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二代目鴈治郎の「道成寺伝授」〜「恋女房染分手綱」

昭和48年3月国立劇場:通し狂言「恋女房染分手綱」〜「道成寺伝授」

六代目中村歌右衛門(重の井)、二代目中村鴈治郎(竹村定之進)、七代目中村芝翫(由留木左衛門)、六代目中村東蔵(由留木右馬之助)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(伊達与作)、五代目嵐璃珏(伊達与三兵衛)、二代目市川小太夫(鷺坂左内)、中村幸二(八代目中村芝翫)(自然生の三吉)他


1)内的に発露した悲劇

本稿で紹介するのは、昭和48年(1973)3月国立劇場での通し狂言「恋女房染分手綱」の舞台映像です。「恋女房」と云えば「重の井子別れ」が有名で、これは頻繁と云わないまでも・単独でも割合コンスタントに舞台に掛かって来ました。しかし、「恋女房」の通し上演となると・これは機会が少なくて、戦後ではわずかに2回のみのようです。十段目に当たる「子別れ」はもちろん見どころですが、通し上演での注目は、五段目「定之進切腹」・通称「道成寺伝授」です。戦後の「道成寺伝授」上演のひとつは今回紹介する昭和48年3月国立劇場での上演で、この時の配役は六代目歌右衛門の重の井・二代目鴈治郎の定之進でした。もうひとつは昭和58年(1983)4月歌舞伎座でほぼ同じ場割りで上演されたもので、この時の配役は歌右衛門の重の井・二代目松緑の定之進でした。吉之助は歌舞伎座での上演を生(なま)で見ましたが、残念ながら映像が遺されていないようです。

「恋女房」の成立過程がややこしいので、ちょっと触れておきます。有名な「重の井子別れ」は、近松門左衛門の浄瑠璃「丹波与作待夜小室節」(たんばのよさくまつよのこむろぶし、宝永4年・1707・秋ごろ・大坂竹本座での初演)の上の巻に当たります。小室節とは、信濃国小諸が起源とも云われる(諸説あり)江戸初期に流行った民謡で馬追い唄の一種。近松は当時の流行歌「丹波与作」の歌詞に、「与作思えば照る日も曇る関の小万が涙雨か」、「与作丹波の馬追いなれど今はお江戸の刀差し」とあることなどから着想を得て、この浄瑠璃を書いたのだそうです。この近松の先行作を、吉田冠子(人形遣いの吉田文三郎)・三好松洛が改作して出来たのが、「恋女房染分手綱」全十三段(宝暦元年・1751・2月大坂竹本座での初演)です。原作「待夜小室節」は詞章をほぼそのまま取り入れて、これは改作「恋女房」の十段目から十二段目に当たります。(注:「小室節」では滋野井。)つまり「重の井子別れ」に至るまでの経緯(丹波与作の前身や、子別れで重の井が三吉に我が子であることを打ち明けられない背景など)が近松の原作に詳しく描かれていないので、その前の筋を補填したのが改作「恋女房」なのです。

近松の原作は世話物浄瑠璃ですが、改作「恋女房」は筋を補った結果、時代物(お家騒動物)の体裁がより強いものとなりました。原作「待夜小室節」ではと重の井が許されたのは奥方の大殿への必死の歎願に依るのですが、改作「恋女房」では父・定之進という人物が新たに書き加えられて、父が娘の身代わりに切腹して大殿の許しを得る経緯に変わっています。だから「子別れ」における重の井の枷(主家への義理)が、改作ではよりドラマティックで重いものになっているのです。こうなるのは、尤もだと思える理由を後からこしらえているので・まあ仕方ないところです。

伊達与作は色男・モテ男で、「不義はお家のご法度」であるのに、重の井と許されぬ恋をして、子まで設けてしまいました。二人の間に生まれた子供が自然生(じねんじょ)の三吉です。

ちなみに当時の武家の結婚は家と家との合意でこれを行うもので、個人の意志で決めるものではありませんでした。男子が成人すると、家と家の格も考慮して親が適当な相手を探す。両家が内諾したら、まず主君に許可を願い出る。主君の許可を得て、はじめて結婚が成立するのです。だから主君の許しや親の許しのない男女関係は認められないばかりでなく、下手をすれば不義として手打ちになりかねないほどの重い罪でした。ところで歌舞伎には、家の掟を破って恋に走るカップルが沢山出てきます。例えば「寺子屋」の源蔵と戸浪の夫婦、「熊谷陣屋」の直実と相模の夫婦などです。彼らは不義でお手打ちとなるはずのところを、主人の情けで家を放逐されて、命を救われたのでした。彼らはこのことを主人への恩義としてずっと胸に秘め続けて来ました。だから主人に御恩を奉じなければならぬ強い内的な動機があったわけです。これが「寺子屋」や「熊谷陣屋」のドラマを動かす原動力です。現代においては、その当時、自由恋愛がご法度で・死罪となるほどの重罪であったと云うことが、まず納得されないと思います。だから「寺子屋」や「熊谷陣屋」の自己犠牲のドラマが、封建制度の論理で外側から個人に強制された悲劇のように映るかも知れませんが、源蔵夫婦・直実夫婦が感じ続けてきた主人への恩義の重さ(これを「負い目」であると考えないようにしてください)が理解出来れば、それは彼らが主人に対して自発的に行なわねばならなかった行為だと云うことが見えてくると思います。悲劇は彼らのなかに内的に発露するものです。

この論理が理解できないと、「恋女房」前半のクライマックス・五段目「道成寺伝授」が、観客を意外性でアッと驚かせるために仕掛けた作為的なドラマに見えかねません。そうならないためにも、定之進の悲劇を内的に発露したものとして捉えたいと思います。(この稿つづく)

(R5・4・29)


2)二代目鴈治郎の「道成寺伝授」

由留木家の若殿付近習・伊達与作は色男・モテ男で、「不義はお家のご法度」であるのに、重の井と許されぬ恋をして、子まで設けてしまいました。発覚すればお手打ちは免れるところですが、折しも鷲塚八平次の策略で・紛失した三百両の責任が与作になすりつけられてしまいました。律儀な父・伊達与三兵衛は怒って息子を即刻勘当に処し、家から追い出します。執権鷺坂左内は八平次の言い分に不審を抱きながらも、与作の不義の科が現れるよりはと、敢えて奸計を見逃すことにします。追放されていく与作に重の井は最後の対面を果たします。(二幕目・由留木家下屋敷の場)

不義の科が発覚した重の井は死罪と決まりますが、大殿・由留木左衛門の計らいにより、由留木家能師範で・重の井の父でもある竹村定之進のために親子名残りの舞い納めをすることが許されました。定之進は大殿に鐘入伝授を行うことを願い出て「道成寺」を舞います。ところが、鐘入りの後、鐘が上がって現れた後シテの蛇体に血が滲み出ます。鐘のなかで定之進が娘の身替わりに切腹したのです。脇僧を務める重の井は驚き、父に駆け寄って泣き叫びます。わが子を思う親の慈悲に心を動かされた大殿は、重の井の命を助けて・調姫の乳母にしようと約束します。これを聞いた定之進は大殿の情けに感謝し、鉄杖を持ってよろよろと立ち上がり・最後の舞を舞おうとしますが、倒れて息を引取ります。(三幕目・由留木家能舞台の場・いわゆる「伝授場」)

人形浄瑠璃「恋女房染分手綱」初演(宝暦元年・1751・2月大坂竹本座)は、特に「伝授場」が好評であったようです。「恋女房」改作に携わった吉田冠子は人形遣いの吉田文三郎の筆名です。文三郎は「千本桜」の知盛や「忠臣蔵」の由良助などの初演を勤めた人形遣いの大スターでした。同時に太夫連中と度々悶着を起こした我の強い人物でもあったようです。文三郎は自分が勤める役を如何に効果的に見せるかの術に長けていたことが、この「伝授場」からも明らかです。能「道成寺」の鐘が引き上がる瞬間は、「あれ見よ蛇体は現れたり」の詞章で後シテの蛇体が現れるだけでも十分ドラマティックであるのに、その蛇体が切腹していたとは、随分と衝撃的な趣向を編み出したものだと思います。

「伝授場」初演(定之進を遣ったのはもちろん文三郎)がどれほど好評であったかは、「伝授場」の定之進に使った首が、今日の文楽人形の首「定之進」として残っていることでも察せられます。「定之進」は「新口村」の孫右衛門などにも使われるもので、情の深い・柔らかな味わいのある舅首です。この「定之進」の首のイメージに、二代目鴈治郎の定之進はピッタリですねえ。定之進は愁嘆場のほとんどを面を付けたままで演じなければなりません。そこが歌舞伎役者にとって至難なところですが、鴈治郎は父親としての情を見せながらも、能師範としての風格をしっかり保っています。ほどよく力が抜けた和事の情味のなかに勘所でキュッと極まる世話と時代の緩急の使い分けが何とも見事なのです。

(R5・5・2)


 


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