十一代目海老蔵初役の河内山
平成27年11月・歌舞伎座:「天衣紛上野初花〜河内山」
十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(河内山宗俊)他
1)五代目三升の河内山
吉之助が師匠と仰ぐ武智鉄二の思い出話ですが、いつ頃のことか・その昔・関西の巡業で五代目市川三升の「河内山」の舞台を見たことがあったそうです。三升のことをご存知ですか。三升は死後に十代目団十郎を追贈されましたが、九代目団十郎の娘婿で元・銀行員でした。九代目が跡継ぎのないまま亡くなりましたので 、成田屋の伝統を絶やしてはならぬと云う使命感で脱サラして中年で役者になったのです。後に七代目幸四郎の長男を養子にすることができましたから、それがつまり十一代目団十郎ですが、立派に中継ぎの役目を果たしたわけです。しかし、中年になってからの役者でしたからもちろん技芸的には心もとないもので、成田屋の旦那ということで立てられはしましたが、歌舞伎座ではあまり役を付けてもらえず、地方巡業などで舞台に出ることが多かったようです。その三升演じる河内山のことです。幕切れで松江候を嘲笑うところで、誰もが「バァカァメエェェ、ガハハハ・・」とやるところを、三升はただ「バカ」と言って・声も立てずに鼻で笑うので、武智はやっぱり台詞が言えない役者は駄目だなあと思ったそうです。ところが、後年、そのことを七代目三津五郎に話したら、三津五郎は「九代目はそうやったんです」と言ったので驚いたというのです。三津五郎はこう言ったそうです。
「波野(初代吉右衛門)のあの幕切れの笑いはいけませんよ。かりにもお数寄屋坊主とお殿様ですから品良くなければ。堀越(三升)は九代目のやることをそっくりそのままやっているのでございますよ。ただ、できないだけでございましてね。」
黙阿弥の「天衣紛上野初花」は明治14年3月・東京新富座で、九代目団十郎の河内山宗俊・五代目菊五郎の片岡直次郎などにより初演されました。その後、河内山は七代目幸四郎・初代吉右衛門らに受け継がれ、現在に至ります。まあ九代目がそうやったからと云って、後継が同じようにやらなければならないものでもありませんが、幕切れの花道での河内山は九代目はただ「バカ」と言うだけで張り上げもせず・高笑いもしなかったというのです。それがいつの間にか「バァカァメエェェ、ガハハハ・・」とやるようになったということです。確かにこの方が芝居としては痛快で・溜飲が下がると感じる方も少なくないと思いますが、 芝居としてどちらが面白いかというのは本稿での話題ではありません。どうして九代目はただ「バカ」と言うだけで張り上げもせず・高笑いもしなかったのかということを考えたいのです。
河内山宗俊(正しくは宗春)は十一代将軍家斉の時代の実在の人物で、お数寄屋坊主というのは茶道に通じた奥坊主のことです。将軍主催の茶会を仕切ったり・将軍の周囲の人たちに茶道を指導したりしました。身分は高いわけではないのですが、将軍に近いところにいるから・別に権限がなくても「ご直参だ」と威張れるわけです。だからその地位を利用して怪しげなことを働く人物もいたかも知れません。例えば河内山です。芝居での河内山は上野輪王寺宮の御使僧に化けて松江候の屋敷に乗り込みますが、宮の格式は徳川御三家並・時にはこれを越すほどであったということですから、大名でも頭が上がらないほどの権威がありま した。御使僧に化けるためには、故事来歴や和歌の薀蓄やら細かい約束事にも通じていなければ、たちどころに見破られてしまいます。だから河内山はただの大胆不敵なならず者ということでなく、それなりの教養人だということです。ですから芝居では松江候に対してまんまとしてやったということですが、河内山にはそれなりの品位が必要です。大名に対し「ざまあ見やがれ、バァカァメエェェ、ガハハハ・・」と嘲笑 って家来たちが居並んでいる前で恥をかかせるなんてことをするはずがないのです。かりにもお数寄屋坊主とお殿様ですから品良くなければ。だから九代目はただ「バカ」と言ってちょっと鼻で笑うだけで済ませたということだと思います。(この稿つづく)
(H27・11・27)
2)九代目団十郎の河内山を想像する
この芸談についてはまだ考えてみなければならないことがあります。それは「河内山」の初演が明治14年3月・東京新富座であったということです。この芝居が企画されたのは、この年3月1日から上野で第2回内国勧業博覧会が開催されることになっていたので上京する人々を当て込んだのですが、もうひとつ、この明治14年の前後数年間の大事なポイントは演劇改良運動の機運が最も高かった時期だということです。演劇改良運動というのは、歌舞伎の荒唐無稽な筋立てを排して貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにして、作り話(狂言綺語)をやめようという動きで、役者では九代目団十郎がその先頭に立っていました。演劇改良協会の重鎮・末松謙澄・依田学海など学者連中の批判の矛先はつねに旧劇(歌舞伎)の権化というべき黙阿弥でした。対する黙阿弥も「天衣紛上野初花」は講談ネタとは云え、本作では筋の荒唐無稽を排し・人情を機微細やかに描いた辺りに演劇改良推進派の批判を 強く意識していたことが明らかです。黙阿弥は黙阿弥なりの手法で彼らの批判に対処したわけです。そして本作で河内山を初演した団十郎も、この時期の演劇改良運動の影響が演技に何かしら反映したと想像して良いはずです。
『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)
明治初期という時代は、民衆は江戸の封建社会から解き放たれて自由を感じ、変革の気分が自ずと湧き上がるような時代でありました。そのような時代の気分を表現する為には団十郎の芸風が最もふさわしいもので した。それが「肚芸」と呼ばれる、言葉を少なくして・演技を簡潔にして余韻を持たせる団十郎の演技でした。例えば従来の歌舞伎ならば「夢であったか」と七五調に口調を揃えるところを、「夢か」と簡潔に言い切る、それでいて大雑把な演技にならずに・感情がこもった太い芸を見せました。
この時期の団十郎が演劇改良運動に熱を上げていたことを考え合わせれば、団十郎が河内山を「バカ」とひと言いって意気揚々と花道を去って行ったということは、なるほどそうだろうなあ・ここは団十郎ならばやはりそうやるべきところだなあと感じますねえ。幕切れのひと言というのは芝居の勘所です。ここを七五調の息で「バァカァメエェェ」なんて言うのは、間延びした感じで団十郎の芸風には何だかそぐわない。それは演劇改良協会の連中が嫌うところの、いわゆる旧劇の言い回しだからです。ここのところは強調しておきたいと思いますが、型の心を学ぶということは例えば団十郎なら団十郎の発想を学ぶということです。団十郎ならば肚芸・簡潔というところがキーワードです。そのコツさえ分かれば、団十郎ならばここはこうやったかなあということが何となく想像できるようになります。(この稿つづく)
(H27・11・29)
3)海老蔵初役の河内山
実説の河内山は文政6年に捕らえられて獄死しました。一説に拠れば河内山は水戸藩が財政難のために官許のない富くじをしていたことをネタに同藩をゆすったため捕らえられ、口封じで毒殺されたらしいとも云われています。大名を強請るということは、生半可な覚悟ではできない、命を懸けた行為なのです。黙阿弥の「天衣紛上野初花」で河内山が松江候を強請るエピソードも同様に考えた方がよさそうです。
ところで歌舞伎の「河内山」の幕切れが、九代目団十郎のやり方から現行の「バァカァメエェェ、ガハハハ・・」に変わっていった過程については、時代が下って江戸のリアルな生活感覚が次第に薄れて来たことが背景にあると思いますが、もうひとつ、品格のある高僧が正体を見破られると一転して威勢よく啖呵を切るという・イメージの落差を大きく付けて、芝居をもっと面白く見せてやろうという意図が働いているでしょう。確かに玄関先の場面の勘所はそんなところにあるかも知れません。そのせいか近年の河内山は愛嬌が勝って「生意気なお殿様をちょっとからかってやったぜ」という悪戯感覚にも見えて、強請りという行為が軽く見えてしまう感じがします。十七代目勘三郎の場合は持ち前としての愛嬌が良い方に作用していましたけれど、それを覚えている後の役者が愛嬌を前面に押し出そうとするとちょっと間違うようです。「悪につよきは善にもと」という台詞は、権力者に反抗して弱きを助け強きをくじくという義賊の心意気を示すものなのですから、もう少し線が太くありたいものです。
海老蔵初役の河内山ですが、白書院で上野輪王寺宮の御使僧に化けて登場したところは、水も滴るようで、確かに延命院日当を思わせる艶やかさです。しかし、声の甘ったるい遣い方にどこか「皆さん、ご存知ですよね、ボク、化けてるんだよ」という愛嬌を感じますね。まあ海老蔵がこうしなければならないのは、前場の質見世がカットされているせいもあるでしょう。質見世がないから河内山が松江候の屋敷に乗り込む経過が観客によく分からない。だから観客のために最初から尻尾を出しておかねばならないということになるのです。これは場割りに大いに問題がありそうです。やはり「河内山」では質見世から出す様にしてほしいと思います。
玄関先の河内山については、平成の時代には「バァカァメエェェ、ガハハハ・・」が定型なのですから、
吉之助は別に海老蔵に九代目団十郎のやり方でやるべしと言うつもりはありません。それにしても、有名な「悪につよきは善にもと・・」の七五調の長台詞は、海老蔵に限らず・どの役者の河内山も、吉之助の耳には写実に聞えませんね。もしかしたら背後から切りつけられるかという状況での長台詞は、のんびり様式美に浸って歌うなんてことであって良いはずがありません。海老蔵の七五調はねっとり伸びたような感じがします。もう少し台詞に勢いが欲しい。七五調をどう言えば写実にできるかは別稿「七五調を写実にしゃべるためのヒント」に触れましたから、ここでは繰り返しません。「これが黙阿弥の様式美だ」という思いこみを排除しないと、歌舞伎の黙阿弥物はますます形骸化したものになりかねないと思います 。(H27・12・3)