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唐人殺しについて

平成29年10月歌舞伎座:「漢人韓文手管始・唐人話」

四代目中村鴈治郎(十木伝七)、八代目中村芝翫(幸才典蔵)他


1)「唐人殺し」について

「漢人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)・通称唐人話(唐人殺しとも云う)はあまり上演されない珍しい芝居で、吉之助は巡り合わせが悪くて今回初めて見ましたが、なかなか興味深く見ました。こういう珍しい狂言の掘り起しは有難いことですね。ところで「漢人韓文」は、実際に起きた外国人殺しを材料に芝居に仕立てたものですが、本作が現在上演されている歌舞伎の筋立てに至るまでにはかなりの変転を経ており、経緯は複雑であるようです。

明和元年(1764)に起きた通辞殺し(通辞とは通訳のこと)は、朝鮮国からの使節の将軍謁見に絡んだものです。これを唐人殺しと呼ぶのは、当時の人々が「唐人」と云う 語句を外国人の意味で使ったからです。饗応の役は、対馬の城主でした。江戸での将軍謁見の儀は首尾よく終わって、一行は江戸を出発して大坂へ入り、同地を見物しました。ところが4月7日明け方、対馬の家来で通辞役(通訳者)の鈴木伝蔵が、使節随行の崔天栄という者を旅館寝間において殺害し逃げたというものです。逃亡した伝蔵は摂州小浜で捕まって磔刑に処されました。遺された伝蔵の書置に拠れば、前日6日暮れに、使節随行の一人と口論となり、大勢の人の居るなかで杖で散々に打擲され恥をかかされたため、これを恨みに思っての犯行であったとのことです。「漢人韓文」の舞台を見ると、実説とはだいぶ様相が異なるようではあります。

当時は芝居に対するお上の干渉が厳しかった時代でした。ましてやこの種の事件は外交にも係わるもので、容易に劇化出来るものではありませんでした。しかし、鎖国下での世の中では外国人殺しという珍しい事件への民衆の関心は高かったようです。場所を大坂から長崎に変えたり、設定をいろいろ工夫しながら、いつくかの筋が試されました。そのなかで三年後の明和4年大阪嵐雛助座で上演された並木正三による「世話料理鱸包丁」(せわりょうりすずきのほうちょう)という芝居が、唐人殺しの最初のものであるようです。これは意外と実説に近いものだったようで、題名の鱸(すずき)に犯人の鈴木伝蔵を入れているところなど実に大胆ですが、たった2日で大坂奉行所から上演差し止めを食らったそうです。

「漢人韓文手管始」を書いた並木五瓶は、並木正三の弟子に当たります。当然、五瓶は師匠の失敗を教訓にして、慎重に「漢人韓文」を書いたに違いありません。五瓶による「漢人韓文」は寛政元年(1789)7月大坂角の芝居で上演されましたが、その内容はお上を憚って丸山の遊女を巡っての侠客の達引きに仕立てられたもので、現行上演本とはかなり異なるものだそうです。その後、享和2年(1802)に京都で上演された浄瑠璃「拳廓大通」(けんまわしさとのだいつう)では、時代も下ってお上への配慮がさほど必要なくなったのか、実説の通辞殺しにやや戻った形になりました。この「拳褌」が唐人殺しのもうひとつの流れになるものと思われます。

寛政6年(1794)、五瓶は招かれて活動拠点を大坂から江戸に移しました。五瓶の江戸歌舞伎への移籍は、これまで上方に遅れを取っていた江戸歌舞伎の作劇水準を大きく飛躍させたものとして、歌舞伎史上でも重要な出来事です。(これが後の四代目南北の時代に繋がって行きます。)五瓶は文化元年(1804)9月市村座のために「漢人韓文手管始」(五代目幸四郎の典蔵、三代目宗十郎の伝七、この配役はなるほどと思います)の台本を書いていますが、この時に「拳褌」を踏まえて旧作の大幅な書き直しがなされたようです。現行上演台本は、概ねこれを基にしているものと思われます。その後も上演の度にどこかに少しづつ手が入っており、定本と云えるものはまだ出来ていないようです。今回の舞台(平成29年10月歌舞伎座)を見ても、国分寺客殿は何となく「忠臣蔵」の喧嘩場を想わせる場面あり、また奥庭は「伊勢音頭」の殺し場を想わせる場面あり、まあそこはそのように見て楽しめば宜しいのだろうと思います。(この稿つづく)

(H29・11・3)


2)通辞の役割

舞台を見ると国分寺客殿の場が何となく「忠臣蔵」の喧嘩場を思わせると書きましたが、本来のものとは若干感触が異なるかなという気がしました。喧嘩場の場合は、判官は師直に一方的に虐められますが、判官の方にはそこまでされる理由がまったくないのです。一方、典蔵が高尾に好意を寄せており扇子に事よせて伝七に恋の取持ちを頼んだつもりが、高尾の口から伝七とはとうの馴染みと聞いて、欺かれたと怒って急に態度を翻します。これが客殿で唐使への献上の品物を突き返して主人の相良和泉之助と伝七に大恥を掻かせるクライマックスに繋がるわけですが、舞台を見ると、典蔵は元々良い人だったのが、行き違いの誤解による恋の遺恨で怒り心頭となり、意地悪で仕返ししたという感じに見えます。この行き違いさえなければ、二人はいい御友達であり続けたであろうと見える。これは芝翫(典蔵)と鴈治郎(伝七)のニンならばこうなるかと云うところもありますが、まあこれはこれで楽しめます。なるほどこう云う感じなら、さほど毒がないドラマになって、作者はあんまり幕府の検閲を心配することは無さそうではある。

いつの時代でも外交は気を遣うものです。異なる言語を介してコミュニケーションするわけですから、日本人同士のつきあいとは別次元の気遣いが必要になります。当時においては、通辞(通訳)の役割はとても重要でした。外交の鍵を握っていたと云っても良いくらいです。外交相手の言うことを間違って翻訳されたら困ります。自分が言うことを意図的に違う翻訳をされてしまえば、大変なことになります。外交相手に余計なことを吹き込まれても困る。要するに、通辞にちゃんと正しい仕事をしてもらわないと非常に困るわけです。ところが外交相手に気を遣うより前に、通辞の方に気を遣わねばならないという変なことになる。通辞に臍を曲げられると困るので、関係者がご機嫌伺いを始めるということになる。どうやら史実の唐人殺しの、鈴木伝蔵と通辞とのトラブルも、発端はそんなところにありそうです。これは幕府の対朝廷関係の儀式の礼儀作法を取り仕切っていた高家筆頭の吉良上野介が本来の大名としての格とかけ離れた大きい権力を持って威張っていたのも、これと似たようなことです。

だとすれば典蔵も、通辞の地位を利用して美味い汁を吸おうと云う腹黒い輩に描くことも考えられると思います。典蔵の願い通り高尾に話を通してもらえれば、良い顔を見せて、いろんな無理も通してくれる。金も都合してくれる。贋物の菊一文字の槍も本物だと云ってくれる。けれど、それは下心あってのことなので、願い通りに行かなければ、嫌がらせもするし、恥も掻かせる、やりたい放題というわけです。だから和泉之助・伝七の側も真っ白というわけではないので、賄賂(この場合は高尾ですが)を以て典蔵に取り入ろうと云うのだから、これも同じ穴のムジナだとも云えます。伝七も清廉潔白ではありません。(このことを考えれば、伝七と云う役がピントコナではないことは明らかなのです。ピントコナは無垢でなければなりません。)こういう御友達の仲がこじれると、大体、知らぬ存ぜぬ、記憶にない、記録がないということになります。まあいつの時代でも似たようなことがあるものです。「漢人韓文」では恋の遺恨のいざこざのオブラートで包み隠されているけれども、このドラマで本当に考えなければならないのは、こういう点かも知れませんね。文政元年9月市村座での「漢人韓文」での、五代目幸四郎の典蔵と云う配役は、そんなことを想像させてくれます。

(H29・11・7)




  
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