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十五代目仁左衛門の「石切梶原」

令和2年10月歌舞伎座:「梶原平三誉石切」

十五代目片岡仁左衛門(梶原平三景時)、五代目中村歌六(六郎太夫)、初代片岡孝太郎(娘梢)、初代坂東弥十郎(大庭三郎景親)、六代目市川男女蔵(俣野五郎景久)


1)「石切梶原」のサプライズの構造

「石切梶原」は、よく舞台に掛かる人気演目です。配役バランスが良いのでプログラムに組み込みやすいこともあるでしょうが、やはり主役が演じて気持ちが良いというのが一番の理由でしょうねえ。生締めの梶原は刀を振り回してカッコいいし・情理豊かな人物に描かれており、他の時代物の主役に付き物の悲壮感をあまり感じません。そこがまたいい。というわけで長く演じられていくなかで、歌舞伎の梶原は、だんだん爽やかで・機嫌の良い役どころとして固められて来ました。もちろんそれは作品のなかにそうなる理由があって・そうなって来たわけです。

ところで吉之助は臍曲がりだからこういうことを考えるのですが、文楽・歌舞伎での梶原平三景時は、義経としばしば反目し・頼朝にこれを讒言するなど大抵腹黒い悪役として描かれて来ました。ほとんど唯一「石切梶原」においてのみ、梶原は思慮深い正義の侍として描かれます。ということは、本作での梶原は、「モドリ」の役というほど鮮やかなドンデン返しではないにしても、「あの悪人梶原がここでは意外や正義の侍なんだ」という軽いサプライズが当初の趣向としてあったに違いないのです。本作のルーツになる「三浦大助紅梅靮」(みうらのおおすけこうばいたづな・享保15年・1730・大坂竹本座初演)も、観客が持つ悪人梶原のイメージを前提に書かれているのです。このことは「よしそれゆえに世に疎まれ、佞人讒者(ねいじんざんしゃ)と指差され、死後の悪名受けるとも、いつかな厭わぬわが所存」という義太夫の詞章を見れば明らかです。佞人讒者の梶原のイメージは、もちろん「平家物語」に綴られる義経との確執から来ます。ただし未来のことです。頼朝の石橋山での挙兵(治承4年・1180)直後の梶原に本来このイメージはないはずです。ところが「石切梶原」の梶原は、未来の佞人讒者のイメージを纏うのです。佞人讒者は梶原が意志的に選び取る未来であり、未来がこの「石切梶原」においても付きまとう。これが時代物の構造です。(詳しくは別稿「梶原景時の負い目」をご覧ください。)

吉之助は現行歌舞伎の「石切梶原」の梶原が爽やかに描かれることが悪いと言っているのではありません。そうなっていくのには、役者からの要請か・観客からの要請か、いずれにせよ何かしらの必然があるのです。多分そこに慰みとしての歌舞伎の本質があるのでしょう。それも大事なことです。ただし梶原をあまり爽やか一方に描かれると、ちょっと物申したくはなります。「あの悪人梶原がここでは意外や正義の侍なんだ」という軽いサプライズ・意外性が、本来この「石切梶原」の肝であるはずです。サプライズが軽いということは時代物の構造が弱いということではなく、むしろ背後に控える未来が重いのです。(これは「実盛物語」でも同じことです。)軽くてもそこが大事なところで、そこを思い出させて欲しいのです。そのためには梶原の「実(じつ)」がチラッとでも見えなければなりません。そうでないとサプライズの構造になりません。梶原の爽やかさは、ホントはそのサプライズから生まれるものだと思うのです。(この稿つづく)

(R2・10・16)


2)梶原の「実(じつ)」の台詞

歌舞伎の魅力は役者の魅力だというのは、確かにひとつの真実です。名優たちが繰り返し演じるなかで、「石切梶原」の梶原はだんだん爽やかに描かれるようになり、逆にサプライズの構造は次第に忘れ去られることになったのでしょう。

梶原は今は平家に仕える武士ですが、かつては源氏方であり、現在平家に仕えることの不本意(負い目)を感じ続けている人間です。平治の乱で源氏方は敗れバラバラとなり、「平家にあらずんば人にあらず」と云われた時代においては、生きるためにやむを得ず平家に仕えた源氏方の武士が数多くいたのです。これは梶原だけのことではなく、大庭も俣野もかつては源氏方の武士でした。(別稿「梶原景時の負い目」をご覧ください。)そのようななかで彼らは本心を隠し、場面によっては表面を取り繕って生きねばなりませんでした。こうして今では平家方の武士としてそれなりの地位を得ています。

「石切梶原」において、大庭・俣野の面前で、梶原は始終落着き払った態度を見せていますが、それは今は体制側である平家方の人間としての態度です。つまり梶原は表面を取り繕っているのです。舞台には見えませんが、今まさに頼朝が平家追討に決起し、世のなかは騒然としつつあります。元源氏方の人間ならば心穏やかで居られるはずがないのに、まるでそのことが眼中にないかのような、平和な鶴ヶ岡八幡宮の参詣の場です。このことの、時勢と舞台面のギャップをここで感じてください。実はこの時勢下にあってこの場で彼らは互いの腹を探り合っているのです。ところがその梶原が一瞬落着きをかなぐり捨て、生(なま)の感情を垣間見せる場面が少なくとも三つ見えます。

ひとつは俣野は二つ胴を試そうと立ち上がったのを梶原が鋭く制止する台詞、この台詞は長いですが、特に大事なのは、最後の「近頃もって無礼でござろう」という箇所です。ここでの梶原は必死です。ここで俣野に二つ胴を試させたら六郎太夫は死んでしまいます。六郎太夫を救うために、何としても自分が二つ胴をやらねばならぬのです。何故梶原は六郎太夫を救おうとするのか?それは刀の目利きの時に六郎太夫が源氏に由縁の者だと知ったからです。

二つめは、大庭・俣野が立ち去る際に刀を鈍物(なまくらもの)とあざ笑わったことを恥じて自害しようとする六郎太夫を梶原が制する台詞、これも長い台詞ですが、特にその冒頭「かほどの業物(わざもの)を切腹に穢さんとは、恐れあり恐れあり」の箇所が大事です。

三つ目は梶原が源氏(頼朝)への忠誠をはっきり吐露する台詞、これも長い台詞ですが、そのうち「佞人讒者(ねいじんざんしゃ)と指差され死後の悪名受けるとも(仁左衛門はここまでを床に取らせて・以後を梶原の台詞に取ります)いつかな厭わぬわが所存」の箇所が核心です。この台詞はカットされることが多いものですが、「梶原さまは平家方のお侍」となおも心を許さぬ六郎太夫を納得させるための大事な台詞です。

少なくとも上記三つの台詞を、梶原の「実(じつ)」の台詞として押さえておきたいと思います。(この稿つづく)

(R2・10・22)


3)梶原の心の裂け目

梶原・大庭・俣野の三人は、かつては源氏方であり、不本意ながら今は平家に仕える身です。そんな彼らが、頼朝が平家追討に決起の報を聞いて、心穏やかで居られるはずがありません。だから鶴ヶ岡八幡宮の参詣において、彼らはいつもと変わらぬ態を見せながら、実は互いに肚の内を探り合っているのです。俣野がやたら梶原に突っかかって行く理由も、そんなところにあります。結果として、大庭・俣野は「名を惜しみ」あちらに付き・こちらに付きということはしないと決めて平家に留まりました。梶原は源氏方に寝返ったわけですが、決して他人に本心を明かせません。しかし、表面を取り繕っている梶原も、思わず生(なま)の感情を垣間見せてしまう場面があります。それが前章に挙げた三つの台詞なのです。

仁左衛門の梶原は、颯爽たる生締めの風情において並ぶ者がいません。声良し・台詞良し・姿良し、決めるところはかっきりリズムに決まり、間然とするところがありません。そのことを認めたうえで申し上げますが、仁左衛門の梶原の台詞は、どこもかしこもノリ地みたいに聞こえますねえ。イヤ流れるように見事な台詞廻しです。その歌う台詞廻しは、表面を装って本心を明かさぬ梶原には、確かに相応しい。しかし、取り繕った心の殻を破るように、梶原の源氏への忠誠心が、思わず迸(ほとばし)る、そう云う瞬間があるはずです。その時、梶原は冷静では居られぬはずです。

そこに梶原の「実(じつ)」の瞬間が、聞こえねばなりません。残念ながら、台詞が全編ノリ地の如く聞こえる仁左衛門の梶原からは、そのような瞬間がよく聞こえません。そこに画竜天晴を欠きます。前章に挙げた三つの台詞を「実」の台詞として、梶原の源氏への忠誠が裂け目から熱く飛び散る瞬間を感じさせて欲しいのです。そこはノリ地で云うべき台詞ではないと思います。台詞の調子を(色を)変えて欲しいのです。全体のノリ地の流れが、そこで破綻せねばなりません。つまり吉之助のささやかな不満は、仁左衛門の梶原は優美過ぎるということなのです。そのホンのちょっとしたところを改善できれば、仁左衛門の梶原を天下一品と認めて良いのですが。

(R2・10・24)



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