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四代目猿之助・久しぶりの狐忠信

令和4年1月歌舞伎座:「義経千本桜〜川連法眼館」

四代目市川猿之助(源九郎狐・佐藤忠信、二役)、五代目中村雀右衛門(静御前)、八代目市川門之助(源義経)、六代目中村東蔵(川連法眼)、二代目市川笑也(法眼妻飛鳥)


猿之助にとって久しぶり(5年半振り)の「川連館」ですが、このところの猿之助の芸の充実を裏付ける舞台に仕上がりました。たっぷりした量感があって、所作のひとつひとつに説得力がある。かと云って過度に重ったるくなることもない、猿之助の「川連館」として・ひとつの到達点に達したものと言ってもよろしいのではないでしょうかね。肉親への情愛を大切にする源九郎狐が・義経から初音の鼓を受け取って目出度く去るということで筋が納まって、見取り狂言の一幕として完結した間尺になっています。まあ吉之助は臍曲がりなので、「川連館」は四段目端場であるから・本来はもう少し感触を軽めにした方が・・とかチラと思わないでもないけれど、この後に吉野花矢倉の場が続くのであれば・そう云うことになると思います。しかし、初春興行の見取り狂言の間尺と見れば、今回は程良いところに落ち着いています。これはこれで良いと云う気がします。

今回の舞台が良かったのは、義経に門之助・静御前に雀右衛門など配役バランスの良さに恵まれたおかげです。全員が同じ方向を向いて芝居していることの良さが出ています。門之助の義経は、本物の忠信に「身に覚へ候はず」と云われれば気色を変えて「黙れ忠信」と叫んだり、狐忠信の述懐を聞けば「親とも思ふ兄親に見捨てられし義経が、名を譲つたる源九郎は前世の業(ごう)、われも業」とホロリとする。その辺、まことに正直で人間的な義経です。人間義経がやや前面に出た感じはあります。まあそこが現代の義経観の反映なのでありましょうかね。吉之助としては・こういうところで感情をあまり出さずサラリと云うところに義経の神性を見たいと思う立場ではあります。しかし、門之助の義経は品位を損なうことはありません。その点で抑えられたバランスの良い義経であったと思います。これは猿之助の狐忠信の行き方とも照応したものであったと思います。これからの歌舞伎では、(熊谷陣屋でも勧進帳でも)こういう感じの義経が多くなっていくでしょうねえ。

雀右衛門の静御前も、こう云う役はニンがぴったりということもありますが、源九郎狐の境遇に感応するセンスがあって良い出来です。ただ表現がやや内輪で・色合いが暗めの感じがします。これを情味と取るならば暗めであっても大きな不満はないのだけれど、しかし、狂言の彩りとしては、もう少し華やかなものを求めたい気がします。雀右衛門が立女形として・もうひとつ上の段階を目指すために、そこはクリアしてもらいたいのですがね。

猿之助の忠信・源九郎狐二役については、過去の観劇随想では・重ったるく感じられた箇所をいくつか指摘しましたが、今回の舞台ではその辺も抑えられて、良いバランスになってきたのではないでしょうか。演技に余裕が出てきたということでしょうが、今回の源九郎狐は愛嬌がこぼれるようでしたね。

コロナによる興行形態の自主規制は現在も続いていますが、1月からは歌舞伎座の観客収容枠は50%から68%へと緩和され、併せて自粛されていた客席上の宙乗りも再開になりました。今回の「川連館」の狐忠信はいつも通り花道上を飛行して三階鳥屋に消えたということで、こうして歌舞伎興行もコロナ前の形に少しづつ戻ろうとしている手応えが感じられた点で、或る意味・記念すべき上演ではなかったでしょうか。

(R4・1・6)



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