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四代目鴈治郎の浮世又平〜「傾城反魂香」

令和2年12月京都南座:「傾城反魂香〜吃又」

四代目中村鴈治郎(浮世又平)、三代目中村扇雀(女房おとく)、初代中村寿太郎(土佐将監)


1)石切の奇跡

本稿で紹介するのは、令和2年12月京都南座での映像で、NHK放送では後半22分(又平夫婦が自害を決意する場面以降)のダイジェストでしたが、近頃珍しい上方式の「吃又」であるので取り上げておきたいと思います。現在での「吃又」は原作(丸本)に回帰した六代目菊五郎の演出で行なわれることがほとんどで、吉之助が見た平成27年2月大阪松竹座での・四代目鴈治郎襲名での「吃又」も菊五郎型でありました。この時に「せっかく初代鴈治郎が得意にした「吃又」を襲名でやるならば滑稽味を強調した在来型でやってみたらどうかな」と書いた記憶があります。鴈治郎が従来型で「吃又」を演るのは今回(令和2年12月京都南座)が初めてでないかも知れませんが、吉之助は初めて見ました。襲名以降の鴈治郎は、だいぶ余裕が出てきたようで、その丸く福々しいお顔で独自の位置を主張できるようになって来て、いくつか印象深い役を挙げることが出来ます。今回も、ニンを生かしてなかなか面白い「吃又」に仕上がったと思います。

菊五郎型と在来型の一番大きい違いは、在来型では最後の場面で師・将監が刀で又平が自画像を描いた手水鉢を真っ二つに斬ると又平の発声障害が完治してしまうと云う点です。(近松の原作≒ほぼ菊五郎型であると、節が付いた台詞ならば吃らないということでめでたく大頭舞で舞い納めますが、発声障害が治るわけではありません。)将監が「石切梶原」みたいなことをするのには、独自の理屈があるようで、文楽床本を見るとこれは

「ホホウ疑はしくばいひ聞かさん。そのむかし都誓願寺の御仏は賢聞子(けんもんし)芥子国といひし人。親子名乗りのその印。片形作り合せし御仏なりしに、しかるにこの仏体、朝暮両眼より御涙しきりなりしに、時の名医これを考へ、五臓を作り込んだる仏体なれば、正しく肝の臓の損じならんと、二つに分けてこれを直せば、たちまち涙止りしこと、いまの世までも割符の弥陀とナ、コリャ隠れなし。この理をもって又平が魂込めしこの絵姿、絵は吃らねど吃るは舌。舌はもとより心の臓。その心の臓調はざるゆゑ口吃る。いま石面の又平を二つに切破るこの将監。絵師の手のうち、なか/\思ひよらねどもコレ、この刀は主人より給はる名作。その名作の奇特をもって心の臓を断切ったれば、吃ることはよもあらじ」(文楽床本)

と云うのです。つまり発声障害は神経の伝達回路に何か問題があるからだ、そこに衝撃を与えて神経の流れを正せば、発声障害が治るということでありましょうかね。(この稿つづく)

(R3・1・12)


2)鴈治郎の又平・扇雀のおとく

手水鉢を斬ったら発声障害が治ると云う発想は、芝居の突飛な趣向として「吃又」改作のなかに取り込まれたわけではないと思います。江戸の民衆が「発声障害は神経の伝達回路に何か問題があって起こるらしい」としたことは、これは当時なりの科学的思考と考えるべきです。そこにそれなりの理屈があるのです。師・将監が又平は未だ画において功績なしとした理由と、又平の発声障害とが重ねられています。又平は絵描きとしての技量は確かに備えていたでしょう。しかし、何らかの問題があって・又平は内にあるイメージを自由に表現することが叶わなかったのです。そこに又平の内なる問題があったのです。又平がすべてを捨てて虚心に筆を取った時、又平は画の極意の何かを掴んだということです。この時、画の石抜けの奇跡が起きます。

当時、浮世絵の始祖は岩佐又兵衛(実在の絵師、天正6年・1578〜慶安3年・1650)であると信じられていました。江戸の民衆は、又平=又兵衛の発想で、「吃又」の浮世又平のモデルが岩佐又兵衛であると考えたようです。又平は生活費を稼ぐために大津絵描きのアルバイトをしていました。旅人の土産物として売られていた民衆絵に過ぎなかった大津絵が、又平が土佐の苗字を戴いたことで「昇格」することになりました。「吃又」は、我ら庶民の絵師・又平の目出度い出世物語であるとされたのです。これは確かに近松門左衛門の丸本とは確かに趣が多少異なるものかも知れません(六代目菊五郎が「吃又」の原作回帰を志向してシリアスに仕立てたのはそのような理由からです)が、「吃又」が特に上方を中心に人気作になるにつれて、次第に丸本を離れ、又平が滑稽化していく背景には、又平に対する大坂町人の強い共感・親しみがあるのです。現在の「吃又」は菊五郎型がもっぱらになっていますが、在来の上方型も、江戸期の庶民の真実を見せるものとして大事にしたいと思います。

 今回(令和2年12月京都南座)での鴈治郎は、又平の滑稽味をあざとくなく、過剰な味付けにせず、いい塩梅に見せてくれたのではないでしょうか。昔の「吃又」では、師匠への土産に持参したウナギが逃げたと云って・あちらこちらを探して慌ててみたり、いろいろ滑稽な入れ事がされたそうです。そういうのが昔の大坂では受けたわけです。しかし、今はそこまではねえ・・・東京人である六代目菊五郎がそういう大坂の笑いの・こってりしつこいところを嫌ったであろうことは吉之助にも理解ができます。吉之助が思うには、菊五郎型で演るならば又平はシリアスに徹した方が良いだろうと思います。なまじっか滑稽味を加えようとするとどうしても中途半端になってしまいます。菊五郎型はそこが難しい。

ですから「頑張れ、それ行け、又平」という大坂町人の気持ちを「吃又」に込めるならば、又平は自然と滑稽化してしまうことになるのでしょう。そうすると在来の上方型はやはり捨てがたい。鴈治郎の又平は、ニンを生かして、真面目ななかに・どこかとぼけた味があるというところを上手くみせてくれたと思います。扇雀のおとくも出過ぎず、鴈治郎の又平のサポートに徹して、情のある良い出来に仕上がりました。

(R3・1・18)



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