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成駒屋の「沼津」のはんなり

令和5年7月大阪松竹座:「伊賀越道中双六〜沼津」

三代目中村扇雀(呉服屋十兵衛)、四代目中村鴈治郎(雲助平作)、初代片岡孝太郎(娘お米)、十代目松本幸四郎(池添孫八)他


1)成駒屋の上方らしさとは

大阪松竹座での、扇雀の十兵衛・鴈治郎の平作による「沼津」を見てきました。堅実な出来で、平作・十兵衛親子の悲劇は十分描き出されています。そこに大きな不満はないのだけれど、吉之助は先々代つまり二代目鴈治郎の十兵衛・先代つまり四代目藤十郎の十兵衛の舞台もそれぞれ複数回見てはいるので、今後の西の成駒屋のために些細なことを書いておきたいと思います。

上方の芸の伝承はもともと「芸は教わるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」と云うところにあるので、初代鴈治郎は頑として息子(二代目)に芸を教えることをしませんでした。二代目鴈治郎も息子に対して、基本そうであったと思います。だから紙治にしても・十兵衛にしても、四代目藤十郎のそれは、父親(二代目鴈治郎)とは感触が微妙に異なっていました。藤十郎の方がどこか「かつきり」としていたと思います。そこに武智歌舞伎の薫陶を受けた藤十郎の個性があったと思います。(武智歌舞伎には「かつきり」した印象が付きまといます。)

したがって藤十郎の十兵衛の「上方らしさ」が一体どう云うところから出るか、何が代々の成駒屋を繫ぐのかという問いは、簡単に言葉で説明できないフィーリング(感覚)みたいな・甚だ頼りないものになります。これを香り付けみたいなものに考えてしまうと、役の本質と直接的に関連しないように思われるかも知れません。しかし、それがないと何だか物足りない。何だか決定的に物足りないことになるのです。したがってそれは断じて「上方芝居らしさ」の香り付けなのではない。だから何かしら役の本質に深く関連するところがあるのであろう。それは「面白うてやがて哀しき」浄瑠璃の本質にも深く関わるものであろう。一応そのように当たりを付けてみることにします。

それでは藤十郎の十兵衛に、父親(二代目鴈治郎)のそれとどこに共通点(繋がったところ)を見るかということですが、吉之助が思うには、上方の「はんなり」した気分が「かつきり」した印象と裏腹で出る、はんなりした気分が出たと思えば引っ込み、引っ込んだかと思えばまたひょっこりと顔を出す、そんなところに共通したところがあったように思うのです。しかし藤十郎の方に「かつきり」した印象が強いので、「はんなり」した気分との対照性がより強く出る、そんなところがあったかも知れませんねえ。

「はんなり」は、辞書で引くと「上品で気品を兼ね備えて、明るく華やかなさま」と説明しているものが多いようですが、どうも漠然とした感じです。「上品で落ち着いた」とすると、「華やかでキャピキャピ」した感じと相反するようです。しかし、京言葉の感覚としては、「明るく華やかな」と云う方へ比重が掛かるようです。「はんなり」の語源は諸説があるようで、「はな(花・華)あり」を語源とする説が有力だそうです。長い歴史のなかで様々な意味が積み重なっているような気がしますが、吉之助には「晴れなり」が語源だとする説も捨て難い気がしますねえ。「晴れなり」は「天晴れ・あっ晴れ」(つまりかぶき的心情)に通じ、「上方芝居らしさ」を説明する時に都合が良さそうな気がします。(この稿つづく)

(R5・7・20)


2)成駒屋の「沼津」のはんなり

このような先々代(二代目鴈治郎)・先代(四代目藤十郎)に共通した十兵衛の「はんなり」感が、初代鴈治郎から発する西の成駒屋の芸の大事なところだと思います。これは紙治や・その他和事系にも共通するものです。これを役者の「愛嬌」だと理解してしまうと、江戸歌舞伎のセンスだと多分これが近いかなと思いますが、もちろん重なるところは多くありますが、完全にぴったりはそぐわないようです。「愛嬌」と云うと、上方の語感だと、どこかにわざとらしさが残ってしまうようです。「はんなり」はもっと天然系ではないかと思いますねえ。出そうとして出るものではない。言い方は悪いけれど、何も考えていなくてもその身から自然に滲み出てしまう明るさ・華やかさなのです。しかもそれが「きりっ」とした印象と背中合わせに出るのが、上方の「はんなり」ではないかと思います。(例えば地唄舞の井上八千代の立ち姿を思い出してもらえば良いです。)だから「はんなり」は「はな(花・華)あり」だけであると完全に説明が出来ないのではないでしょうかね。やはり「晴れなり」というセンスがどこかに必要だと思います。

二代目鴈治郎の十兵衛を思い出しますが、「沼津」前半でのお米に気のあるところを見せる柔らか味ある演技は絶品でした。平作との掛け合いの面白さは語り草で、そこに「はんなり」の一面が確かに出ていました。しかし、むしろ二代目鴈治郎の十兵衛は、お米が人妻であると聞いてから以後の後半の変化(落差)が核心であったと思います。ここでの鴈治郎は興覚めしたヨソヨソした態度に変わり(つまり十兵衛は決まりが悪いわけです)そそくさと家を立とうとしますが、ここで事態は紆余曲折して、平作とお米が幼い時に別れた親妹だと分かる。ここから最後の千本松原での悲劇へと至ります。ここで命を賭けた平作の訴えに敵の行方を明かす行為を、「許されないこと・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」という決然たる行為に見せるものは、「晴れなり」の感覚です。つまり鴈治郎の十兵衛の「はんなり」は、決して前半の見た目に楽しい場面のためだけにあるのではない。「沼津」全体を通して「はんなり」が一貫してあります。「はんなり」が十兵衛の性根と一体化したものとしてあるのです。だから「沼津」幕切れこそ「はんなり」の結実だと捉えて欲しいと思います。これで翻って前半の「はんなり」の楽しさも生きて来ます。これでこそ「面白うてやがて哀しき」浄瑠璃の本質に沿うことになります。(別稿「世話物のなかの時代」をご参照ください。)これは裏返せば平作にとっても同じことで、「沼津」幕切れこそ「はんなり」と云うことなのですね。

今回(令和5年7月大阪松竹座)の、当代扇雀の十兵衛ですが、芝居の勘所として押さえるべきところは押さえられています。堅実な出来で、平作・十兵衛親子の悲劇は十分描き出されています。別に大きな不満はないのだけれど、西の成駒屋の「沼津」としては、ちょっと渋い印象かなという印象ですねえ。悪いと云っているのではありません。堅実な出来ではあるのですが、やはり「はんなり」があってこそ西の成駒屋の「沼津」なのです。大事なことは、「はんなり」を役の性根と一体化したところまで落とし込むと云うことです。ここは紙治や忠兵衛・その他和事系にも通じることです。いいところまでは行っているのだから、先々代・先代の映像など見て研究していただきたいですねえ。

(R5・7・23)


 


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