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六代目勘九郎の大蔵卿・二代目獅童の鬼次郎

令和4年1月歌舞伎座:「鬼一法眼三略巻〜一條大蔵譚」

六代目中村勘九郎(一條大蔵卿)、二代目中村獅童(吉岡鬼次郎)、二代目中村七之助(お京)、三代目中村扇雀(常盤御前)、三代目中村歌女之丞(鳴瀬)他


1)勘九郎の大蔵卿

近年「一條大蔵譚」の上演頻度が高いようです。大望を秘めつつ・不本意ながら世を欺き・雌伏せざるを得ない大蔵卿の哀しみが、本音で生きていくことの難しさをどこかに感じている現代人の人生と重なるところがあって、そこが興味を引くと云うことかも知れませんねえ。勘九郎の大蔵卿は、平成24年(2012)3月平成中村座以来の2度目だそうです。大蔵卿は祖父・父の当たり役でもありました。父・十八代目勘三郎の大蔵卿は愛嬌が勝って・作り阿呆と本性とをカチャカチャと鮮やかに切り替えるやり方でした。そこをあざとくなる寸前で留まるところが十八代目の巧みさ・面白さでしたけれども、勘九郎は愛嬌をあまり強調しない方向で、作り阿呆を抑え目に作っています。父とは芸質が微妙に異なりますから、真面目さが勝つ勘九郎にはこのやり方が似合っています。そこに勘九郎の成長が見えます。桧垣茶屋での作り阿呆はイヤ味のない出来で、奥殿での見顕わしも爽やかな仕上がりになりました。

勘九郎の成長を認めたうえで若干の注文を付けたいのですが、大蔵卿に作り阿呆と本性の間に落差を大きく付けないやり方には吉之助も賛成です。大蔵卿の「嘘か実(まこと)か」という境目が曖昧な様相を呈することが大蔵卿という役の本質であることは言うまでもないですが、そのような厳しい現実に生きねばならぬ大蔵卿の悲哀は、やはり実を基調に描かれなくてはならぬと思うのです。作り阿呆は嘘ですが、実までもが嘘のように見えてしまってはいけないわけなのです。実はどこまでも実である。だからユラユラと曖昧な様相ではあっても、実はやはり実の方向で感知されねばならぬと思います。つまりユラユラと揺れる感覚が軽めのところで揺れるのではなく、やや重めの感触のところで揺れると云う風にして欲しいと思います。桧垣茶屋はこれで良いと思いますが、奥殿の大蔵卿についてはそこに改善の余地を見ます。

分かりやすく「七段目」の由良助を例に説明しますが、由良助を引き合いにするのは勘九郎もいずれ由良助を視野に入れる時が来るであろうからそうするのですが、茶屋場での由良助の遊興三昧を、仇討ちの本心(実)を隠すために酒に浮かれた振りをする・だから遊興三昧のポーズ(虚)を強調した役作りを考えると云うのではなくて、仇討ちの本望(実)を柔らか味(虚)で隠そうとするが・覆い隠そうとしても実がついつい見えてしまう・この方向で実をベースに役作りをした方が、「やつし事」の約束に沿うということです。「今わたしが取っているポーズはわたしが本当に望んでいることではない」というのが「やつし」であるからです。(別稿「七段目の虚と実」を参照ください。)大蔵卿の場合も同様に考えて欲しいと思います。

先ほど勘九郎の奥殿での大蔵卿の見顕わしを「爽やか」と書きました。もちろん良い意味で書きましたが、爽やかさ・軽やかさの裏腹で「軽い」という印象もしないわけではない。そこの兼ね合いが難しいので、軽めの印象になってしまうと、大蔵卿の実まで嘘っぽく見え兼ねないのです。悪くない出来ですが、見終わって腹応えがいまひとつなのは、そこにも原因があるでしょう。ここはもっと強く実を感じさせて欲しいのです。軽めの印象に感じてしまうのは、ひとつは、全体を通じて台詞のトーンを高調子に近いところに置いているせいです。台詞の高調子は、勘九郎に限ったことではないですが、若手役者の義太夫狂言に共通する問題点ですね。高調子に置けば阿呆の性根はやりやすいに違いありませんが、大蔵卿の実を描くことを視野に入れるならば、全体の調子をもう少し下げて、実の基調へ近づけることです。阿呆は口調で仕分ければ良いのです。もうひとつは、実の台詞のリズムの打ちが軽いせいです。ここは台詞のトーンを低めにして・台詞のリズムを重みを以てしっかり踏むこと(そのためにはテンポをもう少し落としても良いでしょう)で、大蔵卿の実をもっと強めに感知させることです。そうすることで、作り阿呆と本性の間に落差を付けないやり方が、勘九郎の個性でもっと生きて来ると思います。(この稿つづく)

(R4・1・15)


2)獅童の鬼次郎・七之助のお京

今回(令和4年1月歌舞伎座)の舞台では、獅童の鬼次郎が義太夫狂言の枠組みにしっくり嵌っていません。煽りを食ったか・七之助のお京の出来も、いまひとつです。この芝居のなかでの鬼次郎夫婦ですが、「嘘か実(まこと)か」で変転する芝居のなかで、揺るぎのない実を示すのが夫婦の役割です。夫婦の実に感応して、静御前も大蔵卿も、最後に実の姿を彼らに見せることになります。ここで大事なことは、こちら(源氏)は正義で・あちら(平家)は悪であると決め付けて、鬼次郎夫婦が声高に自らの正義を主張し、怒り心頭で常盤御前の不実を責めるのではないと云うことです。獅童・七之助が演じる鬼次郎夫婦を見ていると、自らの正義感のみで憤懣やる方ないと云う感じがしますねえ。背後に見える世界観が単純である。だから深みが感じられません。これでは大蔵卿も常盤御前も、おいそれと本当の姿を表わすことは出来ません。

どちらが正義かどちらが悪かは、政治信条や立場の相違で見え方が異なるものです。例え源氏が正義であるように見えたとしても、「平家物語」の世界に於いてはそのように見えると云うだけに過ぎません。それよりも、もっと大事なものがあるのです。それは「人としての道」つまり実(まこと)と云うことです。本作では、(平治の乱で敗退して亡くなった)源氏の頭領・源義朝の北の方としての常盤御前の実が問われています。事もあろうに常盤は夫の敵であるはずの平清盛の寵愛を受け入れた(義朝の三人の遺児を守る為であったかも知れないが真相は明らかでない)と云うことで、後世においても常盤の行動については議論があるところです。近松門左衛門の「平家女護島」三段目朱雀御殿でも、常盤は身を捨てて子供たちを守った貞女なのか・それとも色狂いかと云うところが問われています。これは本作でも同様です。ただし鬼次郎夫婦は、常盤に対してのみ「人としての道」を問うているわけではありません。源氏の一党(家来)としての「人としての道」をより一層厳しく自らに問うということでもあるのです。そうでなければ、鬼次郎に弓で打擲された常盤が「あっぱれ忠臣吉岡鬼次郎、ホホ出かしゃったなあ」と言い出すことになりません。つまり常盤の側からも鬼次郎夫婦の「人としての道」が試されていた。このことが後に明らかになるのです。

ですから鬼次郎が感じる憤懣は、あちらもこちらも悪(平家)に靡(なび)く現実から来るのではないのです。鬼次郎の憤懣は、自分が理想とすることが儘(まま)ならない・自分の力では如何ともし難いこの状況から来ます。憤懣は自分のなかに在ることを忘れてはなりません。ここから本作が、本音で生きていくことの難しさをどこかに感じている現代人の人生と自然に重なって来ることになるのです。「大蔵卿」の現代性がそこに在ると考えてもらいたいのです。この点において、獅童の鬼次郎は、背景にある世界観がまだ薄っぺらいと云うか、いささか性根違いに思われますね。桧垣茶屋での鬼次郎の口調が、単純な正義感から「常盤御前は許せん・・」と怒っている風の強い調子に聞こえます。茶屋亭主との会話でお京が「源氏は今に埋れ木の・・」と言いかけると「コレェ!」と大声で一喝する。どう見ても鬼次郎の声の方が無神経にデカいと思いますがね。そもそもこの場の獅童の鬼次郎は武士の性根丸出しで、大時代に過ぎます。七之助のお京も口調が高調子に過ぎます。この場面の鬼次郎夫婦は、世話口調で・もっと柔らかく話すべきところです。こう云うところに義太夫狂言の経験不足が出ますね。茶屋亭主が話し好きで・聞かれないことまでベラベラ話しているように見えてしまうならば、それは鬼次郎夫婦がいけないのです。茶飲み話にこと寄せて鬼次郎夫婦は大蔵卿屋敷の様子をそれとなく探りを入れて亭主から情報を引き出すのですから、口調をもっと亭主の線にまで下げなければなりません。優れた舞台ならば鬼次郎夫婦はそこのところきっちり出来てますから、過去映像を選んで・よく研究をすることです。

今回の「大蔵卿」の腹応えがいまひとつと感じるのは、勘九郎の大蔵卿にも改善の余地があるには違いないですが、上述のような作品の「嘘か実か」と云う時代構造を(奥殿での大蔵卿の見顕わし前までに)鬼次郎夫婦が十分用意出来なかったことが大きかったように思われますね。

(R4・1・18)



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