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六代目愛之助の伊左衛門

令和5年3月歌舞伎座:「廓文章」

六代目片岡愛之助(藤屋伊左衛門)、五代目坂東玉三郎(扇屋夕霧)、四代目中村鴈治郎(吉田屋喜左衛門)、六代目上村吉弥(喜左衛門女房おきさ)


「廓文章」が芝居か舞踊かと云うのは難しい問題です。もともと近松の「夕霧阿波鳴渡」の上の巻からの改作であるので、芝居味の勝った舞踊劇というべきでしょうかね。舞踊という観点からすると、伊左衛門の和事芸のはんなりした柔らかい身のこなし(所作)が、どこか踊りの振りに通じる様式的な感覚が大事になると思います。そのせいか伊左衛門と云うと風情本位の役に見られることが少なくないようです。

しかし、伊左衛門は、同じく和事であっても治兵衛や忠兵衛とはちょっと違うところがある役です。それは伊左衛門が(勘当の身ではあるが)大店の若旦那であることです。一見なよなよしているようだけれども、どこかにピンとしたところがないと伊左衛門にならないのです。そこが伊左衛門のシリアスさ(実の要素)です。これが(反舞踊的な)芝居の要素に通じると思います。ですから「廓文章」は舞踊と芝居の要素の微妙なバランスの上に立っているのです。

「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」というのが、伊左衛門の性根を表す大事な台詞です。勘当の身であるから現実はどうにもならないわけですが、「そんなもん何とでもなるわい」と伊左衛門は心底思っています。そこが伊左衛門の人物の大きさです。それがあるから喜左衛門夫婦も誠意を以て伊左衛門に対するのです。本来ならば商売なのですから喜左衛門夫婦は、金のない伊左衛門に冷たく接しても良いはずです。そうならないところが、すなわち伊左衛門の人徳です。そのようなポジティヴ思考の伊左衛門であるからこそ、目出度く幸運の結末を引き寄せたということでしょう。他愛ない芝居のようだけれど、この芝居が教えるところはそう云うことかも知れませんねえ。ポジティヴ思考は大事なのです。

今回(令和5年3月歌舞伎座)の愛之助の伊左衛門ですが、花道に登場した最初の内はちょっと渋いかな・もう少し身体に色気が欲しいかなと思ったのは事実ですけど、後へ行けば行くほど尻上がりに面白くなる伊左衛門ですねえ。ともすれば舞踊の方へ(つまり風情の方へ)傾きがちな「廓文章」を、シリアスな芝居の感触へと引き戻した印象がします。伊左衛門の台詞ひとつひとつが、真実味を以て発せられていることが、よく分かります。「(夕霧に)逢わずにいっそ帰りましょ」も真実、「さりながら喜左衛門夫婦の心遣い」と言うのもどちらも真実です。多くの場合伊左衛門は、本音は夕霧に逢いたいのを喜左衛門夫婦のことを口実にするかの如く聞こえます。そうではなくて、「夕霧に逢いたいけれど憎らしさが募る、逢いたくないけど愛しさが募る」、二つの気持ちに揺れるところに伊左衛門があるのです。喜左衛門夫婦への感謝の気持ちは真実です。愛之助は、そのような伊左衛門の真実を適格に表現して見せました。付け加えれば、これは真実味のあるサポートを見せた鴈治郎と吉弥の喜左衛門夫婦の功績でもあります。

玉三郎の夕霧は変わることなく眼福ものの美しさです。愛之助の伊左衛門の実のおかげで、夕霧の美しさが一層引き立って見えました。上出来の「廓文章」でありましたね。

(R5・3・8)



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