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八代目染五郎初主演の「信康」

令和4年6月歌舞伎座:「信康」

八代目市川染五郎(徳川信康)、二代目松本白鸚(徳川家康)、二代目中村魁春(築山御前)、四代目中村鴈治郎(松平上野介康忠)、二代目中村錦之助(平岩七之助親吉)、初代中村莟玉(御台徳姫)、十一代目市川高麗蔵(本多作左衛門重次)他


「信康」は昭和49年(1974)3月歌舞伎座で初演された田中喜三の新作(信康は沢村精四郎・後の二代目沢村藤十郎)ですが、今回(令和4年6月歌舞伎座)は、染五郎(17歳)が信康を演じます。史実の徳川信康が切腹したのは20歳の時でしたから、実年齢に近い配役ということになります。なお染五郎は、この舞台が初主演だそうです。舞台は祖父・白鸚が徳川家康を勤め、周囲の役者も魁春・鴈治郎・錦之助・高麗蔵ほか揃っており、次代のホープ・染五郎に対する松竹の期待の程が察せられます。

史実の家康の嫡男信康が切腹に至る経緯については諸説あり、真相は定かではありません。本作「信康」に於いては、信康が天下人・織田信長から何らかの不興を買ったらしいと云うことで済ませており、政治的側面の深いところには踏み込みません。ドラマの焦点は、父(家康)と子(信康)との関係の方に置かれています。圧倒的な権力から嫡男の切腹を厳命された時、父はこれをどう思い、子はどう振る舞ったかと云うことです。このような状況に追い込まれた時、父は我が子を殺すに忍びないということは親の感情として当然渦巻くでしょうが、大事なポイントは、信長の意向を拒否するならば、徳川家は織田家と一戦交えることになるのは必定である、当時の状況からすれば、それはほとんど徳川家が滅亡することを意味すると云うことです。(すでに甲斐の武田家が風前の灯です。信長は容赦しないでしょう。)理不尽な要求を断固拒否し・あくまで息子を守り抜き・親としての道を貫くために信長と戦うと云うことは、如何にも正しく・美しいことのように思われますが、それでは一族郎党・多くの家来たち・領民までも戦火に巻き込むことになる。未来に徳川家の滅亡と荒廃しか思い描けません。徳川家の頭領とその嫡男として、家康も信康も、それぞれの立場で、そこのところをトコトン考えたのです。結果として、二人とも、「べき」論では動かなかったということです。本作「信康」で描かれるのは、そのような父と子の人間ドラマなのです。田中喜三は父の苦悩を察し・自ら切腹への道を選ぶ信康の心情を上手く描いたと思います。

本作「信康」は昭和49年初演ですが、感触としては岡本綺堂の新歌舞伎(左団次劇)の風味がしますねえ。台詞が新歌舞伎様式で発せられることを期待していると感じます。今回(令和4年6月歌舞伎座)の舞台は役者も揃っていますから、手堅い出来を示しています。一応の感銘は得られますが、細部の台詞廻しにおいて、もうちょっと新歌舞伎様式を意識してもらいたいなあと感じるところが随所にありますね。つまり何と云うか、歴史劇には見えるけれども、新歌舞伎には見えないと云うことなのです。これはちょっとした違いですが、そのちょっとしたところが大事なのです。信康の心情を、例えば綺堂の「番町皿屋敷」の青山播磨に重ねて、「散る花にも風情があるなア」と云う様式的感覚で捉えて欲しいと思います。フォルムが芝居を歌舞伎にするのです。これは主演の染五郎だけに云うのではなく、舞台の全員がそれを強く意識してもらいたいのです。家来たちの怒り・苦しみが、そのまま家康や信康の思いでもあるのですから。48年前の本作初演を吉之助は見ていませんが、この時期であれば、綺堂物でも青果物でも、新歌舞伎風味はまだしっかり残っていました。初演の舞台もそうであったはずです。近年は、そう云うものが消えかかっているようですね。

染五郎の信康は台詞が一本調子のところがありますが、17歳の若さなのだから・そこのところは今はまだ良いのです。それよりも評価したいところは、染五郎のひた向きさと爽やかさ、そこが散りゆく若者の潔さに相通じるということです。そこはしっかり出来ています。台詞については言葉の息・抑揚に応じて緩急と・声の調子(色合い)を微妙に変えていくことを学んでほしいですね。そのためには台本を口に出して徹底的に読み込むこと(朗読すること)、この訓練がまだ十分ではないようです。立派なお手本(祖父白鸚)が傍にいるのですから、早急にそれを習得してもらいたいものです。ともあれ初主演として上々のスタートを切ったのではないでしょうか。

(R4・7・24)



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