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「玉三・道春館」の難しさ

昭和55年12月国立劇場:「玉藻前曦袂〜道春館」

六代目中村歌右衛門(後室萩の方)、三代目実川延若(鷲塚金藤次秀国)、七代目中村芝翫(姉娘桂姫)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(妹娘初花姫)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(安倍采女之助泰晴)、五代目中村富十郎(勅使中納言重之)他


1)「玉三・道春館」の難しさ

本稿で紹介するのは、昭和55年(1980)12月国立劇場で上演された通し狂言「玉藻前曦袂」(たまものまえあさひのたもと)上演映像ですが、本稿ではそのうち「道春館の場」を中心に取り上げることにします。「玉藻前」全体については別の機会に考察することとします。九尾の狐伝説を題材にした「玉藻前」は明治半ば頃までは人気狂言で芝居や人形浄瑠璃でもよく取り上げられたものでした。特に「道春館」は有名で、この場を「玉藻前曦袂」の三段目と云わなくても・通称「玉三」で通ったものでした。これだけでその昔の人気のほどが察せられると思います。しかし、昭和に入ると「道春館」の上演が次第に減っていき、昭和50年以降になると上演は、この昭和55年12月国立劇場(六代目歌右衛門の萩の方)と、平成3年(1991)9月歌舞伎座(七代目芝翫の萩の方)の、2回だけに過ぎません。幸い吉之助はこの二つの舞台とも生(なま)で見ることが出来ましたが、これ以後・令和の現在までに「道春館」上演がまったくないのです。このように本来基本的レパートリーでなければならないものに久しく上演が絶えている演目が、「道春館」だけでなく、実は少なからずあるわけなのです。伝承という見地から見ると、甚だ心もとない現状です。

とは云え再演がないということは、まあそれなりの理由がないわけでもなかろうと思います。まず「玉藻前」の九尾の狐(殺生石)伝説が、民間にもう親しいものではなくなりました。「道春館」自体は九尾の狐の本筋から離れた独立した場なので単独でもっと上演されても良さそうなものですが、本筋に興味がなければ部分に関心が行くはずがありません。そのような事情もあるでしょうが、今回改めて昭和55年12月国立劇場での「道春館」映像を見直してみると、なるほど「道春館」は難物だなあと思いました。多分そんなところが再演の障害になっていると思います。しかし、難物だからと言って挑戦をしないのであれば伝統はそこで絶えてしまうわけですから、そこのところは別箇に考えてもらいたいと思います。

まず「道春館」は、一見したところ、「弁慶上使」(「御所桜堀川夜討」三段目)と「山の段」(「妹背山婦女庭訓」三段目)を綯い交ぜにしたような筋立てである上に、舞台上で起こる悲劇がいささか表層的である、観客を泣かせるために仕込んだ悲劇、わざとらしい悲劇に見えると云うことかと思います。萩の方が二人の娘のうちどちらか一人を殺さねばならないという悲劇かと思いきや、どちらを殺すか、双六の勝負で負けた方を殺そうという話へ展開します。ここで双六が登場するのにちょっと驚く(と云うか呆れる)けれども、さらに驚くことには、勝負に勝った桂姫を鷲塚金藤次が斬ってしまうのです。ところが、桂姫が実は金藤次が昔捨てた娘であったということが判明して、芝居が金藤次の悲劇へとひっくり返る。そうなると母である萩の方の悲しみがすっ飛んでしまいます。殺された桂姫が自分は何で殺されたか自覚しないままなので、桂姫の悲劇が際立ってこない。かと思うと、金藤次が落ち入る幕切れには大内から勅使が登場して、「初花姫を宮中に召し出して玉藻前とする」と云う話になる。こう書くと何だか悲劇だったはずがハッピーエンドで終わったかの如く聞こえると思いますが、この後の場で、参内する初花姫を九尾の狐が喰い殺し玉藻前を入れ替わってしまうことになるのです。つまり「玉藻前」の九尾の狐の本筋がここから始まるわけですから、「道春館」はまだ導入部みたいなものです。そうすると「玉藻前曦袂」の「道春館」は、いわゆる時代物の三段目(通し狂言の芯としての悲劇)として正しく出来上がっているのかと云う根本を疑わざるを得ません。なるほど「道春館」は難物であるなあと感じるのは、そのようなところです。

しかし、「道春館」をどのような悲劇にするかは、多分、読み方(解釈)によって何通りにも変わって来る、或いは複数の役者の色合い・バランスによってもいろいろ変わって来ると云うことだろうと思いますねえ。それほど「道春館」の構成は複雑です。言い方を変えれば錯綜して纏まりがありません。しかし、まあ昔の芝居と云うのは、実はこんなものが多かったのです。大抵の場合先行作が存在して、それを下地にして新しい趣向・工夫を付け加える、そんな感じで出来ているからです。こうした連鎖がいつくも繋がると、芝居はいろんな趣向を取り込んで・ますます纏まりが付かないものになっていく。そうなることが多いでしょう。しかし、ヒョンなことから名作が生まれることもあります。「先代萩・御殿」などはそんな名作のひとつだと思いますが、それはやってみなければ分かりません。そこで「道春館」の成立過程を調べると、案の定経緯が錯綜しています。「道春館」は難物である事情が、この辺に潜んでいそうです。(この稿つづく)

(R4・5・17)


2)二段目か・三段目か

現行「道春館」の先行作になるものは、寛延4年(1751)1月大阪豊竹座で初演された「玉藻前曦袂」の二段目なのですが、それは道春館ではなく・右大臣通忠卿の館です。しかも通忠卿は存命です。だから萩の方は後室ではなく、御台所なのです。金藤次が桂姫を斬るまでの経緯はほぼ同様ですが、金藤次は二段目中では死にません。金藤次は斬った桂姫の首を振り袖に包んで持って帰ってしまいます。金藤次が去った後、通忠卿が残された扇を見ると、金藤次の筆で・捨て子であった桂姫の父が自分であることはかねて知っており・せめてこれまでの御恩報じにと首を打ったと記してあって、一同驚き感じ入ると云う筋であるようです。金藤次は五段目で薄雲皇子に諌言して自害をするそうです。

本作を元にして、前半(序段・二段目)に天竺にいた九尾の狐が唐を経て日本へと渡来する経緯を加えるなどして大幅な書き換えを施したものが、文化3年(1806)3月大坂御霊境内内芝居の初演された「増補玉藻前曦袂」(ぞうほたまものまえあさひのたもと)でした。この時に先行作の二段目通忠館が、三段目道春館として書き換えられたのです。現行「玉三」として知られるものが、それです。従ってこれはホントは「増補玉藻前曦袂・三段目」なのですが、冠の「増補」が取れちゃったわけです。主たる改訂は、萩の方を後室(未亡人)にして・夫婦でなく・女性ひとりにまとめたこと、金藤次を典型的なモドリの役に仕立て・三段目中で死ぬように変えたことです。

「浄瑠璃素人講釈」のなかで杉山其日庵は、「玉三」は義太夫節中の大困難なる物と断じ、いつくか理由を上げています。確かにその難しさの筆頭は金藤次の心理変化にあるのでしょうが、モドリの前半・つまり金藤次が悪役面をしている時に本心を匂わせることが出来そうな場面がほとんどなく、誰がやっても「寺子屋」の松王のように行きそうもありません。そもそも金藤次は初めから桂姫の首を取りに来ているわけで(ただし初めは桂姫が自分の捨てた娘であるとは知らないのだが)、結局桂姫を切ってしまったところから振り返ると、それならば双六の勝負なんか最初からさせる必要ないじゃないか、あれは観客をハラハラさせるためだけの趣向だったのか?と云うことになってしまいそうです。

桂姫をあくまで采女之助への純愛を貫いて死のうとする女性だとして、「妹背山」の雛鳥に比そうとする見方もあるようですが、この見方もちょっと無理がありそうです。萩の方と妹の初花姫が・桂姫に「生きて」純愛を貫かせようとあがいている割に、桂姫の方に「死に急ぐ」葛藤が見えないようです。だから金藤次に斬られてしまった後には、金藤次が昔捨てた娘であったということで殺されて「可哀そう」という感じにはなりますが、薄雲皇子の求愛を拒否して采女之助への純愛を貫いて死んで「可哀そう」という印象があまりしません。その結果、「哀傷」という三段目の格に「玉三」がしっくり嵌らない感じがします。

結局、吉之助が思うことは、もともと先行作の「通忠館」が二段目であって・つまり「修羅」の格で芝居が出来上がっていたものを、三段目の格(哀傷)に仕立て直したことの無理が来ているのではないかと云うことです。脚本を読めば、なるほど萩の方を未亡人にして独りで押し出して、形は一応愁嘆場っぽい体裁です。しかし、それは頭でこれは三段目だから形は付いていると理解するだけのことで、感覚的にこれが「哀傷」にぴったり嵌っていると思えないのです。基礎部分が二段目なのに・その上に三段目の上屋を乗せたみたいな格好になっています。登場人物六名、金藤次・萩の方・桂姫・初花姫・采女・御勅使が、相互に絡んだり・衝突するところがあまりありません。それぞれ立派なお団子が串に刺さって六つ並んでいるような印象です。これが「玉三」のドラマの構えを実際よりも大きく見せている、しかし、実質はさほどでもないと云うところではないかと思います。

このように書くと、「玉三・道春館」が上演されなくなったのも当然だと云う風に読まれてしまいそうです。吉之助が言いたいことはそうではなくて、そのような「玉三」の構造的欠陥を正しく認識したうえで、「玉三」を三段目としてどのように紡いでいくか、これが大事だと云うことです。その鍵が、金藤次と萩の方のドラマのなかでの比重にあることは言うまでもありません。(この稿つづく)

(R4・5・20)


3)「玉三」の問題点

「浄瑠璃素人講釈」のなかで杉山其日庵は、現行「玉三」(つまり文化4年初演の「増補・玉藻前・三段目・道春館)は、真の東風で「ギン」の音の遣い分けが難しいと云うことを書いています。「東風」とは豊竹座の語り口で、三味線に対して高めの音域で語るのが特徴とします。華やかな音で観客の情感に訴える語りでした。(竹本座の西風は、これとは逆に三味線に対して低めの音域で語る質実剛健な語りのこと。)寛延4年(1751)大阪豊竹座初演の先行作(二段目通忠館)について吉之助は詳しいことを調べていませんが、其日庵の言を聞くならば、現行「玉三」は先行作の詞章・節付け(東風)を濃厚に残したものであることが察せられます。書き替え物とは云っても、先行作の部分的手直しなのです。つまりまさに「増補・玉三」であったわけです。

先行作では、通忠卿が金藤次に対し、桂姫は子供のなかった夫婦が願掛けをした帰路に見付けた捨て子であり・いわば神様からの授かり物である、またいずれとも分からぬ生みの親に対しても桂姫を殺しては義理が立たぬ、従って桂姫の身替わりとして(実の娘である)初花姫を立てたいと主張するのに対し、金藤次は桂姫が浪々の時代に捨てた我が娘であることを知って、育ての親(通忠卿)に対する義理を立て、桂姫を斬って・初花姫を助けると云う展開です。つまり通忠卿(育ての親)と金藤次(生みの親)の互いの義理が真向ぶつかりあって意外な展開を生むという構図であるので、なるほどこれは二段目の格(修羅)であるなあと思います。

現行「玉三」は大筋で先行作を踏襲していますが、先行作の通忠卿を萩の方に置き換えて、その分義理よりも、桂姫に采女之助への純愛を貫かせてやりたいとする「女の情」を前面に押し出しています。一方、金藤次の方は、先行作ではそ知らぬ顔をして桂姫の首を持って立ち去ってしまいますが、現行「玉三」では采女之助に刺された金藤次が、瀕死の体で桂姫を斬った事情を告白し、娘の首を抱えて泣き、典型的なモドリの役どころへと書き替えられています。つまり、萩の方の「女の情」と、金藤次の「父親の情」が交錯するわけで、浄瑠璃作者の目論見として、これで三段目の格(哀傷)に仕立て直すということであったことは疑いありません。まさに「弁慶上使」と「山の段」を融合させたような三段目を目論んだのです。目の付け所としては、確かに面白い。設計図の意図はよく分かるのですが、しかし、出来上がった舞台を見ると、あまり具合が宜しいとは云えないようです。

其日庵は、「出て来る人形が、金藤次・萩の方・桂姫・初花姫・采女・御勅使と上品な者ばかりで、下女も下男も出ないので照応の標準がなく、上品な中で各々異なりたる人格を描き分ける芸の技量が甚だ困難」ということを書いていますが、例えば今回(昭和55年12月国立劇場)の舞台を見ても、そのことは痛感します。萩の方(歌右衛門)の持ち場においては金藤次(延若)が手持無沙汰、金藤次の持ち場においては萩の方が手持無沙汰の感がします。歌右衛門も延若も気合いが入った演技を見せており・それぞれの持ち場に於いてなかなかのものなのですが、全体として見ると、どうもそれぞれの役ががっぷり四つに組んだ芝居の醍醐味が薄い不満が残るのは、作品が三段目の格にしっくりはまっていないからで、やはりそこが作品の問題点ということになるでしょう。

まあそれは兎も角、歌右衛門は「妹背山」の定高を当たり役にしているわけですから、萩の方も風格十分で悪かろうはずがありません。堂々の女丈夫の萩の方になっています。延若の金藤次も、古怪な風貌がマッチして見事なモドリになりました。歌右衛門の萩の方に拮抗する金藤次を演れる役者は、延若しかいないでしょうねえ。桂姫を芝翫が勤めるのは、もったいな過ぎるくらいの配役ですが、後に(平成3年9月歌舞伎座)本作再演の際には芝翫が萩の方を勤めたわけですから、これが良い伝承機会になったわけです。「玉三」のような作品を上演する時は、後々の上演のことも念頭に置いた配役を心掛けることは大事なことですね。

今回の「玉藻前」通し上演は、戸部銀作の演出です。今回の「玉三」の上演台本は、歌右衛門が前回上演した昭和44年(1969)9月歌舞伎座の上演本が再検討なしで・そのまま使用されたそうで、これは不満が少なくありません。本行(文楽)では御勅使が初花姫が宮中に召し出しす旨伝えて後に金藤次が落ち入るところを、御勅使到着前に金藤次が落ち入る段取りに変更したのは、ドラマを中途半端に終わらせた感じがして、これはよろしくありませんね。段切れはしっかりドラマが終結した感覚を観客に与えてもらいたいと思います。このことは、切場では大事なことなのです。

筋が前後しますが、本行「玉三」冒頭部で采女之助が桂姫に「(薄雲皇子の求愛を桂姫が受け入れれば)無事に治まる浪風、もし御得心なき時は御後室様の御身の上、ここをよう弁(わきま)えて拙者がことは思ひ諦めくだされ」と説得する場面がカットされているのも、如何なものかと思います。桂姫があくまで采女之助への恋心を貫こうとする健気さに萩の方の苦しみがあり、観客が本作を「妹背山・山の段」の定高・雛鳥のイメージに重ねたくなるのも、この場面がある故に違いありません。

それと采女之助(福助)が金藤次を刺し・刀を抉ろうとしたところを金藤次が「暫し」と留め・モドリの告白を長々と始めるわけですが、ここで采女之助が刺した刀を引き抜いてしまうのは、これは一体どういうことでしょうか。ここは、金藤次は、刀を腹に刺したまま・腹帯をきつく巻いて止血して、モドリの告白を続けるのが正しいのです。刀を抜いてしまったら大量出血して金藤次が死んでしまいます。本行を見れば、最後の場面で「道の案内と鷲塚が刀を抜けばがっくりと・・」とあるわけですが、そうなっているのは当たり前だと思いますがねえ。(再演があるかどうかも分からない)通し上演の筋を「分かりやすくする」なんてことよりも、まずは「玉三」の十全な形を後世のために残すことこそ、監修者・演出者の責務ではないでしょうかねえ。

(R4・5・30)


 


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