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二代目松也の五郎・二代目右近の十郎〜「寿曽我対面」

令和5年5月歌舞伎座:「寿曽我対面」

二代目尾上松也(曽我五郎時致)、二代目尾上右近(曽我十郎祐成)、四代目中村梅玉(工藤左衛門祐経)、二代目坂東巳之助(小林朝比奈)、二代目中村魁春(大磯の虎)、初代坂東新悟(化粧坂少将)他


令和5年5月歌舞伎座の「対面」についてメモ風に記すことにします。「対面」は元禄歌舞伎の雰囲気を伝える貴重な演目ですが、物語性が乏しい儀式的演目だと思われている節があり・それはそれでひとつの見方ではありますが、「対面」は来る5月(旧暦)の富士の裾野での仇討ちへ向けて「物語の結末」を見通すものでなければならないのです。「対面」は仇討ちの相手を目前にして一旦思いどまって帰る(つまり仇討ちのやり直し)のではありません。完全に相手を照準(ターゲット)に収めた、この次は「必ず討つ」・この次は決して逃すことはない(相手の側から見ればこの次は「見事に討たれる」)と云う結末を見通したドラマなのです。だから予祝性がそこにあるわけです。だから「対面」が目出度い初春狂言になるのです。これこそ「対面」という芝居が持つ物語性なのではありませんか。ところが近年の歌舞伎の「対面」は儀式性を重視するあまり、物語性が忘れられることが多くなって、芝居がますます形骸化する傾向にあります。もう一度「対面」の物語性を思い出して欲しいと思います。

梅玉の工藤は見た目では控え目な印象がしますが、梅玉の工藤の良いところは、この次は「見事に討たれてみせる」という覚悟・懐の大きさを確かに押さえていることです。これが工藤の大きさに通じ、「物語の結末」(富士での討たれ)が見える良い工藤に仕上がりました。さすがベテランの芸と云うべきです。良いと云えば、巳之助の朝比奈は形式的な動きのなかに感じる明るい滑稽味が予祝性にも通じて、これも良い出来でありました。

曽我十郎(右近)・五郎(松也)の兄弟は、いい容姿を持っているのだから、もっと若さで暴れて欲しいと思いますね。松也の五郎は身体が絞れていないようで、動きにキレが乏しい印象がします。「今日は如何なる吉日にて」でグッと腰を落とす(と云うか「腰を入れる」)のは、膝を直角に曲げるくらいに腰を落とさねばなりません。これはスクワットみたいなもので・この形を取るのは苦しいけれど、それでないと詰め寄りが力がみなぎった荒事に見えないのです。右近の十郎は優美ですが、絵面に収まってしまってあまり強い印象に残りません。

五郎が左手を前に差出し・右手を構えて・相手につかみかかる形を取りますが、これは狙いを定め弓を力一杯引いて・弓身が最大にしなった状態のまま動きを止めた形です。この形は絵面的に静止して見えますが、実はこれが最大に力がみなぎった動的な状態です。兄は弟を抑える役回りですが、今にも暴れ出しかねない弟を抑える為には、兄も全身に力を込めて弟を押し返さないとどうにもならないはずです。(まあそういう感じに出来ている兄弟を滅多に見ませんが、まあ「心持ち」とすればそうあらねばならないと云うことですね。)兄弟は、「対面」の舞台に動的な切り込みを入れて、物語性・ドラマ性を吹き込む役です。兄弟の角々の決まりはそのような動的なうねりを示すもので、それらが連なって幕切れの全員の絵面の決まりから「物語の結末」に向けて最高に動的なシーンが浮かび上がるのですから、そこにドラマを感じさせて欲しいと思いますね。

(R5・5・30)


 


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