清盛と俊寛〜「平家女護島」の時代構図
平成30年10月国立劇場:「平家女護島」
八代目中村芝翫(平清盛・俊寛二役)、初代片岡孝太郎(東屋)、二代目中村亀鶴(瀬尾)、四代目中村橋之助(丹左衛門)、 初代坂東新悟(千鳥)、六代目中村東蔵(後白河法皇)他
1)歌舞伎における清盛像
本年(平成30年)は平清盛生誕900年だそうです。(平清盛は永久6年(1118年)の生まれ。)平家一族の栄華とその没落・滅亡を描いた「平家物語」は、ご存じの通り日本人の心情に深い影響を与えた文学で、多くの能や歌舞伎の題材にもなっています。しかし、江戸の昔と現代とでは「平家物語」の受け止め方がだいぶ異なるようです。最も大きい違いは、江戸の昔には「平家物語」の一番のヒーローは源義経であったことです。これにはもちろん副読本としての「義経記」の影響もありました。「平家物語」の最も大きい存在であるはずの平清盛は、義経と対立する悪役的存在に位置づけられていました。
一方、現代における平清盛像は、閉塞した貴族社会の世の中に風穴を開けて・来たるべき武士社会への道を拓いた先駆者・変革者という位置付けへと、百八十度変化して しまいました。遣唐使が廃止されて以来途絶えていた中国との交易(日宋貿易)を始めたのも清盛でした。そのようなビジネスの観点からも、清盛は評価されています。戦後昭和の清盛再評価のきっかけのひとつは、昭和25年から32年まで雑誌に連載された吉川英治の小説「新・平家物語」であったとも云われています。しかし、清盛がヒーローとしてもてはやされるようになった代わりに、義経の人気はガタ落ちになって来て、今や例えば「勧進帳」や「熊谷陣屋」を見ても義経信仰がその背景にあることを理解せぬ方が多くなりました。まあ時代によって感覚は変わって来るのは仕方がないことではありますが。そこで江戸の昔の、歌舞伎における平清盛のことですが、これは悪役のなかの悪役、つまり巨悪と云うことです。ここでは藤原時平(菅原伝授)や蘇我入鹿(妹背山)のような圧倒的な悪をイメージする必要があります。これは二元論的な悪で、善という概念があってこれを善たらしむる為に存在するかのような悪なのです。江戸の世の中は、一方に源義経と云う、この世の苦しみ・嘆きを癒し慰めてくれる菩薩のようなヒーローがおり、もう片方で無慈悲な神の如く暴虐の限りを尽くして民を苦しめるアンチヒーローを設定しました。それが平清盛なのです。
ですから歌舞伎における清盛は、残虐非道な人物として民衆に忌み嫌われているわけではなく、清盛の圧倒的な権力に荒ぶる神のイメージを重ねて、民衆はこれを畏怖の念を以て見ていたのです。そう考えた時に歌舞伎に「日招ぎの清盛」のような芝居が存在することの意味が分かって来ます。「日招ぎの清盛」とは、厳島神社の造営完成間近に、日が暮れて工事が遅れかけていたところで、清盛が檜扇(ひおうぎ)をかざして西の海に沈んだ太陽を呼び戻そうとする、そうすると神通力で西から太陽が昇って来るのです。「どうじゃ我が威勢を見たか」と清盛が大笑いして居並ぶ一同は畏れ入ると云うお芝居で、その昔は俳優協会会長であった五代目歌右衛門が得意の演目にしてよく出たものでした。最近は滅多に出ませんが、まあ他愛ない芝居だと云えばその通りなのですけれども、歌舞伎のなかで清盛は巨悪として畏怖される存在であっても、決して嫌われているのではないということは理解しておく必要があります。
同様に「平家物語」は清盛はこんな悪いことをした・平家はこんな横暴をしたということを沢山記していますが、平家はいずれ討たれるべき悪の存在だった・源氏には平家を討つ大義名分があったなんてことを物語作者が書いているわけではないのです。平家がこんな 驕りたかぶった愚かなことをしてしまうのも、栄華に酔いしれた人間の哀しい性(さが)であるなあと嘆息しているだけのことです。平家だけではなく、いつの時代にも人間は同じようなことをを繰り返す、清盛ほどの偉大な人物であってもホレこの通りだと、それが「驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し」の意味なのです。(この稿つづく)
(H30・10・19)
2)清盛と俊寛の対立構図
女護島と云うのは女性ばかりが住んでいる島ということですが、「平家女護島」の外題は、作中の三段目・朱雀御所での「朱雀の御所は女護島」という一節に由来します。源義朝の妻であった常盤御前は、平治の乱で義朝が討たれた後に清盛の寵愛を受けたため世の誹りを受けていました。しかし、実はそれは義朝の子供たち(頼朝や義経ら)を身を捨てて守るためで、常盤は源氏再興の心を決して忘れてはおらず、朱雀御所に夜な夜な男を次々と引き入れていたのも、色狂いと見せかけながら、実は源氏に味方する者を増やす計略であったという趣向です。したがって序段では東屋が常盤のことを「夫義朝の白骨まで踏みたたく敵の手かけ、妾となるようなすけべいの徒者(いたずらもの)と、この東屋比べられるも口惜しや」と罵っていますが、後の三段目で実は常盤は身は汚しても心は貞女であったことが明らかとなります。序段で俊寛の妻東屋は清盛の寵愛を受けることを拒否して自害します。一方、四段目の敷名の浦の場では千鳥が清盛に踏みつけられて、「オオ踏み殺せ、食い殺せ、俊寛が養子千鳥という薩摩の海士。東屋さまは母さま同然。母の敵・父の敵の入道。法皇さまは一天の君。お命に代わると思えば、数ならぬ海士のこの世の本望。殺されても魂は死なぬ。一念の炎(ほむら)となりて、皮肉(ひにく)に分け入り、取り殺さいでおこうか」と叫んで殺されます。二段目の鬼界ヶ島の場を経て面識のない東屋と千鳥が一本の線で結ばれていますが、実は「平家女護島」のもう一本の線が常盤です。ですから「平家女護島」と云うのは、東屋・常盤・千鳥と、平家(清盛)にその運命を翻弄された 三人の女たちの物語なのです。或いは近松は「平家女護島」と云う外題に「平家を巡る女性群像」という意味を込めたのかも知れません。
今回(平成30年10月国立劇場)の「平家女護島」 は「通し狂言」を銘打ってはいますが、いつもと同じ「俊寛」(二段目の鬼界ヶ島の場)の前後に、俊寛の最愛の妻東屋が死んだ経緯(序幕)と、俊寛が養女とした千鳥の哀れな末路(三幕目)を付け足して、作中の「清盛対俊寛」の構図を明らかにしたいという目論見であったと思います。ただ序幕・三幕目ともに35分程度のダイジェストの扱いのために、段取りが忙しない。筋の最低限のところは分かるけれども(いつもの「俊寛」の理解のためにはこれで十分だろうけれども)、ドラマ的にはいささか食い足りないところがあります。芝居を見終わった後、何だか短い所作事でも一本見たい気分が残るのは、そのせいです。
まあこういう復活の通し狂言というのは、大抵の場合、いつも見取り上演されるおなじみの場面は立派に見えても、新たに復活された場が筋を通すだけか・辻褄を合わせるだけのものになり勝ちで、「これはカットされるのが当然の(取るに足らない)場だなあ、やはりいつもの見取り上演で十分だ」と妙に納得させられることが多いものです。今回の「平家女護島」にもそういう気配があるけれども、しかし、せっかくの通し狂言の機会です。このような機会は歌舞伎座ではあり得ません。国立劇場だけが出来ることなのです。常盤の件が全面カットされたのは、上演時間の制限もあることだし、仕方がないのかも知れませんが、清盛と俊寛の対立構図はもう少し膨らませても欲しかったかなと思います。別稿「時代物としての俊寛」で木谷蓬吟の「近松の天皇劇」論を紹介しました。蓬吟によれば「平家女護島」の「平家対朝廷」の構図に、近松は「徳川幕府対朝廷」の構図を擬していることになります。蓬吟は、近松の晩年の作品にはこのような朝廷への同情が強く見えるものが多いとしています。しかし、この件は本稿においてはちょっと横に留めて置いておきたいと思います。「平家女護島」を読んでも清盛の横暴ぶりはなかなかのものに描かれています。これを近松の徳川幕府批判だとストレートに読むとすると、近松の憤懣は相当抑えきれないものだったのかなとも察せられます。そのような側面があることを認めつつも、政治批判であまり強く読み過ぎることは、吉之助にはちょっと躊躇するところがあります。その点は置いておくとしても、清盛と俊寛の対立構図は、時代物として「平家女護島」を読み直す時に、とても大事な視点なのです。(この稿つづく)
(H30・10・19)
いつもの歌舞伎の「俊寛」(鬼界ヶ島の場)の芝居は、どちらかと云えば世話物的な感触に 感じると思います。それは流刑の配所に一人取り残される俊寛個人の孤独と嘆きということを芝居の焦点として、歌舞伎の型が長い時間を掛けて練り上げられて来たからです。歌舞伎では瀬尾を赤面に仕立ます。俊寛に対して必要以上に悪意むき出しの悪役にして、俊寛が瀬尾に斬りつける必然を構築して行きます。これはこれで十分に面白いですが、どうも瀬尾に対する個人的恨みで俊寛が斬りつけたかに見えるきらいがあります。そうなると殺しの動機もいささか世話っぽく感じられます。
しかし、丸本を見ると決してそうではなく、背後に清盛と俊寛の対立構図があることがそこにはっきりと見えます。例えば俊寛が倒れた瀬尾に止めを刺す場面です。歌舞伎では通常、俊寛が瀬尾に刀を突き刺してそれで終わりになります(今回上演でもその線です)。しかし、丸本では俊寛は瀬尾の首を切り落とすところまでやるのです。
『さればされば、康頼・少将にこの女を乗すれば、人数にも不足なく、関所の異論なところ。小松殿、能登殿の情にて、昔のとがは赦され、帰洛に及ぶ俊寛が、上使を切つたるとがによつて、改めて今 鬼界ヶ島の流人となれば、上御慈悲の筋も立ち、お使の落ち度いささかなしと、始終をわが一心に思ひ定めしとどめの刀、瀬尾受け取れ、恨みの刀三刀四刀じじぎる引つきる、首押し切つて立ち上がれば、船中わつと感涙に、少将も康頼も手を合わせるたるばかりにて、物をも言はず泣きゐたり。』
ここで俊寛が瀬尾の首を切り落とすことによって、「東屋が清盛公の御意に背き首を討たれた」ことに対する意趣返しであることが明らかとなります。「瀬尾受け取れ、恨みの刀」という詞章は、直截的には瀬尾に向けられていますが、実は刃は清盛に向けられています。
歌舞伎で瀬尾の首を斬り落とすとなると、段取りとしては黒衣を出して替わりの首を差し出すことになります。視覚的にもそこまでの写実の印象が崩れることになるので躊躇するところがあると思います。吉之助は昭和56年8月26日歌舞伎座での「武智鉄二古希記念公演」で1日だけ上演された武智鉄二演出の「俊寛」(俊寛を演じたのは三代目延若)で、俊寛が 瀬尾の首を斬り落とすのを見たことがあります。この場面があったおかげで「俊寛」がより感動的になったかどうかは別問題ですけれども、近松の意図がより明確になったことは確かです。今回の上演は「俊寛」一幕だけの上演ではなく通し狂言「平家女護島」なのですから、瀬尾の首を斬り落とす件を試みても良かったのではないかと思います。
今回の上演は通し狂言として見渡した時、序幕に瀬尾が登場する場面がまったくないのも、二幕目「鬼界ヶ島」との関連付ける観点からすれば、いささか工夫が無さ過ぎに思われます。いつもの「俊寛」一幕だけだと、瀬尾は偉い上使(少なくとも丹左衛門よりは偉いらしい)ということは分かるけれども、瀬尾がどれくらい高い地位の人物なのかがよく分かりません。しかし、「平家女護島」序段を読めば、実際、瀬尾は俊寛にとても近い位置にある近侍です。(丸本を読むとそうとは書いてないですが、京都時代に法勝寺執行であった俊寛は、瀬尾と互いに面識があったようにも思えますねえ。それならば「散々清盛公にお世話になったくせに」ということで腹が立って俊寛に意地悪したくなる瀬尾の気持ちも何となく分かる。)その瀬尾が御赦免の使者に立つことは清盛の名代同然ということです。(これは普通の御赦免とは訳が違います。何と云っても高倉天皇の中宮となった清盛の娘徳子の安産祈願のための御赦免です。これは平家にとっての長年の悲願でした。)序幕で瀬尾をチョイ役でも清盛と絡めて登場させておくことは、大きな意味があると思いますがねえ。
話を二幕目「鬼界ヶ島」に戻しますが、俊寛置き去りの悲劇を時代構図のうえに明確に浮き彫りするために、いつもの「俊寛」にいろんな工夫が出来ると思います。例えば前進座の三代目中村翫右衛門の型では、幕が開くと板付きで俊寛が居り、夢のなかで清盛の横暴に対する恨みつらみを長々と語り、ハッと目覚めて「・・夢か」とつぶやく入れ事がされていました。これなども通し狂言としての有機的な繋がりを付ける点で積極的な意味を持つと思います。
もうひとつ「俊寛」を見て感じる漠然とした疑問は、「瀬尾受け取れ、恨みの刀」と俊寛は言うけれども、 これは清盛に見立てているにせよ、そもそも瀬尾は俊寛から恨みを受けて首を落とされるほどそこまでホントに悪い人物なのか?ということかと思います。この疑問は丸本で も十分に解けないようです。瀬尾はいろいろ意地悪をする嫌な奴だけれど、俊寛が瀬尾個人を恨む根拠になりそうなのは、瀬尾が俊寛に「俊寛が女房は清盛公の御意を背き、首討たれた」と言い放つ台詞のみです。こうなると恨みの根拠がどうも弱いようにも思われる。そこのところを翫右衛門も気になったものと見えて、前進座台本では瀬尾が東屋が首討たれた経緯を詳しく語り、「洛中に潜んでいた東屋を探し出して清盛に差し出したのはこの自分だ」と語る場面が入れ事がされていま した。この入れ事であると、俊寛が瀬尾個人を恨む理由もそれなりに分かる気がします。(注:丸本を読むと、東屋を清盛に差し出したのは瀬尾ではなく、三位の中将重衡です。)
吉之助は、いつもの見取りの上演ならば「俊寛」は現行本で別に構わないと思いますが、通し狂言としてならば「平家女護島」の時代構図を明らかにする必要がある。そのためには二幕目がいつもの「俊寛」のままでは、あまりに工夫が無さ過ぎると思うのです。設立当初の国立劇場の理念に立ち返り、役者とも十分協議しながら、復活した前後の幕に対応した或る程度の「俊寛」の台本検討が行われた方が良かったのではないかと云うことを申し上げたいですねえ。(この稿つづく)(H30・11・1)
もうひとつ「平家女護島」を通しで見ると驚くことは、「俊寛」一幕だけで見ると想像できないほど、千鳥が俊寛に対して強い一体感を表明していることです。四段目の敷名の浦の場では清盛に踏みつけられた千鳥が「俊寛が養子千鳥という薩摩の海士。東屋さまは母さま同然。母の敵・父の敵の入道(清盛)」という台詞は、身代わりとなって島に残った俊寛を感謝していたと云うだけでは説明できない調子の強さです。これは俊寛の平家に対する怨念が千鳥に憑依したとしか考えられないものです。恐らく俊寛はあれから程なくして亡くなったのだと思われます。(四段目終わり近くで千鳥の亡霊が俊寛は死んだと清盛に告げます。)俊寛の遺志を継ぐ形で千鳥が清盛に立ち向います。ここから遡って「俊寛」一幕の時代物的性格を改めて読み直すことができます。
千鳥がここまで俊寛に強い一体感を抱くのは何故でしょうか。俊寛は丹波少将と千鳥との恋を殊の外喜び、二人の結婚に当たり千鳥を俊寛の養女にすることに同意し、「俊寛は今日始め親と頼みたきとや。この三人は親類同然、別して今日より親子の約束わが娘」と言って、水杯を交わします。流人の都人と薩摩の海士という身分の隔てなどまったくなく、俊寛はここで一人の人間として・一人の女性として千鳥に対しています。これは現代人から見ても、この時代に(劇の時代設定は平安末期ですが、ここではとりあえず江戸時代と考えます)こんな身分違いの恋があって俊寛がこれを喜んで認めたことに、こういうことがあり得たのかと新鮮な驚きがあります。これは当時の大坂の観客にとっても同じ思いであったに違いありません。これを身分制度批判だと読むとちょっと読み過ぎだと思いますけれど、確かにその要素はありそうです。ここで近松は身分の違いを乗り越えた人間愛を描いています。このことに千鳥がどれほど深く感激したかは想像に難くありません。千鳥の乗船を 瀬尾に拒否された時に、俊寛ら三人が「一人残し本意でなし。流人は一致我々も帰るまじ」と浜辺にどうと座を組んで乗船を一致して拒否するのも、丸本は「思ひ定めしその顔色」とあるように、彼らには強い一体感が見えます。
俊寛が自分は鬼界ヶ島に残って千鳥を船に乗せてやろうと決意したきっかけは、瀬尾から「俊寛が女房は清盛公の御意を背き、首討たれた」と聞いたことであったのは疑いありません。しかし、都へ帰ったら逢いたい逢いたいと願っていた最愛の妻が殺されたことを知った絶望が俊寛から生きる望みを奪って、それで彼は島へ残 って死ぬ気になったと考えると、それはちょっと違うように思います。俊寛は自暴自棄の行為に走ったのではありません。ここはやはり俊寛がどうしても千鳥を少将と一緒に都へ生かせてやりたい気持ちが先に立っていると考えた方が良い。千鳥を船に乗せてやるために俊寛が上使を斬って島へ残るという考えが後に起るのです。それが清盛の抗議・抵抗にもなることだから、俊寛は瀬尾を斬ったのです。
それがどうしてかは云うまでもないことですが、それは千鳥が俊寛の娘であるからです。そういう約束を俊寛は千鳥にしたからです。俊寛は自分の娘を少将の北の方として幸せにしてやりたいのです。だから俊寛は自分が島に残ってでも娘を都へやろうとするのです。たかが水杯交わしただけの親子の約束じゃないかと思うのは現代の感覚で、俊寛はその約束を本気で果たそうとしています。(これを義理の論理だと考える方もいらっしゃるでしょうが、ここはやはり愛の論理と考えるべきです。それは傍らに俊寛の妻・東屋への愛がはっきりとあるからです。)千鳥は「夫婦は来世もあるものよ。わしが未練で思ひ切りのない故、島の憂き目を人にかけ、のめのめ船に乗られうか」と嘆いていますから、千鳥には俊寛の気持ちが痛いほど分かっています。そうでなければ千鳥のなかに、「私は俊寛さまの娘だ」と云う、あれほど強い一体感が湧いて来るはずがありません。
「平家女護島」を通しで見ると、東屋に象徴される夫婦の愛・千鳥に象徴される親娘の愛と、そのような人間的な感情を押さえつける存在としての巨悪・平清盛との対立構図を読み取ることが出来ます。結末が東屋と千鳥の亡霊が清盛を苦しめるという月並みなところに筋が落ちてしまいますから近松の本意が見えにくいですが、通しで読み取るべきはそこです。そこで改まって台本を読んでみれば、これらの要素を「俊寛」一幕のなかに近松はすべて書き込んでいるのです。あとは読む側が 近松の本意をちゃんと読み取れるかの問題です。或いは近松の本意をすっきり筋道立てて舞台に現出できるかどうかです。
したがって「俊寛」だけでも時代構図を読み取れるはずですが、観客の興味はどうしても幕切れでひとり島に残されて泣き叫ぶ俊寛の「思い切っても凡夫心」の方へ向かってしまいます。歌舞伎は幕切れの孤独を如何に感動的にするかに細心しますから、俊寛が自分が鬼界ヶ島に残ろうと決意した経緯がどうしても軽くなってしまい勝ちです。だから歌舞伎の「俊寛」はどこか世話物っぽい印象になってしまいます。(それも解釈としては在り得ることですが、清盛対俊寛の時代構図が見え難くなってしまう。)現行の歌舞伎の「俊寛」 だと、千鳥は男だけの芝居に紅一点・色を添えるのが役割みたいに見えるかも知れませんが、実は千鳥は俊寛の決意に大きな役割を果たしているわけです。(この稿つづく)
(H30・11・5)
先月(9月)歌舞伎座では吉右衛門が、感動的な「俊寛」の舞台を見せてくれました。その観劇随想でも触れましたが、吉右衛門の俊寛は感情表現が細やかでまさに世話の俊寛と形容したいものでした。自らの意志で島に残り・未来に救いを求める俊寛の心境がよく表現されていました。これは在来型の世話っぽい「俊寛」としては、理想的な形を見せたものと云えます。この名舞台の翌月になる今回(平成30年10月国立劇場)の「平家女護島」通しは、これとどうしても比較されてしまうのが損な巡り合わせではあります。
以下第二幕「鬼界ヶ島」を中心に述べますが、史実の俊寛は 、40歳になるやならずで亡くなったと思われます。歌舞伎の俊寛は、老人みたいな弱々しい風体で描かれることが多いと思います。しかし、東屋と云う恋い慕う妻がいるくらいですから、ホントはまだまだ血気盛んな壮年であるのです。今回は通し狂言なのですから、芝翫ならば53歳という若さで役を自分の方へ引き寄せて演じれば良いのです。芝翫は持ち味である時代物役者の線の太さが出て、一応のことはやってはいます。幕切れで沖合かなたの船を見詰める俊寛の目付きにまだ執念のような強いものが見えるのは、壮年の俊寛ならばさもありなんです。いつもの歌舞伎の俊寛は、諦観し過ぎるきらいがあるからです。そこはクリティカルな箇所として、大事なところを突いてはいるのです。しかし、その最後の俊寛の目付きが舞台で十分生かせていると云えないところがあります。それは鬼界ヶ島の場がいつもの「俊寛」のままで、時代物としてしっかり位置付けされていないからです。それと舞台を見る側に先月の歌舞伎座の吉右衛門の細やかな俊寛が脳裏に残っていることもあって、芝翫の俊寛が演技の細やかさ・感情の表出において大雑把に見えるのも若干損ではある。またこれは全体的に云えることですが、鬼界ヶ島の住人のみなさん、台詞が元気良く一本調子で、流人生活で悲惨を囲っているようには見えません。例えば俊寛が婚礼の祝いの舞を舞おうとして思わず転ぶ、そこで互いに顔を見合わせて悲哀を交えて泣き笑いする、そういうところの枯れた味わいにアンサンブルの成果が出て来るわけですが、比較するのが酷ではあろうけれど、そういうところが前月の歌舞伎座の舞台と比べて見劣りがします。
それでも通しのなかに「鬼界ヶ島」(俊寛)をどのように位置付けるか、或いは従来型の「俊寛」から新しい視点を引き出せるかというところがあれば、通し上演の意義が見い出せると思います。これは国立劇場制作サイドの領分だと思いますが、通し上演の意図を明確にするために、二幕目にいつもの「俊寛」ではない、もう少し思い切った工夫があっても良かったように思いますねえ。思えば設立10年くらいまでの国立劇場は、在来の歌舞伎の型を再検討して見ようとか、或いは廃絶した型を復活してみようというチャレンジ精神がありました。役者もその試みに積極的に応じたものでした。近年は安全志向なのか、役者がまったくチャレンジしなくなりましたねえ。国立劇場はもっと独自性を打ち出すことを考えても良いのではないでしょうか。
(H30・11・6)