的の夢幻劇」と書いてあります。まあそれはその通りかも知れませんねえ。「源平布引滝」で取り上げられる元ネタはまったく事実に則していません。例によって例の如く、都合よく材料を組み合わせて筋をデッチ上げているかに思われます。しかし、実際に「義賢最期」から「竹生島遊覧」・さらに「実盛物語」と三場続けて見てみると、この芝居は事実には則しておらぬけれども、確かに歴史の「真実」を描いていることが見えてきます。
それは寿永2年(1183)6月11日・加賀の国篠原の地で、斎藤実盛が老齢の身でありながら「最後まで若々しく戦いたい」との覚悟で白髪を墨で黒に染め、木曽義仲追討の戦(平家方)に加わって、義仲軍の武将・手塚光盛に見事に討たれたという史実に根拠があります。実は義仲は実盛には深い恩義がありました。義仲は恩人の死を知ってさめざめと泣きました。「源平布引滝」は全然事実に則してはおらぬのですが、九郎助住居で実盛が
「ムハハハなるほど、その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふて見よ。軍の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」
と云った瞬間、まるで稲妻が走ったかのように、実盛の未来までもがパッと見通されます。ここまでの「源平布引滝」のドラマが加賀の国篠原での実盛の死(史実)へ向けて一直線に進んでいたことがはっきりと理解されます。浄瑠璃作者のこの作劇技法には驚かされます。デタラメの歴史認識どころではなく、歴史にトコトン精通していなければ、こんな見事な芝居を書けるはずがありません。
歌舞伎を見て感心することは、「老斎藤実盛は髪を黒く染めて見事に討たれる」、或いは「熊谷直実は無冠の太夫敦盛を討ったことで世を儚んで出家する」、「筑紫に流された菅丞相は死んで天神様となる」、そのような歴史の「真実」が江戸期の観客には自明のものとして共有されていたと云うことですねえ。このような歴史感覚は現代日本においてはもはやあり得ないのです。現代の歴史とはただ事実を連ねた知識の集積に過ぎず・それは暗記物みたいなもので、学校で歴史の「真実」を教えることはもうなくなってしまいました。(この稿つづく)
(R6・3・1)
2)「布引滝」の反復構造
今回(令和6年2月大阪松竹座)のように、「義賢最期」と「竹生島遊覧」・「実盛物語」までを続けて通すと、「源平布引滝」の反復構造がはっきり実感出来ます。しかも前場になる「義賢最期」と「竹生島遊覧」・二場は、すべて後場の「実盛物語」の「反復」の実現へ向けて、史実の変えてはならないところ・変えてもいいところをあらかじめわきまえた上で、意図的に「虚実」を取り混ぜて芝居が書かれていたことが明らかとなります。浄瑠璃作者の作劇技法の見事さに改めて感嘆してしまいます。詳細は別途論考をお読みいただくとして、「源平布引滝」の時系列に沿って反復構造を分かりやすく列記してみると、
A)「義賢最期」:義賢は「君はカッコ良く死ねるか」というメッセージを源氏の白旗に託して見事に死す。白旗を預かった小万は大蔵館を脱出して故郷を目指す。
B)「竹生島遊覧」:小万は琵琶湖遊覧の御座船上で実盛と遭遇する。実盛は白旗を平家に奪われてはならぬと、やむなく小万の右腕を切り落とす。
C)「実盛物語」:実盛は白旗に託されたメッセージを受け取り、28年後の篠原の戦いで見事に討たれてみせることを宣言して、自らの未来を定める。実盛は駒若丸(後の木曽義仲)を木曽に送り届けるべく九郎助に託す。
実盛が背負った「負い目」(源氏でありながら現在は平家の禄を食むことの負い目、白旗を守るため・やむを得ず小万を殺さねばならなかったことの負い目)が反復され、義賢が白旗に託したメッセージに答えるべく、実盛は自らの負い目に決着を付けます。ここまでが「源平布引滝」の芝居が描くものです。実盛の反復は、28年後の篠原の戦いで見事に死んでみせることで完成することになります。実盛が約束を違えることは絶対にありません。それは必ずや実現する未来です。観客は皆そのことを史実として知っているのです。
D)寿永2年(1183)6月11日・加賀の国篠原の地で、実盛は白髪を墨で黒に染めて木曽義仲との戦いに参加し、手塚太郎に討たれて見事に死す。
後世の武士は実盛の死を「武士の理想の死に方」と賛美しました。以後「君はカッコ良く死ねるか」のメッセージが、後世の武士たちによって無限に反復されることになります。
E)寿永3年(1184)1月21日の近江国粟津ヶ原の戦いで木曽義仲が見事に討ち死にする。
F)慶長20年(1615)5月6日・大坂夏の陣で豊臣秀頼の臣・木村重成が鎧兜に香を炊き込めて出陣し見事に討ち死にする。
「葉隠」のなかで山本常朝は
「やさしき武士は古今実盛一人也。討死の時は七壱拾余也。武士は嗜(たしなみ)深く有るべき事也」と書きました。武士たる者、爽やかに・カッコ良く散っていきたいものだ。そんな理想の死に方を選んだのが、実盛なのです。しかし、大事なことは「見事にカッコよく死ぬ」ことは、「無慙に死ぬ」ことの裏腹であると云うことです。だから「あっぱれ」とはすなわち「あはれ」なのです。死のカッコ良さの裏には、常に陰惨さがつきまといます。後世の武士たちは「もののあはれ」を強く意識し、実盛の無慙な死こそ武士の理想の死に方であると肝に念じたわけです。ですから、「実盛物語」の実盛は白塗りの生締め役でカッコいい、それは確かにその通りではあるのですが、そのような華やかな明るい要素ばかりに目を向けるのではなく、芝居のなかの陰惨な要素も思いやらねばなりません。それでこそ芝居は実盛に対する供養になります。(この稿つづく)
(R6・3・7)
3)実盛の負い目の陰惨さ
民間伝承に拠れば、篠原の戦いで実盛が乗った馬が田圃の稲の切株に躓いて転んだため・実盛は投げ出され、そこへ飛び掛かった手塚太郎に討たれたそうです。実盛の霊はこのことを深く怨んで、死後に稲を害する害虫となったと伝えられています。実盛虫と呼ばれるものがそれです。民衆はその年の豊作を願うお祭りを、不幸な死を遂げた人の霊を慰める御霊信仰に結び付けたのです。実盛送り(または実盛祭)と呼ばれる、稲に害を及ぼす害虫を外に送り出す虫送りのお祭りが、全国各地の農村に今でも数多く残っています。藁人形を作って悪霊に見立て、鉦や太鼓をたたきながら行列にして村境に行き、これを川に流します。
「源平布引滝」は寛延2年(1749)11月大坂竹本座での初演。本作では篠原の戦いでの討死は実盛が28年前にあらかじめ予告したことの実現・つまりアッパレなことであるわけですから、死んで稲
に怨みを残して害虫になったなんて暗い中世民間伝承は綺麗サッパリ落とされてしまいました。このことが理性的な・明るいイメージを実盛に与えていることは確かです。しかし、実盛から陰惨な要素が消え去ったわけではありません。それは「負い目」という形で絶えず実盛を責め苛みます。その度に実盛はそのことを思い出し、最後にはそのために死ぬことになるのです。実盛の「負い目」とは源氏の身でありながら現在は平家の禄を食んでいることですが、「源平布引滝」のなかで、実盛
は向き合いたくなかったそれ(負い目)を何度も思い起こすことになります。これが「源平布引滝」の反復構造です。琵琶湖船上での実盛は、小万の腕を切りたくて切ったわけではありません。源氏の白旗を平家に奪われまいための、やむを得ない仕儀でした。平家ばかりの船上では、自分が密かに源氏に心を寄せることを周囲に気取られないために、こうするしか手段がなかったのです。実盛がこうするしかなかったことも、その「負い目」ゆえと云えると思います。「九郎助内(実盛物語)」では、実盛は思いがけなく自分が切り落とした右腕と再会することになります。ここでまたしても負い目が実盛の前に現れます。もしここで、実盛がそれが自分が切ったものであることを黙っていれば、実盛は28年後に死ななくても済んだはずです。しかし、実盛はこのことを正直に吐露してしまいます。実盛がこうするしかなかったことも、その「負い目」ゆえであると思います。こうして実盛は御座船で小万を切った仔細を物語りますが、ここで実盛は自らを苛むものが何であるかはっきり見極めたと思います。幕切れでは、実盛は太郎吉(後の手塚太郎)に28年後の北国篠原での対面し見事に討たれることを約束して去ります。この時、実盛は自らの「負い目」と正対して・これに最後の決着を付けることになるのです。
「実盛物語」幕切れでは、実盛が「軍(いくさ)の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」と言うと、葵御前が「げにその時はこの若(後の木曽義仲)が恩を思ふて討たすまい」と返します。芝居で実盛役者があまりに爽やかでカッコ良過ぎると、観客は「そうだよ、こんな良い人は討っちゃダメだよ」と思ってしまいそうですね。まあ観客がそう感じるのも尤もなことですが、28年後の北国篠原で実盛が見事に討たれないと、芝居のなかの反復構造が完成しません。実盛は無惨に討たれなければならないのです。ですから「実盛物語」では、実盛のカッコ良さの傍らに常につきまとう陰惨な負い目の存在を意識せねばなりません。
この点に於いて、今回(令和6年2月大阪松竹座)主役の実盛を演じる愛之助は、生締め役のカッコ良さと、そこに陰のようにつきまとう「負い目」の陰惨さとのバランスが、ホント理想的に宜しいですね。吉之助がこれまでに見た「実盛物語」のなかでも出色の出来であったと思います。(この稿つづく)
(R6・3・8)
4)愛之助の義賢・実盛
二段目「義賢最期」は大蔵館から九郎助が葵御前を連れて脱出する・小万が白旗を携えて脱出する、この二点で三段目「実盛物語」へと繋がりますが、単独で見ると切場としての格にいまひとつ不足して、どこか端場みたいな印象(ホントは二段目切場なのです)がすると思います。まあ派手な大立ち回りがあるから大端場ということでしょうか。しかし、「源平布引滝」の反復構造が分かっていると、浄瑠璃作者が「実盛物語」から逆算した形で「義賢最期」の筋を組み立てていることがはっきりと見えてきます。「義賢最期」と「竹生島遊覧」・「実盛物語」を序破急の三部形式に見立てた時、「義賢最期」を端場という風に捉えると、これが「序」のピースにまさにぴったりと嵌まるように思えるのです。すべてのドラマは「老実盛は北国篠原で髪を黒く染めて見事に討たれる」という未来に向けて流れ込みます。実盛の死は芝居では描かれませんけれど、描かれない未来が「源平布引滝」という絵巻物の余白の部分になっているわけですね。
義賢と実盛の二役は別けても良いと思いますが、二役を同じ役者が兼ねて演じれば、二段目で義賢が「君はカッコ良く死ねるか」というメッセージを投げ、三段目で実盛がこれを受け取って「俺もカッコ良く死んで見せるぞ」と応える反復の構図を、観客に対して印象付けるためにとても効果的です。愛之助は義賢と実盛の二役共どちらも良いですねえ。丸本時代物を骨太く見せるという点で、愛之助は中堅どころで最も安定していると思います。
周囲も堅実なサポートを見せています。まず小万(壱太郎)の好演を挙げねばなりませんが、九郎助(松之助)も良くて、おかげで「義賢最期」から「実盛物語」まで太い筋が通りました。「実盛物語」では瀬尾(鴈治郎)も孫への情がよく出た手堅い出来です。「義賢最期」と「竹生島遊覧」・「実盛物語」の通し上演は、上演時間も適度であるし、もっと試みられて良い企画だと思います。
(R6・3・10)