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青果劇の様式〜十代目幸四郎の新門辰五郎

令和5年8月歌舞伎座:「新門辰五郎」

十代目松本幸四郎(新門辰五郎)、六代目中村勘九郎(会津の小鉄)、五代目中村歌六(絵馬屋の勇五郎)、二代目中村獅童(山井実久)、二代目中村七之助(芸妓八重菊)、初代坂東新悟(秋葉屋のお六)、二代目市川猿弥(金看板の源次)、三代目中村勘太郎(辰五郎倅丑之助)他


1)令和の今・何故「新門辰五郎」か

真山青果の「新門辰五郎」初演は昭和18年(1943)8月新橋演舞場での前進座公演で、主な配役は三代目翫右衛門の新門辰五郎、四代目長十郎の絵馬屋の勇五郎、四代目鶴蔵の会津の小鉄でした。本作は脇のすみずみまで生き生きして・アンサンブルがしっかりした如何にも前進座にぴったりの芝居だと思いますが、執筆経緯を見ると、青果は最初どこで上演するという当てもないまま書き始めたようです。「新門辰五郎」は、はじめ雑誌「経済往来」の昭和8年(1933)7・8月号に二幕目まで発表されて、以後未完のまま置かれていたものでした。多分芝居の落ちの付け方に迷いがあったのだと思います。劇団前進座が創立されたのは昭和6年(1931)5月のことですから、当時前進座は生まれたばかりでした。その後執筆を再開し「講談倶楽部」昭和14年(1941)5〜9月に完成稿が掲載されたわけですが、この時には前進座での上演が想定されていたかも知れません。青果と前進座との付き合いは、昭和12年(1937)新橋演舞場での「償金四十萬弗」から始まり、昭和14年(1941)新橋演舞場から開始された「元禄忠臣蔵」9編全編系統的上演で確固たるものになっていました。

ところでここで「新門辰五郎」が執筆・上演される前後の日本の状況を振り返っておきたいと思います。世界大恐慌が昭和4年(1929)10月頃から始まり、満州事変勃発が昭和6年(1931)9月、盧溝橋事件(日中戦争全面化)が昭和12年(1937)7月、真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)が昭和16年(1941)12月となります。世相が不安化して、次第に日本が戦争の泥沼にのめりこんでいった時代です。これらの出来事は幕末の町火消・新門辰五郎に何の関係もない事項ですが、実はこの時代の気分が作品に濃厚に反映しています。青果は幕末の京都における辰五郎を巡る状況に執筆当時の日本の状況に似たものを見ていたと云うことです。誤解しないでいただきたいですが、青果が昭和初期の時勢批判として「新門辰五郎」を書いたと言いたいのではありません。そんな薄っぺらいものではないと思います。しかし、作品のなかに潜む気分を舞台で素直に表現出来れば、作品の作意がスッと正しく現われます。すると青果は戦時の真っただ中にこんな危ない芝居をよく書けたものだ・・・と心底唸ることになります。青果は澄まして「これは幕末の京都のエピソードを書いた・ただのエンタテイメントに過ぎませんから」と一笑に伏すでしょうねえ。しかし、そこを明確にしておかないと、青果が何故あの時代に「新門辰五郎」を書かねばならなかったかが分からないのです。そして令和の今・何故「新門辰五郎」かと云う問いにも答えられません。

「令和の今・何故「新門辰五郎」か」と問うことは大事でしょうか。吉之助は大事なことだと思います。「仮名手本忠臣蔵」をやる時でも、「義経千本桜」をやる時でも、大事なことです。別にご大層な回答を捻り出す必要はありません。歌舞伎を令和の今に必要なものとするために、このことを問い続ける姿勢が大事だと思います。(この稿つづく)

(R5・8・19)


2)「新門辰五郎」のなかに潜む気分

青果の戯曲「新門辰五郎」のなかに潜む「気分」とは何か、ちょっと考えてみます。辰五郎は江戸の町火消だから江戸が舞台かと思いきや・芝居では京都が舞台なので面食らいますが、事情はこういうことです。文久3年(1863)4月、将軍徳川家茂は上洛して孝明天皇に拝謁しました。これは表向きは朝廷と幕府が手を結ぶ「公武合体」政策の一環でしたが、朝廷の本心は幕府に対し攘夷実行を迫ることにあったようです。将軍後見職・一橋慶喜はひと足先に京都に入りますが、浅草十番「を組」の頭・辰五郎は、慶喜に気に入られて、その警護を仰せつかう形で・手下約200名を引き連れて、ここ京都に来ていたのです。京都の情勢は将軍上洛でひとまずの落着きを見せていたものの、水面下では攘夷か開国か、はたまた尊王か佐幕か、各方面の立場と意見が対立して一発触発のピリピリした状況でした。そのような混乱の下では庶民の気分も落ち着きません。噂話であっちに味方したり・こっちに味方してみたり、風評が絶えません。日本がどこに向かうか、その方向性が全然見えないから落ち着かない。上も下もみんながイライラしています。ひょんなことがきっかけで事件が起こりかない危険な雰囲気なのです。青果の「新門辰五郎」のなかに通奏低音のように響く気分とは、一刻の猶予もならぬと云う切迫した、そのようなイライラした気分です。このことを、芝居が執筆された昭和初期の、戦争の泥沼にのめり込んでいく日本の状況と改めて較べてみる必要はないと思います。

青果の芝居のなかの主人公・辰五郎は、本来ならば御政道に関与することがない町火消ですが、自ら望んでか望まぬか・国の混乱の渦に巻き込まれて・自らはどうしようもなく・苦しんでいる人物です。ですから青果の芝居での辰五郎は、意外とカッコ良くありません。却って隠居の町火消・絵馬屋の勇五郎の方が気楽な分だけに、辰五郎が置かれた状況が冷静に見えています。二条城堀端で勇五郎が辰五郎に意見する台詞を見ます。

『なるほどなア。江戸に居りゃあ御朱引外(ごしゅびきそと)の田舎火消と云われた新門の辰五郎も、京都に来りゃ大名づきあい、長州が油断ならねえとか、やれ薩州がどうしたとか、五十万石、百万石の国持大名を、まるで朋輩扱いだ。へええ、豪いもんだ。(中略)ええ皮肉じゃねえ、おら本当のことを云ってるんだ。』

『頭(かしら)、おめえは浅草十番組、を組の当番をあずかって、五ヶ町の町内と店々(たなだな)を受け取っている町火消だせ。将軍家お供も大事だろうが、また五ヶ町の人々に火事の心配なく、夜々安心して眠らせる、その商売も軽いことじゃねえ。それを、所司代屋敷に三日も詰めて、将軍家長州御進発の御相談を受けたからって、男になったの、出世だなどと嬉しがるようじゃ心細い。火消が真(しん)から命をかけて働く場所は、火事場がひとつ。またお前の口から男が立つとか立たねえとか云うのは、火事場に立って、他の組合の者と消口(けしぐち)を争う時にだけ云う言葉だ。御政治向きのことまで口を出し、それを自分の働きと思うのは、お前さん、世間の評判に甘やかされて、己(うぬ)を増長させているのだろう。』

『まことに当節はやりにくい世の中だよ。江戸ッ子だからって将軍さまの下知につき、馬鹿正直にそれを守って行って好いという時代じゃねえ。と云ってまた、諸国浪人と一緒になって、勤皇騒ぎに江戸御政治の邪魔をしているのが好いとも云われぬ、まことに難しい世の中になっているのだそうだ。大は大なり、小は小なり、みな銘々、身分相応この日本国というものについて、見通しをつけなけりゃならない時代なそうだ。うぬの見栄とか外聞とかで、つまらねえ侠客振りなんどする時じゃねえ。』

勇五郎が言いたいことは、多分こういうことです。世間で喧伝されるプロパガンダや風評に惑わされて、庶民が自分の本分を忘れて舞い上がり、世界だ国家だ日本だと大きいことばかり言っていないで、もう一度自分の本分に立ち返り・実生活に立脚したところから、今この日本はどうあるべきかじっくり考えてみたら如何なものだい?胸に手を当ててよく考えてみなと云うことでしょうかねえ。(この稿つづく)

(R5・8・20)


3)辰五郎は意外とカッコ良くない

戯曲「新門辰五郎」は表向きは(本筋としては)慶喜の警護ということで京都へやってきた浅草十番「を組」の者たちと京都守護職を預かる会津の中間(ちゅうげん)部屋の者たちの、「どちらが京都の警備を仕切るか」と云ういがみ合いを描いていますが、通奏低音のように響くのは一発触発の幕末のイライラした気分であり、それが彼らのいがみ合いをますます熱いものにしています。実は青果が描きたいのは、そちらの方です。「京都の安全・日本の安全を守るのは俺たちだ」という顔をして、あそこを歩いている浪人者は怪しい・水戸かそれとも長州かなどと京都の街を毎日肩をいからせて闊歩している。そういう雰囲気のまっただなかに辰五郎がいるのです。これは絵馬屋のご隠居が言う通り、「お前さん、世間の評判に甘やかされて、己(うぬ)を増長させているのだろう」と云うことです。

前章で「本作での辰五郎は意外とカッコ良くない」と書きました。辰五郎が輝くのは、祇園町の火事騒ぎを見て、「祇園さまは京都の宝だ、京都の宝は日本の宝だ。新門の命にかけても、必ずこの火事は消口(けしぐち)をとつてみせる」と叫ぶ時だけです。この時だけは辰五郎は自分の本分に戻っています。しかし、その次の場ではやはり水戸さまを取るか公方さまを取るかで悩む元の辰五郎に戻っています。切羽詰まって腹を切ろうかと考えている時、会津の小鉄がやってきて「昨晩の祇園でのお前さんの働きは、さすが江戸っ子のなかの江戸っ子だ、わたしらなんかとは生まれついての物差しがちがう」と言って坊主頭を見せるものだから辰五郎も気を呑まれて、・・・やっぱり俺の本分は火消しなんだ、こいつアまったく絵馬屋の親父っさんの言った通りだったナアと思い知ると云うのが、青果が付けた芝居の落ちですね。

ですからもし検閲の役人に問われたら、青果は澄まして「これは幕末の京都のエピソードを書いた・ただのエンタテイメントに過ぎません」と答えるでしょうねえ。表向きはそのように書いてあるのです。しかし、そこはさすがに真山青果です。決してただのエンタテイメントに終わらせません。ただしそれをあからさまにしないと云うことです。(この稿つづく)

(R5・8・22)


4)青果劇の様式

これは芝居でも音楽でもそうですが、演者が多少拙かったとしても、作品が内包する気分をスタイルとして正しく掴んでさえいれば、作者の意図したもの(作意)は素直に立ち上がって来るものです。作品の気分を表現するやり方は、何通りだって考えられます。作品には固有のものがあるのですから、しっくり来るやり方が他にもあるならば、それでやったってちっとも構わないのです。しかし、真山青果もの・あるいは左団次劇・新歌舞伎とジャンルを拡げて考えていくと、共通した或るひとつのスタイルが浮かび上がることに気が付いて来ます。これを「様式」と呼ぶのです。「様式」とは何か、まあいろんな定義があるだろうけれども端的に云えば、とりあえずそれさえ押さえておれば・そのジャンルの作品群の本質を掴んだのと同じことになる魔法の公式です。歌舞伎と云うのは、過去から発し・過去から鼓舞され・過去から批評される芸能なのですから、様式を意識してくれないと困るわけです。

別稿「若き日の信長」観劇随想のなかで、心持ち早めの二拍子でタンタンタン・・と畳みかける急き立てるリズム感覚・つまり新歌舞伎様式が、昭和の終り頃の新歌舞伎の舞台にはまだしっかり残っていたと云うことを書きました。ところが平成に入ると、新歌舞伎の・このリズム感覚が、急速に薄れて行きます。こうした傾向は、平成という時代の保守的な風潮、平成歌舞伎の古典志向への流れと無関係ではありませんが、歌舞伎作品のなかでもとりわけ理屈っぽく、「我々日本人はどう生きるべきか」みたいな尖った思想性を内包する真山青果ものにとっては少々具合が悪い時代になってきました。

そこで今回(令和5年8月歌舞伎座)の「新門辰五郎」の舞台が、作品に通奏低音のように響く一発触発の幕末のイライラした気分、日本がどこに向かうか・その答えを見出すのにもはや一刻の猶予もならぬと云う、切迫した気分を正しく掴んでいるかと云うことですけれど、残念ながら、今回の舞台はそのような気分が全体的に足りないように思いますね。舞台にピリッとした緊迫感が足りません。だから登場人物たちが何を考えて・何をどうしたいか、熱い思いが見えて来ません。芝居のなかであんまり活躍しなかったようだけど、結局、辰五郎(幸四郎)は何をしたかったの?みたいな感想になって来そうです。

まず序幕・京都祇園社・石鳥居前が、何となく間(ま)が伸びたような印象ですねえ。人々が行き交う往来で、不審な浪人に何を渡したかと子供(丑之助・勘太郎)が問い詰められています。事の次第に寄ったら、捕り物が始まるか・子供であっても手荒な扱いをされかねない心配な事態です。そのような緊迫感が舞台にないですねえ。「度胸のある子供がアハハ頑張ってるなあ」という微笑ましい芝居にはなっています。まあ歌舞伎座らしいことだなとは思いますし、その意味では勘太郎はなかなか頑張っていますよ。しかし、そこをドラマにしっかり組み込んで、ここで幕末の京都の不穏な空気を表現して見せるのは、演出の仕事・周囲の役者の仕事ではないかと思いますがね。ここは誰がと云うでもなく、所作でも台詞でも、緊迫したセカセカしたリズム感覚が全体的に足りません。場全体が急いた雰囲気になって来れば、その場に不似合いな山井実久(獅童)のお公家風も生きてくるのだけどね。歌六の勇五郎は悪くはないですが、丑之助が目明かしに尋問されている間、脇で様子を見ながら丑之助を指差したり・身をよじって大笑いしてみたり・随分と余裕で眺めているようですが、まあ青果のト書きでも「ニヤニヤ笑いながら物陰で身を潜めて応答を聞いている」とありますけれども、勇五郎には場合によっては仲裁に入らねばと云う緊張が確かにあるはずです。大笑いはほどほどにしてもらいたいものです。これだから丑之助のやり取りが緊迫化しません。そんなこんなを演出(織田紘二)はきっちり整理してもらいたいと思いますね。(この稿つづく)

(R5・8・24)


5)幸四郎の辰五郎・勘九郎の小鉄

歌舞伎が伝統芸能である所以は、作品が内包する気分を様式(フォルム)に語らしむという演技プロセスだと思います。もちろん心が大切だが、そのためにまずは形から入ると云うことです。新歌舞伎の場合、もはや一刻の猶予もならぬと云う熱く切迫した気分様式は早めの二拍子でタンタンタン・・と畳みかける急き立てるリズムによって表現されるのですから、そこをしっかり押さえてくれないと、芝居が間延びしたものになってしまいます。

今回の舞台では大方の役者が二拍子の急き立てるリズムを体現出来ていませんが、そのなかで新歌舞伎になっているのは、猿弥(金看板の源次)だけですねえ。これは猿弥が薫陶を受けた三代目猿之助歌舞伎(例えば「ヤマトタケル」など)の台詞の基調が二拍子であることが大きいです。しっかりリズムを踏んで言葉の粒を揃えて・きっちり「前に押す」発声が出来ています。新歌舞伎の台詞は、こう云う感じでなければなりません。他の役者は猿弥の台詞回しをよく聞いて欲しいと思います。それと七之助(芸妓八重菊)も悪くない出来です。こちらは七之助の発声が明晰で凛とした印象であることが功を奏していますが、欲を云えばもう少しテンポを付けて緊張感が表出できればもっと良いものになるでしょう。

幸四郎の辰五郎は、江戸の火消しの威勢の良さを見せようとして・台詞を如何に早く捲し立てるかしか考えていないような台詞回しですねえ。それと残念ながら、勘九郎の会津の小鉄も似たようなものです。二拍子のリズムをしっかり打てていないから、台詞がまくれます。急き立てるリズムになっておらず、リズムが前のめりになって・足がもつれているようなものです。これでは侠客の度胸の良さ・腹の太さが出せません。後ろからチョイと押したらコケそうな感じですなあ。新歌舞伎の台詞で大事なことは、台詞を快速でしゃべり飛ばすことではなく(どうも二人共そう思っているような感じですが)、リズムを踏んで言葉の粒を揃えて「前に押す」(台詞の推進力を維持する)ことです。それが上手く行かないのであれば、出来るレベルにまで・台詞のテンポを落とす(ゆっくり言う)ことです。大事なことは、言葉をはっきり発声し「前に押す」感覚を維持することです。

幸四郎・勘九郎のお二人に申し上げたいですが、このような新歌舞伎の台詞回しと、「勧進帳」の弁慶・富樫の山伏問答とは、実はとても近いところにあるのだと云うことに早く気が付いて欲しいですね。(別稿「左団次劇の様式」をご参照ください。)辰五郎や小鉄が出来るようになれば、自然に弁慶も富樫も上手く出来るようになるのです。ですから新歌舞伎だとか・古典だとか・区別を付けないで頑張ってもらいたいものです。

(R5・8・27)


 

 

 


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